アイデンティティ

弓チョコ

アイデンティティ

 野球が好きだった。


 いつも、夕食の時に家族で観ていて。そうだ、父がずっとファンで。

 テレビの中の選手達を見て、楽しそうだと思って。


「あれ、やりたい!」


 そう言ったのを覚えている。多分初めて、自分から何かをやりたいと言った。


 両親は最初、少し驚いたみたいだけど。次の土曜日に、グローブやバットなんかを買ってもらって。

 日曜日に、普段通っている小学校の運動場で活動している少年野球チームに連れて行って貰った。


 一緒に住んでいる祖母は、反対したらしい。けれど、「やりたい」と言って聞かなかった孫を見て、諦めたらしい。


 子供の内は運動も良いのではないかと、父が宥めていたのを知っている。

 特に父が賛成してくれたんだ。好きなことをさせるべきだと。興味を持ったことは、やらせてみせるべきだと。


 チームに入ってからは、とにかく全部が楽しかった。同級生とのキャッチボール。素振りの練習。ノック練習。ティーバッティング。

 初めから試合には出られなかったけれど、友達を応援することは楽しかった。友達が活躍すると嬉しかった。

 髪も短く切って貰った。運動するのに、そっちの方が良いからだ。これも祖母は反対していた。


 練習の無い日でも、バッティングセンターに連れて行ってと、父に頼んだ記憶がある。いつも皆が利用している、国道沿いのバッティングセンターがある。もう何十年もやっているような古い所だけど、このチームの選手は皆ここで鍛えるのが通例らしい。足繁く通った。一度か二度ほど、ホームラン賞も取ったことがある。


 チームの子達と過ごす時間が増えた。学校でも、それまで一緒に居た子とは少しずつ疎遠のようになって。


 クラスからは少しずつ、浮いていった。


 けれど、野球があった。楽しかった。思った所に投げられると楽しい。カキンと軽快に鳴る金属バットの音と、確かな感触として手に残る衝撃。ヒットを打った時の快感は一生忘れないだろう。


 普段普通に学校生活を過ごしていると接点の無かった先輩や後輩とも仲良くなった。先輩に可愛がられたし、後輩にも慕ってもらった。同級生とも、何回かは喧嘩もしたけど、いつもすぐ仲直りできた。


 高学年になって。

 クラスの子からは、避けられるようになった。


 肌が日に焼けているのが、変らしい。


 他のチームメイトも皆焼けているのに。その皆には、そんなこと言わないのに。


 学校が終われば、チームメイトと野球の自主練に励んだ。土日は全体練習や試合があった。

 チームに入る前に一緒に遊んでいた子達とは、遊ぶことがなくなった。


 からかわれた。

 バカにされた。

 チームメイトと廊下で話していると、変な噂も立てられた。

 心無い罵声も浴びせられた。

 陰口を、わざわざ聞こえるように言われた。

 陰湿な嫌がらせを受けた。






―――






 野球が好きだった。観るのも、プレイするのも。

 ようやく、6年生になって。背が伸びて。その分筋肉も付いて。レギュラーを勝ち取ることができた。先輩が居なくなったから取れたようなもので、実力かどうかは分からないけれど。

 試合に出るようになった。緊張した。初めての試合は余り覚えていない。相手チームが驚いていたのは覚えている。


 クラスに、話し相手が居なくなった。

 いや、違う。チームメイトとは仲が良いんだ。いつも話す。けれど、彼らに、近付けない時がある。そうなると、途端にひとりになる。


 特に仲の良かった子がチームメイトに居た。いつも練習中、アップのキャッチボールを一緒に行う子で。仮に『A』としよう。

 Aは、クラスに馴染めていないのを見兼ねて、こう言った。


「お前野球、辞めたら?」


 意味が分からなかった。好きだから野球をやっているのだ。それにようやく最近、レギュラーになれたのだ。辞める意味が分からないし、クラスに馴染めていないこととの関連性が無いだろうと思った。


