第3話 "王都へ"
1、
視界が白くけぶるほど、強い雨が降っていた。ルミナは槍を残して姿を消していた。彼女を探すために屋敷の外に出たシドウは、門扉の近くでしゃがみ込んでいる人影を見つけた。
長いツインテールの金髪が、雨を含んで重そうに濡れている。地面にも身体にも雨粒が跳ね散る中で、ルミナは身じろぎひとつせず身体を丸くしていた。
――『おとうさぁん』
遥か昔。彼の手を引いていたルミナの舌ったらずな声が、一瞬、脳裏に蘇ったような気がした。
シドウはわざと足音を立ててルミナの背中に歩み寄った。彼女の視線の先で、アリウムの花がひとつ、大粒の雨に打たれていた。
「……何?」
ルミナが首だけわずかに振り返り、その翠色の目でじっとシドウを見つめた。
「何って……それはこちらの台詞だ。こんな雨の中、何をするでもなく道端に居座って、いったい何を考えてる」
シドウがそう言うと、ルミナはシドウから目線を逸らし、深くうつむいた。
雨脚は強くなるばかり。
木々や草花の葉に、雫が白く飛び散る。
ルミナの肩にかかる緑色の上衣は、長いこと雨に打たれて、重く、濃い色に変わっていた。
「言ったって、どうせまた否定するんでしょ。私なんかじゃ無理だとか」
拗ねた子どものような口調。
「無理とまでは言わんが……まあ、そうだな。『他の道を探せ』とだけ言わせてもらう」
ルミナはうつむいたまま、何も答えない。どうしてこうも諦めが悪いのか。シドウは苛立たしげに言葉を重ねた。
「昨夜の件で分かったはずだ。魔物どもと関わってもろくなことにならん。年端も行かん娘子となればなおのこと。ただのエサやりに貢献するようなものだ」
「そんな言い方――」
「それに」
語調が強くなった。感情的になりすぎているのが自分でもわかった。だから、努めて冷淡に、彼は続けた。
「こういった問題は日陰者の仕事だ」
適材適所、という言葉を彼は口にする。
「そっちは今まで通り日の当たる場所で過ごしていればそれでいい。……無理に誰かの跡を継ぐ必要はない」
「……でもあんたの言う日向と日陰は、絶対にどこかで交わるわ。昨夜の人たちだってそう。普通の世界で生きてても、突然理不尽な影に呑まれる。それならどっちで生きようと変わりはないでしょ」
「それは……そうかもしれんが」
シドウは口ごもった。
彼女の言うことはある種正論だった。絶対に安全な場所など、この世界のどこにも存在していない。
「……っていうか」
ルミナは立ち上がり、キッとシドウを睨んだ。
「まだ会って間もないのに、あなたに何がわかるのよ」
その声色は、強いけれど、泣きそうな色を孕んでいた。華奢な拳がぎゅっと固く握られていた。
「とにかく私は……魔物を……」
途端、彼女は大きくくしゃみをした。くしゅん、くしゅん、と立て続けにくしゃみは続く。
シドウはひとつ溜息をつくと、ルミナを強引に小脇に抱えた。
「ちょっと! 何するのよ!」
彼の腕の中で、ルミナが手足を振り回して暴れる。構わずシドウは足を進め、屋敷の門をくぐった。
「離しなさいよ! 聞いてるの!?」
シドウは早足で屋敷の敷居をまたぐと、ずかずかと奥に進んでいった。石で敷かれた床が、彼のロングコートから滴った水を転々と光らせていた。シドウは風呂場のドアを開き、その中に乱暴にルミナを投げ入れた。
ルミナの背後で、たっぷりと湯を張られた湯船がもわもわと湯気を立てていた。
「風邪を引かないよう、湯船は百数えてから出るように」
以上、と短く言い捨て、シドウは風呂場のドアを閉めた。
「え、ちょっ待っ」
壁越しに声が聞こえたが、彼は無視してその場を立ち去った。
――今日は全くツイてない。
クレアは雨に追い立てられるようにしながら、中庭から屋内に逃げ込んだ。ようやく吊り下げから解放されて、ベンチで気持ちよくうたた寝をしていたかと思えば、いきなりの土砂降りだ。しかも屋敷の入口までが遠かった。
おかげですっかり濡れ鼠になってしまった。髪からも服からもびたびた水が滴り落ちる。
ぶる、と寒さに身震いをしたところで、クレアはあることに気がついた。
浴室から湯気が漏れ出ている。
「なんだ、お風呂沸かしてあるじゃん」
ちょうど身体が冷えていて、温まりたいと思っていたところだった。さすが、シドウは気が利く。弾むような足取りで風呂場に向かい、ドアを思い切り開け――クレアは固まった。
そこに、下着姿になったルミナがいた。
ルミナはクレアの存在に気がつくと、羞恥と怒りとに顔を紅潮させながら、目を見開いた。
「あ……いや……えっと」
クレアは頭が真っ白になった。目を泳がせながら、早口で言い訳を重ねる。
「つ、つい、いつものノリでですね……この可能性は考えてなかったっていうか……いやほんと悪気はないんでその槍降ろして――」
ああああああああああああ、という絶叫が、屋敷中に轟いた。
次の瞬間には槍が目の前に突き刺さっていて、腰を抜かしている自分がいた。遅れて風呂場のドアが強く閉められる音がした。
槍は固い床に亀裂を入れるほど深く突き立っていた。無意識だったが、間一髪で避けたようだ。肩で息をしながら、クレアはいやな汗が止まらなかった。
「……なかなかの威力」
いつの間にか近くにいたシドウが、ぼそっと呟いた。
くそう、他人事だと思いやがって。誰のおかげでこんな状態になったと思ってるんだ。
クレアがやり場のない感情を抱えていると、「修繕費は小遣いから天引きな」と無慈悲な声が頭上から振った。
「僕の!? 嘘でしょ!?」
声が裏返った。
「まあ、それはそれとして、1つ頼みがある」
こいつの切り替えの早さはなんなんだ。僕は酷い目に遭ったばかりなのに。心中で毒づくクレアに構わず、シドウは淡々と続けた。
「雨が上がり次第、再度あいつに道案内をしてやってくれ。今度はしかと家まで、な」
そう、念を押される。
クレアはどこか奇妙な感覚を覚えた。
「うん……まあ、良いけどさ」
煮え切らない返事をして、迷った末、尋ねた。
「どうしてそこまであの子に肩入れするの?」
「お前が気にするような話じゃない」
一蹴される。
――はあ、そうですか……。
こいつの秘密主義にもほとほと困ったものだ。これ以上情報を聞き出すのは無理だろうと踏んで、代わりにクレアは言った。
「というか、もういっそ君が行けば良いんじゃない?」
「俺はこの後すぐ仕事がある」
「ああ、そっか、今日だったっけ」
クレアは頭の後ろで手を組む。
「どれくらい空けるの? 王都まで行くんでしょ?」
「二、三日だとは思うが、向こうでの滞在日数によるな」
シドウはそれから、朝食の準備をしておいたこと、それ以降の食事は適当に済ませて欲しいということ、それから、急を要する依頼が来た場合はクレアの一存に任せることを言い残し、玄関へと向かって行った。
