驢馬の宿 〜板橋三娘子異聞〜

飯島明子

驢馬の宿 〜板橋三娘子異聞〜

 一人の百姓が荒地を開墾していた。野放図に大きくなった桑の木がなければ、昔ここに人が住んでいたと思う者はあるまい。

 ─ 地味は悪くないな。

 百姓は指の間で土を潰しながら思った。桑の木も伐採して萌芽を育てれば、妻が蚕を養うのに丁度良いだろう。

 長い戦乱の時代にこのあたりは戦場となり、集落全体が無人となって久しい。しかし二皇子が禅譲により帝位についてから十年、ようやく太平の世が訪れようとしていた。地方では農村の復興に力が注がれ、知府が入植者を募ったのだ。開墾しただけ自分の土地になるとあって、この百姓も張り切って働いている。

 鍬が石のようなものに当たり、百姓は地面にかがみ込んだ。地中から出てきたのは骨、おそらく人骨だったが、彼はまるで動じなかった。乱世の間には、もっと酷いものを何度も目にしている。墓碑も棺桶もない古い骨など、驚くほどのことはない。百姓は肩をすくめ、骨を放り投げて、また土に鍬を入れはじめた。木でできた黒っぽい人形も出てきたが、彼はこれも放り捨てた。

「おっと」人の声がして、百姓は振り向いた。

 白い髭を生やした、穏やかな顔つきの老人が立っている。その手には、さっき百姓が投げた人形があった。

「おや、すまんね。ぶつけちまったかい」百姓は尋ねた。

「いやいや、大丈夫だ」老人はにこにこ笑って言った。「なかなかよくできた人形だな。お前さんが作ったのかね」

「違うよ」百姓は鍬によりかかって言った。「ここに埋まっていたのさ。骨と一緒に」

「ほう、骨と」

「この辺は戦場だったというからな。珍しくもないさ」百姓は言った。

 沈黙が落ちた。老人は手の中の人形をつくづくと見つめた。

 ─ なんだか人形と喋ってるみたいだな。

 百姓はふと思った。黒ずんだ人形の目が光った気がして、彼はぞくりとした。

「これと似た人形が、他になかったかね」老人は顔を上げて尋ねた。

「いや、出てきてないが」

「そうかね」老人はうなずいた。「邪魔をしたな」

 人形を手に立ち去る老人を、百姓は首をかしげて見送った。けれども再び開墾に没頭するうちに、老人のことも人形のこともそれきり忘れてしまった。


 夜中、満月が天頂にかかる頃、開墾地に老人の姿があった。老人は人形を地面に置き、小声で呪文を唱えると、瓢の水を口に含んでぷっと吹きかけた。すると人形は動きだし、またたく間にぐんぐん大きくなった。次の瞬間、老人の前に立っていたのは美しい女であった。年の頃は三十ばかり、赤い衣を着ている。

「名は何という」老人は尋ねた。

 女は手を重ねて深く頭を垂れた。「三娘子さんじょうしと申します」

「昼間、頼んでおったな。連れ合いを探してくれ、と。見つけてやったら代わりにわしに何をよこす」

 女はまた頭を下げた。「ご命令ください。何でもいたします」

「ふむ、では待つが良い」

 老人は野面を眺め渡し、口の中で長い呪文をつぶやいた。そして両手をゆっくりと上げた。すると、まだ耕されていなかった荒地の一角がぼうっと光りだした。

「あそこだ」

 三娘子は光る地面に駆け寄り、素手で土を掘り返しはじめた。白く柔らかに見える手なのに、固い土を掘っても皮膚は傷つかず痛みも感じないらしい。しばらく必死に掘り続け、やがて彼女は喜びの声を上げた。