「どうしてそんなこと言うの」


 喧嘩になってしまった。彼も言葉足らずだったこともある。けれど今は後悔している。もっと、話し合えば良かったと。


 一番仲の良かった彼にショックなことを言われて、ヒートアップしてしまった。いつもは喧嘩をしてもすぐに仲直りするのに。初めて手を出して。あっちも。取っ組み合いの掴み合いの、殴り合いになった。


 そのまま。

 仲直りができないまま。


 転校が決まった。

 父の仕事の関係だ。元々母の実家だった家から離れて、祖母を置いて家族3人、県外へ。


 喧嘩をした夜に、Aとその両親がウチに訪ねて来た。Aもしょぼくれていて、ずっと黙っていた。Aの両親は父と母にとにかく頭を下げて謝っていた。

 彼の頬にも絆創膏が貼ってあった。一緒だ。それくらいの喧嘩だった。帰宅して一番驚いて悲鳴を挙げていたのは祖母だった。だから野球などやらせるべきではなかったと怒鳴った。

 Aとは目を合わせなかった。形だけ頭を下げていた。勿論こんなことで仲直りができたとは思わなかった。恐らく、お互いに。


 A一家が帰っても、祖母の怒りは治まらなかった。母と父にこっぴどく叱り付けていた。

 意味が分からなかった。Aの家に謝りに行かなくて良いのだろうか。なんなら彼の方が怪我は重い筈だ。彼の股間を蹴ってしまったのだ。それはやってはいけないよと、母に教えられてきたのに。


 少年野球チームは辞めさせられた。練習もすることがなくなって。チームメイトと話すことがなくなった。


 それでも、以前遊んでいた子達ともう一度仲良くなることはなくて。完全に孤立した。


 そうして、卒業前に転校することになった。お別れ会は、親の意向があったのか、されなかった。


 転校先の学校に行く気が起きなくて。不登校になった。怖かったのだ。

 数ヶ月後。いつの間にか小学校を卒業していた。私の肌は白色に戻っていた。筋肉も落ちた。髪も切らなかったから伸びっぱなしだった。野球をやっていたなんて、誰が見ても信じない。


 変わり果てた自分を鏡で見て、ようやく外へ出る気になった。

 野球をやっていた自分は、もう居なくなった。


「中学校では、運動部は駄目よ」


 母が入学前にそう言った。私はこくりと首肯した。もうこりごりだ。祖母は正しかった。

 中学では、なるべく大人しく過ごした。周りに合せて。流されて。誰にも嫌われないように。怪我をしないように。運動は苦手だと嘘を吐いて。下手な走り方をして。


 長い髪をきちんと整えて。

 皆に付いて行って、服や小物を買って。


 母に、化粧を教えて貰って。


 日焼け止めをきちんとするようになって。


 父とは、話さなくなって。


 胸も膨らんできた。


 生理が来て。


 何度か、男子から告白もされた。


 私は。






―――






 野球が好きだった。運動全般が好きだった。思い切り走って、思い切り投げて。体育では、女子で一番だった。男子にだって、短距離走で勝ったこともあった。嬉しかった。楽しかった。「これが自分なんだ」と実感する瞬間だった。


 中学2年生の時に、祖母が亡くなった。私達が引っ越してから、急に弱っていったように思う。普通の老衰らしい。ただの寿命。人として、生き物として当たり前の死。


「女の子は女の子らしくしなきゃ。ほらできた。可愛いわよ」


 それが口癖の祖母だった。野球チームに入るまで、長い髪をいつも結ってくれていた。


 良かったと、思った。祖母が最後に見た私は、中学1年生の春休み。きちんと「女の子らしい」私だった。だからきっと、笑顔でこの世を去ったのだ。


 また、父の転勤が決まった。私の卒業に合わせるらしい。戻るのだという。前の所に。

 祖母の居なくなったあの家にまた。私の生家の、地元の。

 高校に。通うことになる。






―――






「あっ」


 入学式の時。私が、その声を発した。予想はしていたけれど、余りにも。

 変わっていなくて。安心したと同時に、恥ずかしくなったから。


「…………まさか」


 Aと再会した。3年半振りに。彼は最初、私が私だと分からなかったみたいだった。そうだ。彼とはチームに入ってから知り合ったのだ。それ以前の私を知らない。髪の長い私を。