同時に、迎えの馬車が家の前に着く音がした。シドウが二、三の挨拶を交わす声と、扉の閉まる音が響き、そのまま馬車の足音は遠ざかっていった。
――さて、どうしたものか。
どのみち、あの子が風呂から上がるまで身動きは取れない。脚を組んだままぼんやりとしていると、きぃ、と扉の開く音がした。
「いやー、さっきはごめんね。ちゃんとあったまった?」
クレアがにこやかに問う。ルミナはじとっとした目をしたまま、黙りこくっていた。
重い、沈黙。
「……覗き魔」
「ホントごめんて……」
それより、とクレアは立ち上がる。
「ご飯食べよ、ご飯! 朝食はシドウが――」
言いかけて、ちらとリビングを除く。今日は二人分だが……さすが用意周到なシドウだ、ちゃんと二人分の朝食が食卓に揃っていた。
「ささ、席について」
喋っていないと気まずさにやられそうで、クレアはルミナを席に座らせた。
ルミナはしばらく例の剣呑な眼差しのままだったが、食卓に並べられた皿を見ると、ふわりと表情を緩めた。
「いただきます」と行儀よく手を合わせ、すぐに食事に手をつけはじめる。
「そういえばさ、なーんか違和感あるなと思ったら、髪、下ろしてるんだね」
クレアは何気なく口にした。
さっき――というのは忘れたい記憶の筆頭に入るが――見た時もそうだし、昨日も、ルミナは髪を高い位置で二つ結びにしていた。
こうして髪を下ろしているのを見ると、結んでいた時にはあったあどけなさが消えて、幾分か大人びて見える。
「あー、」ぱくり、とソーセージを口に含んで、ルミナはもぐもぐと咀嚼した。呑み込んで、続ける。
「それはそうよ。湯浴みのときまであの髪型でいるのは無理があるわ。それに、あれって結ぶのに結構手間かかるし……」
そうなんだ、と返事をすると、会話が止まってしまう。女の子って色々大変だよなあ、と心中で呟き、クレアも温野菜にフォークを立てた。
しばらく、黙々と食事をする時間が続いた。ルミナは皿の中身を早いペースで口に運んだ。昨晩も何も食べずに寝入ってしまっていたから、彼女の空腹感は相当なものだったのだろう。
シドウの腕前もさることながら、農業による食糧生産がさかんなイステリア地方は、食材の質もいい。今日の野菜も美味いな、と思いながら食事を進めていると、ルミナが自分の皿をじーっと見つめていることに気がついた。
「……食べる?」
「いや、違うの。あんたって菜食主義なの? そのお皿、緑ばっかり」
「そういうわけじゃないんだけどね。ちょっと、肉類は苦手でさ」
「ふーん」
興味なさげに言って、ルミナは切り分けたソーセージを再び口に運ぶ。
「勿体ないわね、こんなにおいしいのに」
「へー、そんな美味しいんだー」
にやにや笑うクレア。
「え……その言い方なに……」
「いやー、てっきりまた昨日みたいに『普通』って言うのかと思ってたからさー」
「う……」
昨日シドウにいじめられたことを思い出したのか、ルミナが顔をしかめた。
「ま、まあ……美味しいのは事実だし。実際ちょっと癪だけど……味付けも好みだし」
「ほほーう」
ルミナはますますばつが悪そうな顔をする。さすがに可哀想になって、「ちなみに、自分で料理したりとかは?」と、クレアは話題を変えた。
変えたのに、ルミナは表情を和らげるどころか、ぴき、と固まってしまった。
クレアは何かを察した。
「と、得意なことと苦手なことは人それぞれだからね! そんな気にすることないと思うよ! うん!」
「……ケーキ」
ルミナが暗い表情で呟いた。
「ん?」
「ケーキを焼いてたはずなのに、かまどから炭が出てきた話、する?」
「ケッコウデス」
なるほど、相当な腕前の持ち主のようだ。悪い意味で。
「とはいっても、実際僕も料理は全部丸投げだからなー。上手い下手はともかく、やろうとしてるだけえらいと思うよー」
「炭でも?」
「炭でも」
……いや、やっぱ炭はダメだと思う。
クレアが苦笑いを作った時、さ、と食卓に光が差した。雨脚は遠ざかり、雨だれの音がぽつりぽつりと続いて、止んだ。窓の外を見ると、太陽が雲間から顔を出しているところだった。
「お、止んだねえ。通り雨だったのかな」
クレアが言うと同時に、ルミナも窓の外を見上げた。
「なんにせよ、食べ終わったら家まで送っていくからそのつもりで――」
言い終わらないうちに、コンコン、とノックの音が響いた。
「ん? 誰だろ」
食事もそこそこに、クレアは席を立った。リビングを抜け、応接間を横目に、廊下を玄関まで歩く。
「はいはーい、どちら様で」
ドアを開けた瞬間、「あらー?」と聞き覚えのある声がして、クレアの背筋に緊張が走った。
白地の絹のワンピースを着た少女が、長身の若い男を連れて立っている。少女は優美な笑みをたたえており、若い男はというと、むっつりとした表情でこちらを見下ろしていた。
「たったひと月会わなかっただけで、忘れられてしまったのかしら」
そうからかう声は、鈴を鳴らしているような、楽しげな響きを伴っていた。
「あー、いやー、なんというか、オヒサシブリデス」
「ええ、本当にお久しぶりね。ご機嫌いかがかしら、便利屋さん?」
2、
突然の来客で、クレアは席を立ってしまった。目の前の皿を空にしてしまって、暇を持て余していたルミナは、興味本位で話に聞き耳を立てていた。……が、いつも軽薄な調子のクレアが、かしこまった様子で応答をするのが聞こえた。
好奇心に任せて、ルミナは客が通された応接間を覗いてみることにした。
「ええっとですねー、来るときは事前に知らせてほしいんですけどー」
困ったように頭を掻くクレアの視線の先には、腰ほどまできれいな髪を伸ばした少女。年は同年代か、少し上くらいか。「あら、ごめんなさい」と口元に手を当てる様は淑やかで、すっと伸びた背筋にもどこか品位の良さが感じられる。
「あまりにも暇で暇でしょうがなかったから来ちゃったわ。次からは“一応”気をつけるわね」
「いや、一応って……この状況で何かあったら大目玉喰うのうちなんですからね」
クレアは苦々しげだが、彼が敬語を使っているところを見るに、身分の高い人間なのだろう。いかにも深窓の令嬢、といった感じ。
少女のすぐ後ろのドアに、ひとり、若い男が不愛想に立っている。
「しかも今は僕一人しかいないし。……ホント勘弁してくださいよー」
「あら? 今日は彼不在なの? てっきりいるものとばかり思っていたのだけれど。これは当てが外れたわね」
「王都に向かうためにさっき出ていきましたよ」
言って、クレアは怪訝そうに首を傾げた。
「というか、知らなかったんですか? 今日のこと聞いてそうに思えるんですけど」
「ああ……そういうこと」
少女は長い睫毛を伏せた。「当然、知るわけがないわね」
