肉歴社会

太刀川るい

君の筋肉は泣いているか

「起立、気をつけ、パワー」

教壇に立つ先生に向かって、クラス全員がポーズを取った。

発達した筋肉が一斉に盛り上がり、一人一人の筋繊維の緊張が空気中に溢れ出しているかのような、静謐な時間が流れる。


「パワー」

先生が見事な筋肉を見せながら、白い歯でにっこりと笑うと、僕らの筋繊維は一斉に緊張から開放された。


先生はクラス全体を見渡と、空いたままのリョウ君の机に一瞬目を止めた。そしてそのまま僕の顔に視線を移すと、

「タケル君、終わったらちょっと来てくれるか?」と言った。


あのことだな。と僕はすぐに分かった。

でもそれを顔には出さずに、はいとだけ応えて、教室を後にした。もうどうなってもいい。そんな覚悟があった。


校長室の来客用の椅子に腰掛けて少し待つと、見知らぬ男がやってきて警察のものだと名乗った。

「本部の金剛丸。通称、筋肉刑事マッスルデカです」

持ちネタなのだろう。そう言いながら、金剛丸警部は筋肉を盛り上げてみせた。

僕は上の空でそれを目にすると、タケルです。とだけ名乗った。


「君に聞きたいのは……辛いかもしれないが、君のクラスメイト。リョウくんのことだ。……彼に何があったかもう知っているね?」

もちろん知っている。この世界の誰よりも。でも、ここでそれを言うわけにはいかない。僕はただ頷いて応える。


「どんなことでもいい。彼が……父親を殺す前に何かあったのか、教えてくれないか」

彫りの深い顔の中で、どんな小さな手がかりも見逃さまいと、丸い目がぎらぎらとこちらを見つめている。僕は、ぽつりぽつりと話し始めた。


💪💪💪💪💪


社会的な成功に必要なものは、筋肉である。


それが、僕らの社会が導き出した、ダンベルのように単純で簡潔な結論だった。


社会で高い地位を占めているとされる職業で、さらに成功を納めている人間、例えば大企業の経営者だとか、馬鹿売れしているアーティストなどを、社会学者たちがサンプリングし、統計処理を行ったのだ。


多種多様のパラメータの中で、社会的成功ともっとも相関係数が高いものはなにか。導き出されたのは、筋肉だった。

もう少し正確に言うならば、腕立て伏せの回数だった。


入塾のパンフレットでその話を読んだとき、僕は当たり前の話じゃないかと思った。

どんな仕事をするにしても、一番大切なのは健康だ。どれほどの才能に恵まれても、体を壊して入院してしまえば、それでおしまいだ。


会社を興すにしても、雇われるにしても、努力することが当たり前となった世界では、どれほどの時間をその作業に投入できるか勝負が決まる。


どれだけの時間を、効率よく捧げることができるか。年々加熱する社会的競争圧力が生涯全ての時間を捧げても差のつかない水準まで加熱した時、勝負を決めるのは体力になった。

長時間の努力に耐えうるだけの強い肉体、健康さがなければ、競争で勝ち抜けない。肉体こそ全ての基本なのだ。


筋肉量と健康はある程度相関する。であるならば、健康な人間なら筋肉量に恵まれている可能性が高く、同時にそれは腕立て伏せの回数として現れる。

単純で明快な結論だった。


だから、企業や省庁は争って筋力のある人間を採用するようになった。

選抜方法はこれ以上ないぐらいシンプルだ。試験官の前で腕立て伏せを何回できるか。


ぼくはこの試験が大好きだ。生まれも、育ちも一切関係ない、極めて公平な試験だからだ。手を肩幅に開いて冷たいタイルをしっかりと掴むように手のひらを広げ、背筋を伸ばす。

