第3話

「よく、暗い海に入れますよね」

「浅瀬だもん。それにほら、海に来たのに海を感じないなんて、もったいないじゃない」


 目の前には、黒い海。それでもやっぱり、触れ合うのが気持ちいい。海に来ると、それだけで全てのことがどうでもよくなる。それぐらい、海が好きだ。


「そういうこと、普段の伊織さんは絶対に言わないですよね」

「幻滅した?」

「むしろ、今の伊織さんの方が僕は好きです」


 特別な好きではないとわかっているのに、どくんと胸が反応する。だから、わたしの欲望を言葉に紛れ込ませる。


「わたしに好きを言えるのは、彼になる人だけだよ?」

「わかってますよ。伊織さんとの距離は、今のままが一番いいですからね」


 今日こそ、違う言葉が聞けると思ったのに。


 期待した分、胸が痛い。それを悟られないように、わざと駆け出す。


「走るのは危ないですって!」

「ほら、わたしと離れちゃうよ? 一番いい距離を保たなきゃ!」

「物理的にじゃないでしょ!」


 ヒールよりは低いけれど、サンダルでは早くは走れない。そんなわたしは、すぐに泉君に捕まった。


「この距離は、違うよね?」

「どっか、行っちゃいません?」


 行かせてくれないのは、泉君じゃない。


 そんなこと、言えるはずがない。

 だから正解を伝える。


「行かないから。泉君といると楽しくなっちゃって、ふざけたくなるの」


 泉君だけに見せる顔で笑えば、彼はすんなり手を離した。


「そういう理由なら、ふざけてもいいです。伊織さんが望むなら、とことん、お付き合いしますよ」


 泉君はこういう人だ。知っているはずなのに、泣きたくなる。久々に会えたから、本当のわたしごと、彼の前に引きずり出されそうになる。


「もう、いいから」

「えっ?」

「もう、会うの、やめよ」


 わたしのことだけを、見て。


 ずっと振られ続けて、心が悲鳴を上げてる。見た目のように演じられない付属品のわたしが、声を出そうとしている。でも本体のわたしがそれを許さない。

 なのに、泉君は笑った。


「伊織さんはそれでいいんですか?」


 これ以上何を言えばいいのかわからなくて、黙る。

 そんなわたしの代わりに、泉君の口が動く。


「残念です。まだだったみたいですね。それなら今日のところは、帰りましょうか」


 わたしの返事を待たずに、泉君が強引に手を引いてくる。


「まだって、何?」


 まるで別人になってしまった泉君が怖くて、これだけしか聞けなかった。


「そんなの、伊織さんの方がわかってるはずですよ」

「わからないから、聞いてるの」

「今の伊織さんじゃ、わからないです」


 会話にならない。それに腹が立ち、手を振りほどく。


「いい加減にして!! わたしのこと、なんだと思ってるの!?」


 怒りに任せて、用意してくれたサンダルを投げつける。なのに、いとも簡単に受け止められ、余計に腹が立った。


「酷いな。せっかく伊織さんに贈ったものなのに」

「じゃあわたしがどうしようが、わたしの勝手でしょ!?」

「そうだとしても、今の伊織さんに履いてほしいのに」


 訳がわからない。だからだろう。涙が止まらないのは。


「さっきも言ったじゃないですか。僕は今の伊織さんが好きなんです」

「そんなこと、言わないでよ……」

「今しか言えないじゃないですか。それに、僕からこういうこと言われるの、本当は喜んでますよね?」


 ぱきんと、何かにヒビが入った気がした。

 その音に、今まで築き上げてきたわたしが、崩れ去る予感がした。


「僕は、今の伊織さんが好きなんです。それでも伊織さんが会うのをやめたいのなら、僕は伊織さんの気持ちを優先しますよ」


 ずるい。


 泉君の言う通り、わたしはいつでもやめられるのだ。

 それを、彼もわかっている。

 わかっていて、泉君に溺れるわたしに呼吸をさせるために、会わなかったのだろう。


 こんなの、おかしい。


 そう思っても、泉君の残酷な笑みに心が絡め取られる。

 いつかわたしは、溺れ死ぬ。

 それでも、その時までは、わたしは足を地につけ、泉君に溺れもがき続けるのだ。




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足を地につけ、溺れもがく。 ソラノ ヒナ @soranohina

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