膝の上で重ね合わせた両手を見つめている。
「むしろ、お兄様のことだから訊いたところで答えてもくれないわ。公務ならなおさらね。――ところで」
少女の双眸がこちらを向いたので、ルミナは慌てて身を隠した。
「そこの扉からじーっとこちらを眺めていたのは、いったい誰なのかしらー?」
ばれている。
心臓が早鐘のように鳴った。ほどなくして、例の、無口な男が扉を開けた。
その男の妙な覇気に気圧されて、ルミナはおずおずと部屋の中に顔を出した。
「えーっと……」
「あら、見かけない顔ね」
少女は物珍しげに言い、こちらに歩み寄ってきた。
「と、いうことは、もしかして、あなたが三人目なのかしら?」
「さ、三人目?」
何のことやらさっぱりわからないルミナに、少女が説明する。今朝、「この辺りでは滅多に出ないような大物の魔物が現れ、昨夜のうちに討伐された」という知らせが来たこと。
「あー、もしかしなくても、やっぱそのことで来たんですかー」
「ええ、当然でしょ?」
少女がクレアに向き直った。ワンピースの裾がふわりと翻る。
「こんな面白そうな話のネタ、そうそう転がっていないわ。良い暇つぶしになると思ったのよ」
少女の笑みはどこか無邪気で、ちっとも悪びれた様子がない。
「何より、それだけの大物相手に、何の準備もなく即座に対応できるあたり、ココが関わっているとは思ったのだけど。聞くところによれば、被害者の親子を除いて二人ではなく三人いたっていうんだから、気になって確かめに来たの」
「……相変わらず自由ですねー」
クレアが呆れを隠さず言った。
「けど」
少女が再び、こちらに身体を向けた。じっと観察するように眺められて、ルミナは少し居心地が悪かった。
「魔物と正面からぶつかるくらいだから、どんな屈強で命知らずな男かと思えば――まさか私と歳もほとんど離れていないような女の子だったなんて、驚きね」
「……えっと、まず、誰?」
ルミナは目を瞬かせた。
「私はストラ」少女はにこやかに名乗った。「ストラ・フォン・イスター」
ルミナは今度こそ度肝を抜かした。
構わず少女――ストラは続ける。背後の男を揃えた指先で示しながら、
「そして彼はユース。私の護衛というか、付き人みたいなものね」
「ちょっと待って……イスターって……王国の東一体を治めてる四大貴族の!? あのイスターなの!?」
「そうね」ストラはおかしそうに笑った。「そのイスターで間違いないわね」
ルミナはぐるんとクレアの方を向いた。
「ちょっ、どういうこと!? なんでこんな大物貴族と知り合いなわけ!? ホント何なのあんたたち! もう訳わかんない!」
「いやー、そう言われても……」
飛びかからんとするルミナを「どーどー」と宥め、クレアは静かに説明を始めた。
「僕たちは便利屋みたいな仕事をしてるけど、これには大元の支援者がいてね。その関係で、彼女たちとも繋がりがあるんだよ」
「その支援者って……?」
「ここまでの話から、大体想像はついてると思うけど……」
クレアがストラに目配せをしたので、ルミナもストラの方を見た。
ストラが凛と言い放った。
「セイリア王侯貴族にして四大貴族の一門。イスタリア総領主でもある、レクト・フォン・イスター伯爵。――私の兄よ」
2、
「ついに、来た……」
クレアは力をぎゅっと込め、渾身の力で叫んだ。
「久しぶりの……都会だ――!」
よっしゃあ遊びまくるぞ、とクレアは大張り切りである。
ここはセイリア王国東部、イスタリア総領都、フェリキタス。
ルミナは懐かしい街並みを眺めた。数日家を空けていただけなのに、随分長い時間が経っているように感じた。
整然と並ぶ赤レンガの屋根やね。石畳の敷かれた表通りは、職業も性別も様々な人たちが行き交っている。人びとの話声で、足音で、商人の呼び込みの声で、街は華やかににぎわっている。イスタリア地方では数少ない、大きな街だ。
「お嬢、分かってるとは思いますが、くれぐれも一人で行動しないよう……」
「ええ、分かってるわ」
ストラとユースの会話を背後に聞きながら、ルミナは一人、ぽつりと呟いた。
「帰ってきた……」
話は数時間前に遡る。
思わぬ展開に唖然とするルミナをよそに、「そうそう、せっかく来てもらったところ悪いんですけど、これから彼女を家まで送ってかなきゃいけないんですよー」とクレアが切り出した。
「あら、そうなの。どこまで?」
そういえば、知らない――そんな顔をして、クレアがこちらに顔を向けた。
「フェリキタス」と、ルミナは答える。
「あら、大都会じゃない! いいわねー、私も久しぶりに行ってみたいわ」
嬉しそうに言ったストラは、「そうだ!」と両手の指先を合わせた。
「うちの馬車で送ってあげましょうか? ここからフェリキタスまでは徒歩だと丸一日かかるし」
「あの……お嬢」控えめに口を挟んだのは、ストラの付き人、ユースだ。
「長居はしないって話じゃあ……」
「気が変わりました。彼女を送っていきます」
「いや、もしレクト様にバレたら……」
「いいこと? ユース」
言って、ストラは芝居がかった所作で目を伏せる。
「街どころか村もろくにないこんな辺境の別邸に押し込められて、何もせずただぼーっと過ごすだけの毎日……。草花や動物の子たちと戯れるのもいいけれど、たまには街に出て遊んだりしてみたいわ……」
手を組んで、うっとりと空を眺めるストラ。それでも渋面を崩さないユースの手を取り、ストラは続けた。眉を八の字に寄せ、上目遣いに、涙を浮かべながら。
「ね、ユース。いいでしょ……?」
潤んだ瞳にじっと見つめられたユースは、「あ、あくまでお忍びでですよ……」とあえなく陥落した。
ストラは打って変わって楽しそうに告げた。「ええ、分かっているわ」
「うーん、向こうが送ってってくれるなら、僕はお役御免かな。正直あんまり都会行く機会ないから、行ってみたいけど……」
クレアが残念そうに言う。
「あら、いいじゃない。せっかくなんだし、一緒に行きましょう? 馬車も四人乗りだからちょうどいいわ」
「う……」クレアは頭を抱えた。
「行きたい……行きたいけど……何の用もないのにここを空けるのはちょっとまずいって言うか……後が怖いです」
ルミナの眼前に、今朝の光景が広がった。身体中をぐるぐる巻きにされ、庭木に吊るされていたクレアの姿……。
ストラも何かを察したらしく、「ああ……彼、そういうことに厳しいものね」と苦笑した。
「はい……もう吊し上げとかゴメンデス……」
あらあら、とストラは楽しそうだ。
「要は、理由さえあればいいのよね。なら話は簡単よ」
こほん、と小さく咳ばらいをし、ストラが胸を張った。
「私、ストラ・フォン・イスターは、昨今の魔物増加に鑑み、あなたに護衛を依頼するわ。兄と同じように……ね」
