足を地につけ、溺れもがく。
ソラノ ヒナ
第1話
「その髪型も素敵だね」
「わけ目を変えただけ、ですよ」
上司が触れようとしてくるのをやんわりかわし、目を見て微笑んであげる。
「そういえば、打ち合わせの件ですが――」
上司がわたしに何を求めているのかなんて、わかりきっている。でもそれを我慢すれば、居心地のいい職場。
そうやって、わたしは自分の城を築き上げたのだから。
***
「お疲れ様でした」
帰宅後、化粧を落とした鏡の中にいる自分へ、声をかけてあげる。
そうしないと、本当の自分がわからなくなる。
甘えるような、黒目が大きいわたしの瞳。
ぽってりとした、もの欲しそうな赤みの強いくちびる。
何もしていないのに、毛先だけがパーマをかけているような、長く柔らかな髪。
望まないのに、目を引くほど主張してくる胸。
見た目なんて付属品。
そう思いたいけれど、実際は、わたしが付属品だ。
本体をどう活かせば相手の心を動かせるのか、それを理解したのは学生の時。
痛い失敗もあったけれど、だからこそ怖いものはない。
いや、違う。
怖いものはなかった、だ。
鏡の中のわたしに、心の中をさらけ出されそうになる。
それに耐えきれず、リビングへ向かった。
明日はお休みだけど、何もする気になれない。
くすんだピンクのベロア調ソファに身を預ければ、わたしを包み込んでくれる存在はこれしかないのだと、虚しくなる。
ただの雑音を垂れ流すテレビをつける気にもなれず、寝転ぶ。
言葉だけなら、すぐ流せるのに。
笑顔で高嶺の花を演じるが、久々に上司が身体に触れてこようとしたのを思い出し、吐き気がした。
「
夜カフェで出会った年下の彼の名を呟けば、心が凪ぐ。
だからほんの一瞬、付属品のわたしが顔を出してしまった。
『泉君といるとね、繕わなくていいから、安心する』
『驚きました。僕もね、同じ気持ちだったんです。でも、そんな言葉が出てくるなんて、よっぽど疲れてますよね? 何かあれば僕をすぐに呼んで下さい。僕って、いるだけで癒しになるんですよ?』
いつもなら、相手との距離を縮めるためのお愛想。でも、この時は違う。
それに、泉君ならきっとわかってくれるだろうと、どこか期待していたのも事実だ。
だから、本当のわたしの声に応えてくれた彼の言葉は、するりと心の中に入り込んだ。
そんな、わたしにとっては特別な言葉で、きっと、泉君にとってはいつもの言葉が、忘れられない。
同時に、彼の得意気な顔も思い出し、わたしの口から笑い声がもれる。
店長が独身のお客さんの世話を焼くとか、いい迷惑だと思っていたけど……。
自分は相性を見抜けるからと、お客さんを検証に使うのはいかがなものだろうか。
お店の雰囲気、提供される料理、豊富な種類のドリンク。それら全てが、わたしの好みだった。
けれど、そのどれもを壊している自覚のない、無知な笑顔を向けてくる店長は正直苦手だった。
でもそんな店長のおかげで、泉君と出会えた。
会いたい。
気付けばスマホを手に取り、メッセージを送る画面を開いていた自分がいる。
ブルーライトと共に光る、彼との今までのやり取りを眺めさせられる。泉という男は、文字ですらわたしの心を遠慮なく惹き寄せる。
でも、メッセージを送りかけたわたしに、主導権が戻った。
泉君は癒しじゃなくて、麻薬だ。
ぐずぐずに甘やかしてくれるのに、効果が切れたら、自分はずっと孤独の中にいるんだって、思い知らされる。
だからまた、彼を求めてしまう。
もう、疲れた。
泉君と会わなくなってから、三ヶ月経つ。
出会った夜カフェも、通うのをやめた。
それなのに、泉君からの連絡はない。
別れ際にいつも、『都合のいい時に連絡下さい。どんな時も
今ですら、その約束は有効だ。
だから答えは出ている。
彼の中ではその程度の女なのだと。
それでもなお、期待する馬鹿なわたしに疲れ果てた。
消そう。
要らないものは処分。人間関係も一緒。連絡先なんて、ただの記号。だから消す。
彼氏が欲しいわけじゃない。都合のいい体の関係も、求めていない。
そのどちらにもなってくれない、泉君が欲しい。
今まで、追いかけられるのが普通だった。
だから、追いかけるのがこんなにも辛いなんて、知らなかった。
終わりのないトンネルの中を歩き続けるようで、怖くなった。
けれど、わたしの決心を待っていたかのように、スマホが震える。
『伊織さん、今何してますか?』
泉君、今、どんな顔してるんだろう。
泉君はわたしを弄ぶために存在しているようで、その愛おしさに、彼からの言葉を指先でなぞった。
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