 彼は身長がとても伸びていて。頭は坊主で。すぐに分かった。


「野球、続けてるんだ」

「ああ。……えっと、おま……君は?」


 彼は、私との距離感を測りかねているようだった。以前のように、男友達のように話してはくれない。


「…………こんなんなっちゃった」


 背中まで伸びた髪を摘んでみせた。袖も捲くってみせる。白い肌。細い腕。運動なんて全然やっていない。鈍りに鈍っているだろう。もう大人みたいな体格でムキムキの彼とは正反対。もう、勝てっこない。


「…………ごめん。俺が」

「……違うよ。私こそごめんね。ずっと仲直りしたかった」


 どこで、違ったのだろう。私とAは。

 私にも、彼のようにムキムキになって、現役で野球を思い切り楽しめていた未来が、果たしてあったのだろうか。

 どうして、反対されるのだろう。

 どうして、彼だけが謝りに来たのだろう。


 どうして、髪を伸ばさなくてはならないのだろう。どうして、化粧をして、日焼け止めをしなくてらならないのだろう。


 野球が好きだった。

 けれど今は、父すら、テレビで野球を観なくなった。私に、観せなくなった。


「あのさ。マネージャーとか」

「…………ごめん。きっと反対される。私もう、家で我儘、言えない空気で」

「………………そう、か」


 高校も、中学と同じ様にするのだろう。皆に合せて。嫌われないように。化粧をして、お洒落をして。恋をして。

 女の子らしく。


「……応援は、多分行けるから。行っても良い?」

「!」


 中学の時。

 告白してくれた男子は、全て断った。彼らが魅力的でなかった訳じゃない。


「……ああ! まだ1年だから試合には出られないけど。絶対レギュラーになるから!」


 きっと反対される。


 女の子を殴る男なんか。母が許さないと思う。






―――






 私は、何なのだろう。

 ただ野球が好きだった。

 スポーツをするのが好きだった。


 小学生の時。

 オトコオンナ、とか言われた。

 肌が汚いとか。ブスとか。色々言われた。


 道徳の授業というのが、ずっとあった。けど、「あれ」通りではなかった。少なくとも私の周囲は。


 別にAと、恋愛していた訳ではなかった。普通に、チームメイトで。仲良かっただけだ。


 中学生の時。

 祖母や母の言う通りにすると、確かに「嫌なこと」は減った。男の人は私に色々と優しくしてくれた。そんな子達と集まって、周りにチヤホヤされた。

 それが悪い、間違っているとも思わない。思えない。祖母や母は私のことを思ってくれていて。それが駄目だとは全然思わない。

 祖母の言う「女の子らしく」というのも、なんだかんだ心地よくて好きだったから。


 父はずっと私に申し訳無さそうにしていて。反抗期すら、タイミングを逃してしまった。

 きっと、私が「言って欲しいこと」は、父はもう言ってはくれないだろう。


 どちらかだけなのだろうか。

 私は、「女の子らしい私」も「男の子みたいな私」も、どっちも好きになっていた。お洒落をするのも好きだし、野球部時代を思い出すとまたやりたくなってくる。


「高校は、好きなことをやって良いわよ」


 母から、意外な言葉が出てきた。母が認めるならもう、誰にも反対されないじゃないか。


 けど、もう遅い。

 今から私が、彼らに追い付ける訳がない。私は3年間「女の子」をしていて。彼らはその間もずっと練習してきたのだから。


 そして、他の何かで妥協もしたくなかった。マネージャーとか、吹奏楽部とか。考えてみると色々と選択肢はあったけれど。


 する気分には、ならなかった。今のままでは。


「お母さん。私、謝りに行きたい」

「えっ?」


 対等とは。

 公平とは。

 道徳とは。

 認め合う、とは。

 受け入れる、とは。


「だっておかしいよ。『女の子を殴っちゃ駄目』って。そんなのおかしい。誰が相手だって殴っちゃ駄目じゃん。女の子だから特別駄目とか、そんなのおかしい。私の方が、酷いことしたよ。股間を蹴った。それで、それなのに。私が謝らなくて、彼だけ謝りに来るのはおかしい」