呆けているクレアに、彼女は続けた。
「この依頼、受けてもらえるかしら、便利屋さん?」
「……しかしお嬢」
街の入り口。不満そうな顔をしているユースが、ストラに尋ねた。
「護衛なんて俺一人で充分でしょう。なんでわざわざ雇ってまで……」
「危険避けの護衛が多いに越したことはないでしょう? もちろん私が信頼しているのはあなたよ。だからそんな妬かないで?」
「な、いや! 俺はただお嬢の……」
赤面し、動揺するユース。
仲のよさそうなやりとりを眺めながら、ルミナは「あのー」と口を挟んだ。
「そのもう一人の護衛がさっそくどっか行こうとしてるんですけど……」
ユースたちの振り向いた先には、「ひぃやっふー!」と高らかな声を上げながら、街道を走り去っていこうとするクレアがいた。
ユースは驚くべき速さでクレアに追いつき、その首根っこをがしりと掴んだ。
「お嬢に雇われてる身で好き勝手動くんじゃねえよ」
「すんませんテンション上がっちゃって……」
「さて、これでひとまず目的地に着いたわけだけど」
戯れる男たちを眺めつつ、ストラはルミナに向き直った。
「私たちが知り合ったのも何かの縁。よければ街を案内してもらえない?」
「別にいいけど……」
と言って、ルミナは、彼女が高貴な身分のご令嬢であることを思い出した。
「あ、いいですけど……」
「ふふ、いいのよ、敬語なんて使わなくて」
そう言って微笑む彼女は、幾分かくだけた表情をしていた。
「周りを見て分かる通り、ここにイスター伯爵家の令嬢がいるなんて気づく人間はいないわ。みんな私の存在は知っていても、見たことがないんだもの。当然といえば当然よね。
つまり、変に畏まっても周囲から浮いちゃうだけだし、私たちもお互いに壁を感じてしまう。だから友人として気軽に、ね?」
「友達……」
「おーい」
クレアの声が、少女たちの会話に割って入った。
「何してんの、早く行こうよー」
ぶんぶんと手を振るクレアは、またもユースから首根っこを掴まれた。
「テメエが指示出すんじゃねえよ、全てはお嬢が決める」
「わわわ暴力はんたーい」
その光景を見て、くすり、とストラは笑った。それから、ルミナの方に手を差し伸べた。
「さ、行きましょう?」
ルミナは少し考えて、ぱっと笑みを浮かべた。「……うん!」
「友達……か」
クレアは背後をちらと見て、それから空を見上げた。
「……いいなぁ」
4、
セイリア王国中心部、センタリア。シドウとその護衛対象であるレクト・フォン・イスター伯爵の馬車が、王都・フォルティアに到着したのは、日没後であった。
王都は高い城壁に囲まれている。国の中心部にして、セイリアの政治の本拠地でもあるこの城下町は、国内一の大きな都市だ。守備は衛兵によって厳重に固められており、街へ入るにも身分の提示を求められた。
「……しかし、早朝に出ても着くのが夜とは。座りすぎで身体が固まってしまいますね」
にぎやかな雑踏の中、レクトの後ろにぴたりとついていたシドウは、そう軽口をたたきながらも、警戒を怠らなかった。
入口に警備こそあれ、街は種々様々な人が生活を営んでいる。木を隠すなら森。この雑踏の中にも、どんな不届き者が身を潜めているかわかったものじゃない。もっとも、王立騎士団のおかげで治安は一定以上に維持されてはいるが、これだけの人がいる以上、ならず者の存在を完全に排除することはできない。
「これでも他の貴族の方々と比べればいい方ですよ」
レクトはシドウを振り返りつつ、穏やかな微笑を浮かべた。話によれば、他の貴族たちがフォルティアまで足を運ぶには、大半は片道だけで二、三日以上かかるという。
「それはそうと、護衛の依頼を引き受けていただけてよかったです。大人数での移動は好まないのですが、臣下たちが『近頃は物騒だから最低二十人は連れて行け』というので、ならばそれ以上の働きができる者を一人連れて行こうと」
「まあほかならぬあなたの頼みですから、断る理由がありません」
いささかの世辞を軽く受け流し、シドウは淡々と答えた。
「それに、音に聞こえし王都の中枢に、かねがね興味もありましたから」
話しているうちに、二人は城門までたどり着いていた。立派な王城は遠くからでも存在感がある。そこに向かって目抜き通りを一本、ひたすら歩いていくだけなのだから、迷いようがなかった。
二人の姿を目に留めた衛兵が、「イスター伯ご到着!」と声を上げた。
金属鎧で身を固め、槍で武装した兵士が、二人で入り口を固めている。厳重なことだ、とシドウは思う。
「遠路はるばる、ご足労おかけしました!」
衛兵の一人が頭を下げる。かしゃん、と金属同士の触れる音がした。
「現在、入城手続きを行っておりますので、少々お待ちください」
「ありがとう」とレクトは微笑した。「君たちも警備ご苦労様」
「勿体なきお言葉です!」
「時に、他の方々は?」
「はっ! すでにウェスタリア総領主のウェステル侯、並びに、サウスタリア総領主、サウスト公がお見えになっております!」
敬礼をしながら、衛兵が答えた。
「ふむ……」
レクトは何か考え込む所作をした。
「今まで欠席続きだったサウスト公がいらしているとは……どうやら、明日の会議内容を重く見ているのは私だけではないようですね。となると、貴族間の魔物に対する見解に大きな齟齬はないとみるべきか……」
ぶつぶつ呟く声の傍らで、遠くの衛兵が走り寄ってきて、近くの衛兵に何か耳打ちするのを、シドウは見た。
「お待たせいたしました! どうぞお入りください! 客室へは奥にいる者がご案内いたします!」
声を張り上げ、衛兵たちが入り口を開ける。
「すまないが、ひとつ伺っても?」
今まで黙っていたシドウは、衛兵に顔を向けた。
「何でしょうか?」
「城内の警備はどのようになっているんです?」
「はっ! 王室親衛隊が二十四時間、広間や廊下はもちろん、風呂やトイレまで常に目を光らせております!」
なるほど、王族の住まう場所だけあって、厳重さは国内有数だ。
「なら、少なくとも今夜の護衛は……」
「ええ、城内にいる限りは不要ですね」
レクトがにこやかに答えた。
「場外に出る予定は?」
「移動で疲れたので、国王陛下との謁見を終え次第、休むつもりです」
「であれば、少し街に出てきても?」
「一向にかまいませんが、どちらに?」
レクトは不思議そうに問う。
「まあ、せっかく来たので、風の吹くまま気の向くままに、物見遊山してきます」
「お気をつけて」
シドウは一つ礼をすると、優しげな笑みに見送られながら、王城に背を向けた。
風の吹くまま、気の向くまま。何も考えずに通りを歩いていたシドウは、いつの間にか人気のない道まで出ていることに気がついた。
少々気ままに歩きすぎたようだ。