ぴんと全身を一直線に張って、試験官の声を待つ。

アイドル状態のエンジンのように、心臓が全身に血液を送り込むのを筋肉で感じ取る。

「はじめ」という声と同時に、ぼくは考えるのを止める。回数も、残り時間も、必要ない感情は全て消え失せて、ぼくはただ大地から重力に逆らって体を引き上げる筋肉になる。

筋肉は雄叫びをあげ、思考は真っ白に塗りつぶされる。力そのものと自分が一体化する、その瞬間が僕は好きだった。


筋肉に比べれば、他の素質なんて大したことではない。最低限の読み書きと、一般常識的な考えがあれば良い。ペーパー試験のウェイトなんて、文字通り紙のように軽かった。

リョウくんに出会う前の僕は、それに疑問は持たなかったし、親の言う通り、筋肉を育て、僕は導かれるように、名門ジムを目指す名門塾、筋力会に入塾した。


そして、そこでリョウくんに出会った。


💪💪💪💪💪


「なあ、筋肉って本当に意味あるのかな」

ある日、リョウくんはそうポツリと漏らした。


塾備え付けのジムは今日も塾生でごった返している。僕は、ワークマシンを止めると、次の人のために重りを一番下にセットして、ベンチに座り込んだ。


「意味あるって、なんでそんなこと聞くのさ」

「いや、ただ。気になったからさ。なあ、そう思わないか?」

ショーくんはそういうと、右手をゆっくりと握った。それに合わせて前腕部の皮膚がゆっくりともりあがり血と肉の山脈を形作る。


「リョウでも、受験ノイローゼになるんだな」

リョウの筋肉は彫刻のように見事で、思わず見とれてしまう見事さがあった。文句なしに僕らの首席だ。その筋力があれば、どこに行っても通用するだろう。

「別にそんなんじゃないさ……なんていうかな、例えばさ、俺たちはダンベルを持ち上げられる。でもさ、機械はもっと持ち上げられる」


「そうだろうね。バイクに乗れば走るよりずっと速度がでる。でもそんなことはずっと前から指摘されていることさ。試験で見られるのは、その実筋肉量じゃない。

その筋肉を手に入れるために、どれくらいの努力ができるかということなんだ」


どこかの参考書で読んだ内容をそのまま僕は口にする。


「筋肉は鍛えれば、誰でも強くなる。誰だってさ。でも、大抵の人間はその努力が出来ない。だから筋肉を鍛えることができるかを選考に使うのは、努力ができる人間の選別に合理的だ。考えても見ろよ。これほど公平な試験があるかい? 一回でも多く腕立てができる人間を採用する。ジムだって少しでも可能性のある方を取りたいはずだ」


「そこが納得出来ないんだよな」

ショーくんは言葉を切ると、じっとその大きな手を見つめる。

「ジムってさ。筋肉を鍛えるためにあるんだよな。でも今はトップジムに入るために、筋肉が必要だ。おかしくないか? ジムって、本来はもっと筋肉のない人間のためにあるんじゃないのか」

「仕方ないさ。どんなジムだって無限の会員は受け入れられないよ。だから選抜する」

本当はショーくんの言っていることは理解できた。ぼくがトップジムを目指すのは将来のためだ。トップジムに入れば、将来は明るいと信じているからだ。就職先も、出世にも断然有利になる。だから、ぼくがそこを目指すのは完全に自分のためで、本来のジムの用途とは違うかもしれない。でも、それに対して嘘をつく気はない。


「結局、その選抜が本来の目的からかけ離れている原因になっていると思うんだよな。ジムには筋肉を育てたい人が行けばいい。社会の中で成功するためにいくのは、それは本質と言えるのか」

「それは確かにそうかもしれない。でも今の僕らは……鍛えるしかない。だろ?」

僕がそう言い残してダンベルを手にすると、少し考えてからリョウくんもワークを再開した。


💪💪💪💪💪


「なるほど、普段のリョウ君はそんなことを考えていたんだね。やっぱり、彼は自分の父親のことを知ってたということかな?」

金剛丸刑事の質問に、僕はさあと応えた。

「わかりません。僕もネットの記事で読んだだけですから。でも、気がついていたような素振りはありませんでした」

「ありがとう。参考になるよ。続けて」

「そこからは特に話すようなこともありません。ある日、リョウ君のロッカーから、例のものが出てきたんです」

金剛丸刑事はじっと僕を見つめると、息を吐いてその呪わしい言葉を口にした。


「筋肉増強剤だね」

「はい」

「ショックだった?」

「……ええ、まあ。でも何かの間違いだと思ってました」

筋肉増強剤は、僕らの塾では当然不正とみなされる。検査で引っかかれば退塾処分は免れない。

リョウくんのロッカーから、鉛筆みたいに細身の注射器が出てきた時は軽い騒ぎになった。講師の人が何人も来て、話し合っていたのを覚えている。


その時の僕は、まだ楽観的に考えていた。リョウくんが不正だって?そんな馬鹿な。あの筋肉に嘘があるなんて間違いだ。検査すればすぐに解るさ。そう思っていた。


「でも、間違いじゃなかったわけだ」

僕は頷く。

「リョウ君の父親に会ったことは?」

「何回かあります」

リョウくんの父親は、痩せっぽちで、いかにも貧弱そうな見た目をしていた。この人からリョウくんが生まれたなんて、初めて見たときは信じられなかった。


「どう思った?」

「優しそうな父親だと思っていました」

でも、それが間違いだったことを僕は知っている。リョウくんの父親は、リョウくんに黙って筋肉増強剤を少しずつ投与していた。薬物検査でもバレないように微量ずつ。ところが、リョウくんの違法薬物騒動で最新式の検査が導入されたことで、それが発覚したのだ。


「恐ろしい話だね。自分の子供に少しでも筋肉をつけてもらいたい。そんな親心だったのかもしれないね」

リョウくんの父親が何を考えていたのか、今となってはわからない。でも彼は彼なりにリョウくんのことを大事にしていたのだと、僕は思う。でも結局それは息子の人生を壊してしまった。そして、最後は口論になって、自分の息子に殴り殺された。