 平等、なんて、おかしい。私と彼の喧嘩じゃんか。その時さ。だって。私の方が身長高かったんだよ。私の方が強かったんだよ。なら、「大人達の尺度」で言えばより悪いのは私じゃん。

 私は股間を蹴られてもそこまで痛くないのに。彼の股間を蹴ったのだから。


 謝りに言った。私の人生の二度目の我儘だった。

 Aの両親も面食らっていた。意味不明な様子だった。


 私が先頭に立って、必死に説明した。私だけが被害者みたいのはおかしいと。私が嫌なのだと。きちんと。しないと、と。

 遅れてしまって、本当にすみませんでした。


 と。






―――






「決めた」

「えっ?」


 それから頻繁に、彼を呼ぶようになったし、私も行くようになった。お互いの両親も仲良くなった。

 野球も休みの日。私のベッドの上で寝転んで少女漫画を読んでいた彼は、私の言葉に反応して視線を向けた。


「全部やる」

「ん? 何を?」

「滅茶苦茶『女の子』するし、スポーツもやる。両立はできる筈よ。やりたいこと、全部やる。私って絶対、すぐに何かやりたくなるの。今日、今だってもう、さっきCMで観たオリンピック選手のアレ、フィギュアスケート? やりたくなってきた」


 野球をやっていた時は、周りからのイジメなんて気にせずやっていた。そうだ。気にしなければ良い。


「あとピアノでしょ。スキーもしたいし、バーベキュー! バイクも乗ってみたい。あっ。見て。この服可愛くない? 今度一緒に服買いに行こうよ。あなた、野球ばっかりだから実は私服ダサいよ? 私が選んであげるから」

「…………」


 Aはポカンとしていた。けれどしばらくして、笑ってくれた。

 昔の私を、思い出してくれたみたい。


「良いよ。全部付き合う。俺は高校卒業まで野球一本って決めてるけど。じゃあ一緒の大学行って、全部やろう」

「やった!」


 そんなに男が羨ましいなら、『男』したら良い。髪を短くして、ツーブロックにして。脇毛やすね毛を剃らないで。筋肉付けて。オラァとか言ったら良い。

 私は今言ったこと、全部やるつもりだ。


 逆に、当然『女』もやる。色んなファンデーションや髪の色も試したいし、可愛い仕草も練習する。上品な言葉遣いとかで、男性を虜にしてみたい。


 仕事して、部下の男に偉そうに指示を出したいし。


 毎朝お弁当とか作って。家で彼を待って、お世話をしてあげたい。


 廃棄物処理とか、皆が避けるような仕事をガッツリ現場出て汚れながらやってみたいし。


 ただただ一日中ゴロゴロして昼ドラを観ていたい。


 キャバクラで働いてみたいし。


 公務員にも政治家にもなりたい。


 彼の逞しい腕に寄りかかりたいし。


 腕相撲で彼に普通に勝ちたい。


 普通の恋愛も良いけど、たまには同性同士でイチャついてもみたい。


 全部。


「私はあなたの股間を蹴った責任を取るから。あなたは私を『女の子』にした責任を取ってね?」

「…………いつの話だよ」

「これからの話だよ?」

「………………おう」


 ああ、良いな。ぶっきらぼうな『……おう』って返事。男の子みたいだ。明日これ使おう。


 全部、良いな。


 私は野球が好きだった。


 今は全部だ。

 全部やる。

 オトコオンナが良い。どっちもできるとか、最高じゃん。


 やる。

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