歴史の古いこの街は、王城に続く道こそまっすぐに整備されてはいるが、道を外れていけばいくほど入り組んだ構造になっている。城下町の増築を繰り返した結果だろう。
これ以上奥に行くことは賢明ではない。そう判断したシドウは、来た道を戻ろうと、踵を返そうとした。そこで、「ちょいとそこの旦那」という声に呼び止められた。
「……何か?」
見ると、いかにも怪しげな商人が、手もみをしながらこちらに笑いかけていた。太った中年の小男だ。頭にターバンを巻いて、口周りにはちょろんと髭をたくわえている。背後には暗い色の天蓋がついた露店。
「ここだけの話、イチオシのものがございまして……」
言って、商人は露店の下から何かを取り出した。
「ハイ! それがこちらぁ! 金のリンゴぉ~!」
商人は身を乗り出し、矢継ぎ早にセールストークを始めた。
「なんと持ってるだけで開運! しかも本物のリンゴを金でコーティングしてるからお腹が空いたら食べられる! まあ便利!」
「はあ……」
「それに、それにですよ! 緊急時には相手に投げつけて身を守れる!」
「もはやリンゴである意味……」
「金貨一枚のところを特別価格銀貨五枚! どうです欲しくなって――」
「他を当たれ、馬鹿馬鹿しい」
シドウは即刻立ち去ろうとした。
「あー! ちょちょちょ!」
肘のあたりを掴まれる。商人は、下からシドウの顔を覗き込んだ。
「そんなこと言わずに、ね?」
「だから要らんと……」
シドウがうんざりした顔をする。
「いやいや、だってね? 全然売れないんですよ?」
「至極当然だ」
「人も通らないし」
「表通りに店を出せ」
「いやあっちショバ代高いんですもん」
うるうるとシドウを見つめる商人。シドウは重い息をついた。
「百歩譲って買うにしても、何か他の商品はないのか?」
開運に別に興味はないし、見るからに太刀を下げて武装している相手に、「緊急時には相手に投げつけて身を守れる!」はないだろう……。
シドウが呆れていると、「何言ってるんですか、そりゃあもちろん」と商人は営業スマイルを崩さず言った。「あるわけないですよ、うち金リンゴ専門店ですから」
「よく分かったもう商人なんて辞めてしまえ」
「何でもいいから買ってくださいよー」
「押し売りもやめろ」
というか、金リンゴしかないんだろ、この店。
店主を強引に振り払おうとした時だった。
シドウは遠く――裏通りのさらに奥まったところで、胡乱な動きを見た。
身なりのいい少女が、何やら軽薄そうな男に絡まれている。夜なのにサングラスをかけている辺りがいかにも胡散臭い。
「あのー、もしもし……?」
「そのリンゴ、ひとつ貰おう」
「えっ!? 買うんですか!?」
自分で言いだしたにもかかわらず、商人は驚いている様子だった。
そうこうしているうちに、少女は男について行って視界から消えていく。
シドウは金のリンゴをひったくると、銀貨五枚を放り投げ、足早に露店を後にした。
「まいどー……」
商人は腑に落ちない様子で、小さくなっていく人影に呼びかけた。
6、
十数分前――。
少女は地図とにらめっこをしながら、「うーん?」と首をかしげているところだった。地図を見ながら歩いてきたはずなのに、いつの間にか表通りから外れて、路地裏らしき場所に迷い込んでしまっている。どうにか抜け出そうと右往左往していたが、足を進めれば進めるほど、道は入り組んでわけがわからなくなっている。そのうち地図に描かれてすらいない場所に出てしまって、少女は途方に暮れていた。
困り果てていたところに、「おや、お嬢さん、お困りかい? 」親切に話しかけてきてくれた男がいた。街でよく見かける小洒落た服を着ていて、顔にはサングラスをかけていた。
「翠耀堂という場所に行きたいのですけれど……道に迷ってしまって」
「それなら僕が案内してあげよう」
「いいんですか?」
「もちろん! キミみたいな子が一人でうろうろしてると危ないしね。僕についておいで」
言われるがまま、少女はサングラスの男について行った。男は迷いのない足取りで裏通りを歩いていく。
――ああ、これで、やっと……。
少女は安心しながら、足早に歩く男に、一生懸命について行った。
が、翠耀堂は表通りに近いはずなのに、いくら歩いても道は細いままだった。それどころか、どんどん道幅が狭く、暗くなっていく。長く歩くことに慣れていない少女は、怪訝に思いながらも、ついて行くのに必死で、口を挟めないでいた。
次第に、妙な地下施設に足を踏み入れてしまったことに気づいた。むわっとした空気。思わず鼻に皺の寄るような、いやな臭いがする。足下で水が流れているのか、絶えず水音がしていた。下水道だろうか。
二人分の足音が、こぉん、と響く。
「こっちだよ、さあ」
促されて奥に進んだが、そこは完全な行き止まりとなっていた。
さすがにおかしいと思った少女は、男に尋ねた。
「あ、あの……道を案内してくださるという話でしたが……」
「ああ、そうとも!」
男がにっかりと笑うと、薄闇の中で乱杭歯が浮かんで見えた。
「聞かれた通り、水道施設に着いたじゃないか!」
「い、いえ……お聞きしたのは水道ではなく翠耀堂、書店なのですが……」
「まあまあ、どっちも同じようなものじゃないか」
「全然違いますよ!」
「そんなことより――わざわざ案内してあげたんだ。こちらもそれなりの対価をもらうことが筋だとは思わないかな?」
男の笑みが何か、妙な薄黒い気配を宿したような気がした。
少女は思わず一歩後ずさった。
「も、もちろん、ご親切に話を聞いてくださったことに感謝はしておりますし、謝礼も後日、金一封と共にさせていただこうと――」
「んー、ノンノン」男は立てた指を左右に振る。「感謝とかお金とか、そんな話じゃない。そんなもの貰ったって、欠片も嬉しくないしねー」
じり、と男が詰め寄って来る。
「それ以前に、君はもっと価値あるものを持っているじゃないか!」
「え?」
「君! 生娘だね? 匂いでわかるよぉ」
少女は二歩、三歩と後ずさるが、すぐに壁に背がついてしまう。
背中は壁。目の前に男。右は壁。左は、低い石壁に隔てられた水路。奈落のような真っ暗な色をしている。
少女は、こわごわと息をしていた。
「しかもその立ち振る舞い! どこかの名家の出と見た!」
男は舐めまわすような視線で、少女を頭からつま先まで凝視した。男の視線に合わせて、ぞわり、と鳥肌が立つのがわかった。
「イイ! 実に良いよー! 僕的獲物ランキングトップテンに入っちゃう! 特にその首筋! すぐにでもむしゃぶりつきたくなっちゃうよー!」
興奮気味に叫ぶ声が、水道内に反響していく。
少女は声一つ出すことができなかった。
――もしかしなくても……危ない人だった……?
