第2話

 馬鹿なわたしは薄化粧をして、迎えに来た泉君の車に乗り込む。


「行き先、ほんとに海でいいの?」

「うん」

「伊織さんって、海が好きだから僕を呼んだの?」

「そうだけど?」

「ひっどいなぁ」


 楽しそうに笑う泉君から目を逸らし、窓の外を流れる、作りものの光を眺める。

 秋が始まり、夜は少しばかり肌寒い。けれど、彼をどこからでも受け入れるような、心もとない服を選んだ。

 泉君には何の効果もないのは、わかっているのに。


「仕事、順調ですか?」

「変わらないよ」

「じゃあなんで、声かけてくれなかったんですか?」


 そんなことを言う泉君の顔が気になって、彼を見る。

 同時に赤信号に捕まるが、泉君は前だけを見続けていた。


「泉君だけを構ってあげられるほど、わたしは暇じゃないんだよ?」

「さすが伊織さん。嫌味に聞こえない」


 左手で綺麗なあごのラインを隠すように、泉君が笑う。

 横に流した長めの前髪。

 一重なのに大きく見える垂れ目気味の目。

 鼻筋の通る高めの鼻。

 閉じていても口角が上がって見える口。

 そこから響く、心地よい低い声。

 どんな服でも着こなせそうな体型。

 どれを取っても、一般人にしておくには惜しい。そんな彼に声をかけられただけでも、幸運なのだろう。


「泉君は完全に嫌味だよね」


 わたしの視線に応えてくれない泉君から目を逸らし、外の闇を見つめる。そこに溶かしてしまえそうなほどのわたしの小さな声は、車の発進音にかき消された。


 ***


 目的地に着いたのは、二十二時前。

 海浜公園の入り口には、潮の香りがほのかに漂う。


「伊織さん、待って」


 踏み出しかけた足を止め、トランクを開ける泉君を視界に収める。


「これに履き替えて」


 そう言った彼の手には、ウェッジソールのサンダルがある。


「どうして?」

「前みたく、そのまま海に入ったら綺麗な靴が台無しになるでしょ?」

「そう? 汚れがすぐに落とせる素材の靴を履いてきたから、気にしなくていいのに」

「僕が気になります」


 今日、海に行きたいとわたしが言い出すのを予想していたのだろう。わたしのために用意してくれた真新しいサンダルを、泉君は履きやすいように並べてくれる。

 すると彼は、グレーのジャケットを脱ぎ出した。

 その事実に、その仕草に、恋を知ったばかりの少女のように、胸が騒ぐ。


「可愛い服が隠れて残念だけど、寒いからこれ着て下さい」

「服だけ?」

「間違えました。可愛い伊織さんを隠したいんです」


 あったかい。


 わたしの心をくすぐる言葉をくれた泉君のジャケットに包まれる。温もりと共に彼の香りを感じ、まるで泉君に優しく抱きしめられているような気持ちになる。

 けれど当の本人は甲斐甲斐しく袖をまくって、わたしの手がきちんと出るように調整してくれていた。


「さぁ、どうぞ」


 ここまですることもないのに、泉君は片膝をつくようにしゃがみ、手を差し出してきた。

 無言で、手を重ねる。何も感じないように、履き替えることだけに集中する。

 包み込むような履き心地。柔らかなストラップには、青と白の石が花のような形を作り、彩る。


「伊織さん、いつもおしゃれだからもの足りないかもしれないけど、僕と海に来た時は、これ、履いて下さい」


 僕と……。


 こうやって、また次があることを期待させるのが、泉君は得意だ。この瞬間、逃げ道を見つけられないよう、目隠しをされた気分にもなる。

 だから今だけは、泉君だけのわたしになる。


「嬉しい。わたしのことを考えながら選んでくれたんだね。ぴったりで履きやすい。お礼は、何がいい?」


 わたしの言葉に泉君は立ち上がると、幸せそうな笑顔を浮かべた。


「この時間が、僕にとって最高のお礼です」


 泉君は、誰にでも必要とされたいだけ、だもんね。


 彼の欲を満たせたことにわたしも満足して、笑みがこぼれた。

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