生きた声

 小説を書くのは半ばきちがい沙汰だと想うことがある。
 神経をとがらせ続ける果てしのない地味作業。
 そのきちがい沙汰の中で狂っていく人たちも昔から多くいる。
 生きるだけでも、人によっては精神にかかる負荷がよほど大きいのだろう。
 失調を抱えながらも、その傍らで、一文字一文字を刻み、それでも人は小説を書く。

 他者の書いたものを気楽にコピーして賞賛だけをかっぱらうようなことが通用してしまう時代にあっても、やはり小説を書く人たちの多くは、一文字一文字を積み上げる。
 絞り出すようにして書き上げることでしかその人の息吹そのもののような、独特の作風は生まれないことを身をもって知っているからだ。

 目がかすむ、肩がこる、それと同じで、その病は物書きのかかりやすい職業病なのかもしれない。偶然にもほかに数名、著者の深山さんと同じ病の人をカクヨムで知っている。
 心が凪の時に書かれているのか、どの作品も一定のトーンを保っているが印象的だ。
 ギアがロウの時に、本編のテーマはとても似つかわしい。

 亡くなった人たちとの対話。

 「風の電話」のことを深山さんはご存じなかったそうだが、風の電話とは、三陸海岸をのぞむ丘にある公衆電話のことだ。絵本にもなっている。
 庭師のつくった庭に設置されているその電話ボックスに入り、生者は「風の電話」を通して死んだ人に呼びかける。もう通じない電話番号を探る。電話線は切れている。
 聴こえるのは外の海風だけだ。
 もしもし。
 呼びかける時、人は受話器の向こうに、記憶にある亡き人の声を聴いている。 
まぼろしは返答する。
 もしもし。
 ああ、あんた。どうしたの。
 なんで死んじゃったの。ねえ、なんで死んじゃったの。
 津波が来てね。
 こっちはみんな元気でやってる。心配しないで。

 記憶の中に残る声とのやりとり。

 この小説では、本当に死者から返事が返ってくるのだ。生きているのかと想うほど、生前そのままに。
 死んでいる意味がほぼないくらい、亡き人と通常の会話ができる。
 だがそこで交わされる会話は、片方がもうこの世にいないからこそ叶うものだ。
 相手が死んでいるからこそ、云えること。
 自分が死んでいるからこそ、云えること。
 生者と死者のやりとりは率直でありながらも、生きている時よりは少し敬意を払っており、現世にいた時とはやはり違っている。

 死んだ人と対話ができる公衆電話があるとして、人はそれを自分の脳が生み出した都合のいい幻聴だと想うことも、本当に死者と交信ができたのだと信じることも可能だろう。
 こちらが勝手にそう想えるということが、その人がこの世にはもういないという証左だろう。
 そんな電話ボックスがあれば、わたしたちは誰の声を風の中に聴きたいだろうか。