そこで少女は、自分の愚かさに気がついた。やはり、両親の言う通り、一人で出歩くべきではなかったのだ。忠言をちゃんと聞いていればよかった。傍目からはきらびやかにしか見えなかった王都が、こんな恐ろしい場所だったなんて、思いもしなかった。
――うう、お父様……お母様……。
がちがちと歯が鳴るのがわかった。今すぐにでも座り込んでしまいそうだった。見開かれた少女の目の際に、じわりと涙が浮かんだ。
「そんな怖がらなくてもいいさ!」
舌なめずりをしながら、男は言った。
「はじめはちょっと痛いかもしれないけど、すぐに終わるからさ! もっとも、終わった後のことまでは保証できないけどね!」
男がにじり寄って来る。これ以上後ろには下がれない。サングラスの奥の瞳が、鈍い光を宿しているのが見えた。
――ああ、お父様、お母様、先立つ不孝をお許しください……。
少女が恐怖と諦めでぎゅっと目をつぶった時、だった。
ドッ、と鈍い音がした。
――え……?
こわごわと目を開くと、よろめいた男がたたらを踏み、バランスを崩して倒れるところだった。誰かに蹴られ、「あー!!」と間抜けな声を出して、男は水路の中へと落ちていった。
派手な水音がした。
その時、少女の靴の先に何かが触れた。金色をした球体――いや、リンゴ?
「……確かに、緊急時の役には立ったな」
低い、男の声がして、少女はハッと顔を上げた。
黒衣を身にまとった男だった。腰には青色の不思議な太刀を帯びている。太刀と同じ色をした蒼色の目が、奈落の先の方を見ている。
「まったく。おいたが過ぎるぞ。水被って頭を冷やせ」
黒衣の男は水路に向かってそう言うと、ゆっくりとこちらを向いた。
「あ、あの……」
少女は何が起こったのかさっぱりわからなかった。
――助けられた?
ありがとうございます、と礼を述べようとした時、黒衣の男も同時に口を開いた。
「よかったですね、大ごとにならずに済んで。しかし、知らない相手に付いて行くなとは教わりませんでしたか? 腹に一物ある者ほど、不自然なほど親切だったりするものですよ」
男は淡々と告げる。少女は小さく肩をすくめた。
「す、すみません……話に聞いてはいたのですが、世俗にはまだ疎く……」
「まあ、何はともあれ、ここから出ましょう。湿気もさることながら、臭くて敵わない」
言って、男はスタスタと歩いて行ってしまう。
少女は呆然とそれを眺めていた。
「……どうしました?」
男が訝しげに振り返る。
「いえ……先ほど知らない方には付いて行くなと言われましたので……」
「ごもっとも……」
困惑気味に男は言った。
「ですが……ふふ」
少女は花がほころぶようなやわらかい微笑を浮かべた。
「助けていただいた上に、こうして言葉を交わしているのです。これはもう、知らぬ間柄とも言えないのではないですか?」
「……なら、あとは信用に足る相手かどうか、自身で判断してください」
「はい、そうします!」
背後を振り返らず歩く男を、少女は追いかけた。
あれほどぐるぐる歩き回っていたのが嘘のように、外にはすぐ出られた。鼻の奥にしみついたいやな臭いは、しばらく取れてくれなかったが、それもほどなくして収まった。
明るい場所に出ると、緊張が緩んだからか、少女はやっと本来の目的を思い出した。
「あ、そうです! 翠耀堂という書店をご存じですか?」
間違っても水道に案内されることがないよう、今度はきちんと「書店」と言い添える。
「そういえば、そんな名前の書店を見たような……」
「ほ、本当ですか!?」
少女は目を輝かせた。
「最初は地図があるので大丈夫だと思っていたのですが、その地図を描いてくださった方の画風がなんというかその……斬新で。不躾だとは思いますが、よろしければ、案内を……」
「いいですよ」
男はあっさり快諾し、書店までの道を案内してくれた。
書店は、表通りの角をひとつ折れたところにあった。ぎっしりと並んだ真新しい本が、ガラス越しに光を放っているように、少女には見えた。
少女は書店に入り、店頭の一番目立つところに置かれていた本を、迷わず手に取った。
会計を済ませ、店から出る。はわぁー……と思わず嘆息が洩れた。私は今、世界でいちばん幸せな女の子に違いない、と思った。うっとりした心地でステップを下ると、男はまだそこにいた。少女はどきりとしつつ、こっそり男の姿に見とれた。
「終わりましたか」
男が少女の気配に気づき、振り返る。「はい!」と少女は頬を紅潮させたまま頷いた。
「一時はどうなることかと思いましたが、良かった、買えました……!」
「それは重畳」
男は愛想なく言って、尋ねる。「ちなみにどんな本を?」
「ええっと……それは……その……」
少女は紙袋に入った本を抱きしめながら、もじもじと目を逸らした。
「秘密、です……」
「はぁ、そうですか」
男が興味なさげなのが救いだった。
少女はほっと息をつき、それから思い直した。
「そうだ、それよりも、何かお礼を――」
「いえ、不要です」
男はきっぱりと言い切った。
「し、しかし、それでは受け取ってばかりで面目が立ちません!」
「元は偶然その場に居合わせただけの話。謝礼はその気持ちだけで充分事足ります」
やっぱり、紳士だ――。
高鳴る胸をおさえるように、少女は強く本を抱いた。
そんな彼女を知ってか知らずか、男はそっけなく尋ねた。
「それより、いいんですか? 先ほどの痴れ者も言っていたが、その身なりからして、君は本来、こんな往来を共も連れずに出歩けるような身分ではないのでは?」
「そ、そうでした……!」
男の言葉で、少女は自分の状況を思い出した。こっそり抜け出してきてしまったことは、今頃、家族や召使みんなに知れ渡っていることだろう。じいやはきっと心配しているし、お母様はきっとカンカン――。
少女は肩を落とした。
自分で蒔いた種とはいえ、なんだか帰るのが憂鬱になってきていた。しかし、帰らなければならないのもまた事実。
そこで少女は、思い切って切り出した。
「あ、あの、帰る道中、また危険なことに巻き込まれないとも限りませんので、その……できればでいいのですが、近くまで付き添っていただきたい……というのは、さすがに厚かましい願いでしょうか?」
「いえ、その必要はなさそうですよ」
「え?」