「それからリョウくんとは?」

「それっきりです。連絡も取れないし、なんて言ったら良いのか」

「ありがとう。彼のことがよくわかったよ」

金剛丸警部はそういうと、両手を組んで上体を前に出した。


「ただ、まだわからないことがあるんだ」

「なんでしょうか?」

「薬物のね、形式が違うんだよ」


僕の鼓動が早くなる。


「リョウくんが父親から投与されていたのは、経口型の薬物だ。でもロッカーから出てきたのは、注射器だ。おかしいとは思わないか?」


「……」


「矛盾があるんだよ。私の見立てでは、リョウくんは検査の結果が出て初めて自分の父親をしでかしたことを知ったはずなんだ。そのまま父親を問い詰め、口論の末に殺害してしまったと。そう考えるのが普通だね。ではなぜ注射器がロッカーから出てくる?」

金剛丸警部の筋肉は怖いぐらいに緊張している。まるで真実をその腕力で押さえつけ日の当たる場所に引きずり出そうとするように。


「さらに、最初の騒動の時、リョウくんは素直に検査に応じている。自分がやっていないと確信していたからだ。そして、注射器に残されていた薬物はたしかに彼から検出されなかったんだ。だから……」


金剛丸警部は僕の顔をじっと見つめた。乳酸が心に溜まっていくのを感じる。


「こうは考えられないか? 彼に嫉妬した誰かが、彼の荷物に注射器を忍ばせた。最初は軽いイタズラのつもりだったのかもしれない。検査すればすぐに彼が無実なのが解るからね。だが、運命の悪戯か、彼は自分でも気が付かないうちにクロだった。ここに不幸があると思わないか」

「リョウくんは……なんて言っているんですが?」

「黙秘しているよ。なあ、君、リョウくんはだれかを庇っているんじゃないか?」


僕はつばを飲み込んだ。今すぐ全てをぶちまけたい気分だった。内蔵が悲鳴を上げ、身を捩るのが分かった。心臓の筋肉が随意筋だったら良かったのに。

金剛丸警部はお互いの息が重なりそうなぐらい近くまで寄って僕の顔を見ている。

筋肉の塊が、僕という存在を握りつぶし、欺瞞に満ちたこの肉体をめちゃくちゃな肉塊に買えてしまうようなそんな気がした。


「……心当たりがないなら、大丈夫です」

永遠にも思える数刻が過ぎ去った後、金剛丸警部はそういうと、椅子に深く座り直した。僕はほっとして、体の力を抜く。汗ばんだ手のひらにつやつやした椅子の革が張り付いた。

「悪かったね。友達がこんなことになったというのに」

「いえ、リョウくんのためになるのなら」

僕は虚しい偽善を口にすると、その場を後にした。


💪💪💪💪💪


筋肉に意味はあるのだろうか?

リョウくんにそう言われてから、その言葉は大胸筋の奥底に刺さって抜けなかった。


なぜあんなことをしてしまったのか、自分でもわからない。嫉妬……なのかもしれない。自分より遥かに才能のある人間が、その才能と向き合わないことに腹を立てたのかもしれない。


金剛丸警部の言っていることは正しかった。僕はただ、騒ぎになれば良いとだけ思ってた。その軽い気持ちが、リョウ君の人生を台無しにしてしまった。


僕は、鏡の前でポーズを取った。

筋肉が膨らみ、そして硬い丘陵を作りあげる。


自分の体を美しいと思ったことは一度もない。醜いまでに膨れ上がった筋肉は、罪と恥辱で膨らんでいる。見ているだけで吐きそうだ。

この筋肉になんの意味があるのだろう。本当のことを言えない弱い僕が、ほんの少しの勇気もない僕が、これだけ鍛えて力を手に入れて一体何になると言うのだろう。


罰を受けるのは僕の方なのだ。


僕らはこれからどうなっていくのだろう。この競争に磨かれた肉体をどこで休めれば良いのだろう。


競争、ああ、競争。僕たちはどこまで競争を続ければ良い?

いつまでこの不格好な肉体を維持していれば良い?

それははっきりわかっていた。

リョウくんがそれを教えてくれた。


競争に終わりはないのだ。

社会の平均より成功したい、そんなささやかな願いを皆が持つだけで、世界は終わることのない闘争に巻き込まれる。全員の願いは絶対に叶えられない。


筋肉でなくたって同じことだ。計算能力とか、暗記能力とか、文法の正確さとか、そういう能力を代わりに用いても、結局は同じところに帰着する。

それらの能力も機械にはかなわない。コンピュータに勝てる人間はいない。だとするならば、筋肉との違いは何もない。


基準を変えても逃げることはできない。腕立てが廃止されれば、スクワット。そのまた次は腹筋。手を変え品を変え、競争は永遠に続く。

そして、僕らは不必要な筋肉で膨れ上がり、それを維持するために莫大なリソースを注ぎ込む。時間と、若さと、金銭と、持てるもの全てをつぎ込んで、決して降りることのできない生存競争を走り続けるしかないのだ。


この肉体はただのトロフィーだ。タンパク質で形度られた世界で一番醜いトロフィーだ。社会階層を決めるためのただの儀式、どれだけの時間を費やせたかという犠牲の象徴にすぎない。そこに終わりなどないのだ。


鏡の前で僕はポーズをとりつづける。いつの間にか、僕は泣いていた。

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肉歴社会 太刀川るい @R_tachigawa

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