男が顎をしゃくった先、見慣れた老爺が、「お嬢様ー!」とこちらに走って来るのが見えた。
「ここにおられましたか! いったい何をしておられるのですか! 探しましたぞぉー!」
声はまだ遠いが、誰なのかはすぐにわかった。
「じ、じいや!?」
――なんて間が悪い……。
狼狽した少女は、男が何か言いたげに老爺を見ていたことに、まるで気がつかなかった。
――うう、せっかくの機会だったのに……。
少女は落胆した。もう少しで叶いそうだった希望が、目の前ではかなく消えてしまった。
「では、これにて一件落着ということで」
男は身を翻し、引き留める間もなく、雑踏の中へと消えて行った。
喪失感に襲われたのもつかの間、「お嬢様!」と怒り心頭な様子で老爺が近づいてきた。
「まったく、困りますぞ! お腹が痛いからとトイレにこもり、一時間は絶対開けるなと言われ……全然出てくる気配のないまま二時間……流石におかしいと思って無礼を承知でメイドに確認させてみれば、中はもぬけの殻……そして代わりに窓は全開……あなたという方は……」
「ち、違うのです! 本当は一時間以内に戻るつもりで……」
「いや、冷静に考えたら一時間トイレにこもること自体おかしいですよ……」
た、確かに……。
少女は指摘されて初めて、そのことに気がついた。
「まあおおかた、近頃傾倒していらっしゃる例の本でも買いに来たのでしょうが」
少女はぎくりと肩を強張らせる。老爺が溜息まじりに言った。
「これでは、せっかく今まで隠し通してきた秘密の趣味も露見してしまいますよ」
「う……。わ、私がどこで何をしていたかはお母様には……」
「わかっております。ですが、今後また同じような無茶をされた暁には……分かりますな?」
「はい……」
少女はしゅんと肩をすぼめた。
「ところで、先ほど誰か隣に居ませんでしたかな? 暗くてよく見えませんでしたが――」
「あ! そうなんです! 聞いてくださいじいや!」
食い気味に言った少女は、興奮した様子で身を乗り出した。
「なんと……! なんとですね!」
「お気に入りの本の話と同じことが現実に起きたとでも言うおつもりですかな?」
「はわっ!? な、なぜそれを!?」
言おうとしたことをぴたりと言い当てられ、少女は当惑した。
「いえ、お顔にそう書いてありますので……」
「そんな!? 顔のどこですか!? いったいいつ、どこで、誰に書かれてしまったのでしょう!?」
「いや、今のは物の喩えです……」
呆れる老爺。そんな老爺など構わず、「でも、そうです!」と少女は恍惚とした表情を浮かべる。その瞳は爛々と光を放っていた。
「困っていた見ず知らずの私に手を差し伸べてくださった……!」
「あの……お嬢様?」
「あれはまさに、『ヒスイランの花嫁』第一巻二十三ページ四行目! 主人公のエルが魔物に襲われていたところを、偶然通りがかった流浪の旅人ソウが助けるというシチュエーションそのもの!」
「いや……分かりましたから……」
「欲を言えば家まで送ってくださる部分まで体験したかったのですが……致し方ありません……」
再びしゅんとなった少女に、ごほん、と咳払いをひとつして、老爺は言った。
「それもいいですがお嬢様、今はこの件を周囲の者たちにどう説明するのかを考えた方がよろしいかと」
――やれやれ、手のかかる娘だった。
少女のお守りから解放されたシドウは、ひとり、夜の街を歩いていた。街はそろそろ夜の帳を下ろしはじめていて、行き交う人の数も少しずつ減ってきていた。適当な安宿にでも泊まろうと、宿屋の並ぶ通りを歩いていた時。
不意に、何かの気配に気づいて、シドウは頭上を仰いだ。
目を凝らしても、怪しい人影はどこにもない。
――気のせいか?
釈然としないまま、シドウは再び歩き出した。
6、
――して、守備は。
――ええ、滞りなく。
――……時は、来た。あまりにも永き苦痛の日々だった……。
――はい、心中お察しします……。しかし明日より、全てが変わり始めるでしょう……。御身の目指す、真の秩序によって正されし世界。ソレを創るための第一歩目が明日なのです。
――うむ……時に、フラウドはどうした。
――ああ、彼も街に入った模様です。
――派手に立ち回ってはいなかろうな。計画前に存在を感づかれては水の泡ぞ。
――大丈夫でしょう。見てくれは軽薄ですが、その実なかなかの切れ者。まあ、少しばかり、つまみ食いをするかもしれませんが……。
人気のない裏通り。上水道にかかる橋の上で、女はぼうっと、欄干にもたれかかっていた。女は失意の底にあった。だからその目は、遠くを見ているようで、その実何も見てはいなかった。ただ、先ほど恋人に言い捨てられた言葉が、頭の中をぐるぐる巡っていた。
女は欄干に足をかけ、上った。あとは飛び込むだけ。そう考えた時、「そこのキミ!」と妙に明るい声がした。少し高い、若い男の声だった。
「誰……」
女は力なく尋ねる。見ると、こんな夜なのにサングラスをかけた男が、こちらを見あげていた。酒場なんかではしゃいでエールを煽っていそうな、軟派な感じの男だった。
「イヤイヤ、名乗る程の者じゃないさ! 今にも身投げしそうな勢いだけどどうしたんだい? せっかくの命をこんな形で散らすのは勿体ないよ!」
「……彼にフラれたの。別れ際に彼、なんて言ったと思う?」
――『お前を見てる奴なんて、初めからこの世界に一人もいない』
恋人に言われた言葉を反芻すると、胸が疼くように痛んだ。女の頬を一筋の涙が伝った。
「その通りよ。だからもう消えてやるの。私がいなくなったって誰も気にしないんだから」
「それは酷い話だなー!」
男は大袈裟な声色で言った。
「けど、ダメだよそんなことしちゃあ! どんな命にも何かしらの意味はあるものさ! なんなら、この僕がキミの存在する意味を見つけてあげよう!」
「……ほんとに?」
女にとってその言葉は、奈落の底に落とされた一本の蜘蛛の糸だった。たやすく千切れてしまうものに縋ってしまうほど、女は弱っていた。
「ああ、本当さ!」
男は自信満々に言い切った。
「たとえ他の誰もがキミを気にかけなくとも、僕だけはちゃんとキミを見てあげるよ! さあ、こっちへ……。誰の目も気にすることのない、僕たちだけの世界へ行こう!」
女は欄干からゆっくりと降り、吸い込まれるように男の元へと歩いていった。
女の好みからはやや逸れている――少し軽薄すぎる――男だが、ひと晩の寂しさを紛らわすなら、ちょうどいい相手かもしれない、と女は思った。捨て鉢になっていた。
男に促されるまま歩いて行く。ひと気のない通りを、奥へ、奥へ。むわっと、なまぐさい臭いがして、いつの間にか下水道に来ていることを、女は悟った。
「ねえ、どこまで行くの。わざわざこんな奥まで行かなくても――」
女が顔を上げた時、前を歩いていた男の姿がなかった。
代わりに、背後に気配を感じた。背筋を悪寒が走ると同時に、女の首を絡めとるように、男の腕が巻きついた。
「ちゃんと見てあげるよ。一匹の獲物として……」
闇の中で、男の鋭利な牙が光った。
男は用済みになった女の死体を奈落へと投げ捨てた。口周りについた血糊を拭い、ハァ、と息をつく。
一応渇きは潤せたが、味はいまひとつだった。やはり飲むなら生娘の血に限る。そう考えると、先ほどの獲物――あの可憐な娘を逃してしまったことが悔やまれた。
男はそのまま奈落に背を向けた。こつん、こつん、と足音が響く中、思わずひとりごちる。
「まったく僕としたことが、あまりにも久々の上モノを前に油断して、背後から飛んできた鉄球に気づかないとは……」
それがリンゴだったことを、男は知る由もなかった。
「ンー、惜しい! 実に惜しいことをした!」
過去に戻れるならあの時の自分に十、いや百回は文句を言ってやりたいと、男は思った。ああ、あの純粋そうな瞳! そして、白く透き通る喉元……! 思い出せば思い出すほど、そそられる。
いや、待てよ……。男はふと、あることに思い至り、気分をよくした。
――そうだ、彼女は明日のメインディッシュにすればいい。
美味しいものは最後まで取っておいてこそ、だ。
愉しみがひとつ増えたことに男は心を躍らせ――そして数回、空咳をした。濁った血を飲んだせいで喉がイガイガしている。ひとまず口直しになりそうな娘でも探しに行くかと、男は弾んだ足取りで下水道を出た。
「夜はまだまだ長いですからね……」
そう言って男――フラウドは、歯茎をむき出しにして笑った。
7、
窓辺からは、満天の星空が見えた。
今日は月がないから、星がいつもより明るい。ルミナは出窓のふちに肘をついて、夜に沈んだ街を眺めていた。街は静かに眠りについている。
「ごめんなさいね、案内だけじゃなく泊めてもらっちゃって」
隣に座っていたストラが、ささやいた。「私一人しかいないし、気にしないで」と、ルミナも同じように小声で返した。
階下では、男たちが眠りについている。この部屋に寝台は二つだけだったので、「女の子を(あるいはお嬢を)雑魚寝させるわけにはいかない」と、男たちは言い張り、二人に寝台を譲った。意外と紳士な男たちなのだ。
そうして譲られた寝台を使わずに、秘密のおしゃべりに興じているのは、少し悪いことをしているようで、ルミナは楽しかった。
「久しぶりに来たけど、やっぱりここは良い所ね」
窓の外を眺めるストラは、どこか遠い目をしていた。
「活気があるし、人々が同じ世界に生きていることを実感できる」
「そう? 都会なんてどこも同じようなものじゃない?」
「結構違うものよ。その土地の文化や治めている領主によって、雰囲気は大きく変わるから。特にここを始めとしたイスタリアの街は、魔物が少ないことも相まって、他の地域の人々からは羨望の的だそうよ」
「へえ」ルミナは呟いて、それから少し表情を曇らせた。
「これで、魔物が少ない方なのね……」
「場所によってはもっと深刻らしいわね。酷い所だと街一つ壊滅させられたなんて話も聞くし」
「街一つ……」
ルミナはその後、なんと言ったらいいのかわからなかった。
街一つ、と言うのは簡単だが。街にともる灯りの一つひとつに、一人ひとりの生活が、人生がある。それがどれほどの数奪われたのだろう……。どれほどの人が、怖い、苦しい思いをしているのだろう……。
「まあ、一番の問題は、その安全なはずのイスタリアにも魔物が増え始めてるってことね」
ストラが憂いげに言った。
魔物が多いことで起こる危惧は、何も直接襲われることだけではない。畑が荒らされることになれば、作物を育てている農夫はもちろん、作物が行き届くはずだった人々も飢える。街道に魔物が多く出れば、荷を運ぶこともままならなくなり、必要な物資が不足する。それでも人は飢える。
それだけじゃない。生活苦に加えて、魔物が多くなって人々の不安が高まれば、人心も荒む。略奪や争いが起こる。人々は我が身を守ることに精一杯になり、弱者はますます守られなくなる……。
「……ならなおさら、日向でぬくぬくと過ごすなんてできないわね」
ルミナは決意を固めた。
「私も足踏みなんてしていられない。たとえ誰に何を言われようとも、守るべきもののために武器を取ることを選ぶ……!」
自分に言い聞かせるように口にした時、だった。
「ハイハーイ!」という場違いに明るい声が、少女たちの会話に割って入った。
見ると、部屋の入口から、クレアがひょっこりと顔を覗かせていた。
「そんな君に一つご提案!」
「え、寝てたんじゃなかったの……っていうか勝手に入ってくるな!」
また着替えでもしていたらどうするつもりだったのか。
クレアは「めんごめんご」と悪びれない様子で口にする。
「また覗き魔認定するわよ!」
「すんません勘弁してください……」
「……また?」
ストラが不思議そうにルミナを見やる。ルミナが何やら耳打ちすると、ストラは「信じられない」とでも言いたげに目を見開いた。
「ちょっとそんな目しないで!? あれはちょっとした事故だったんだって!」
クレアは必死に弁明する。少女たちの刺すような眼差しが変わらないのを見てとると、彼は諦めて、改めて話を切り出した。
「えー、それでですね。まじめな話、一つ提案なんだけど。
――便利屋に来てもらえないかな」
クレアはまっすぐにルミナを見据えていた。ルミナは面食らった顔をして、ストラとクレアとを交互に見た。
「ナンパかしら」
「引くわ……」
ささやき合う少女たち。
「違うよぉぉぉ!」
半泣きになったクレアの声が、部屋中に響いた。
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