「いました!」

 彼女が土の中から取り出したのは、木でできた男と牛だった。鋤や臼もある。

「お願いです。私にしてくださったように、この人のことも大きくしてあげてください」

 女は老人に頼み込んだ。

「やってみよう」老人はうなずき、男の人形と牛を地面に置いて、また呪文を唱え、水を吹きかけた。

 しかし人形は大きくはならず、物も言わなかった。立ち上がり、牛に鋤をつけて地面を耕して回っていたが、それが終わるとまた動かなくなった。

「なぜ……」三娘子は呆然として人形を見下ろした。

「まだ年月が足らんのだ」老人は静かに言った。「作られてから五十年ほどしかたっておらぬだろう。そう……、自在に動いて人同様になるには、あと百年はかかる」

「でも、私はこうして女になれましたのに…!」彼女は老人に訴えた。

「お主は別だ。主人の血をたっぷり吸ったからな」老人は女の赤い衣を指差した。「それにお主には名前がある」

「では、この人にも私が名付ければ……」

「いや、それでは駄目だ。作り手や主人が名付けた名でなければ、力は宿せぬ」

 女はうなだれた。

〝そうか、女の方は三娘子というのか。お婿さんに名前はないのかい〟

 懐かしい声が脳裏によみがえる。人形と牛を木で作った男の、穏やかな声。娘のために、自分の妻に似せて女の人形を作り、次に自分自身に似た男の人形を作ったのだ。

〝考えてるんだけど、まだ決まらないの〟幼い主はそう言いながら、人形たちを竃の前に並べる。〝三娘子は、家で機織り。お婿さんは牛を連れて畑に行く。そうして蕎麦の種をまいて……〟

 けれど三娘子の連れ合いに名前が付けられることはなかった。娘も、その家族も死んでしまったのだ。一夜の宿を借りに来た旅人たちに殺されて……。

「……分かりました。では、待てば良いのですね」三娘子は、男の人形と牛を拾い上げた。土の中でも待ち続けたのだ。まだ待つことなど、何でもない。

「このように月の明るい夜に、水を吹きかけてやると今のように動き出す。それを繰り返しておれば、百年待たずとも動けるようになろう」老人は言った。「だが最後に命を吹き込むためには、お主も修行して通力を得ねばならん。できるか」

 女はうなずいた。「はい、どんな修行でもいたします」

「よし。では山に連れて行ってやろう。修行の後は、わしの命令通りに働いてもらう」

 三娘子は深く頭を垂れた。「承りました」


    *** *** ***


 汴州の開封の近くに板橋店はんきょうてんという村があった。村はずれの街道沿いには一軒の旅籠があり、年の頃三十ばかりの女が一人で切り回していた。女将の名は三娘子といった。彼女はなかなか美しく、また働き者だった。家の前に植えた桑の木で蚕を飼い、宿の仕事のかたわら機を織る。宿場を通る商人がいつも高値で買って行くほど、彼女の織物の質は良かった。

 そんな三娘子を嫁にと望む男は多かったが、彼女は一度も首を縦に振らなかった。そもそもどこの生まれで親はどういう人なのか、結婚したことがあるのかどうか、村の者は誰も知らない。尋ねてみても、女は白い歯を見せて笑うばかりである。

 たまに訪れる馬喰の老人だけが、彼女がここに来る前から懇意にしていたらしい。けれどこの老人も村の者とはあまり喋らないのだった。老人は人の良さそうな顔に、白い長い髭を生やしており、三娘子に〝柳さん〟と呼ばれていた。

 三娘子の宿は小さかった。奥に女将の部屋、表に客の寝泊まりする大部屋、ここが食堂にもなる。使用人の一人も置かない簡素な宿で、宿賃もごく安いのに不思議と裕福らしく、裏庭では驢馬ろばをたくさん飼っている。番わせて仔を産ませているのか、増えた驢馬を馬喰の柳老人が時おり買って行く。驢馬を買うのは彼ばかりではない。馬を連れていない旅人が来ると、三娘子は驢馬をごく安く売ったり貸したりする。それが旅人の口から口へと伝わり、旅籠は大変繁盛した。

 数十年前のような戦乱はもう起こらないとはいえ、旅はまだまだ危険なものだった。特に板橋店の近くでは追い剥ぎが出る、と噂されていた。宿場にたどり着けず野宿などしていると、いつ襲われるか分からなかった。大人しい驢馬を安く手に入れられるのなら、荷物を背負わせることはできるし、明るいうちに次の宿場まで難なくたどり着けるだろう。こんなに良いことはない。


 あるとき、秋の終わりのころ、趙季和という名の貧しい行商人が、洛陽へ行く途中でこの旅籠に泊まった。先客が六人、みな寝台がわりの長椅子に腰を下ろしていたので、趙は一番奥の空いている長椅子に落ち着いた。

「女将さん、明日、驢馬を都合してもらえないか」旅人たちの一人が尋ねた。

「はい、何頭お入用です?」

「できたら一人一頭、六頭お願いしたいんだが、そんなにいますかね?」

「貸してたのが明日の朝までには戻ってくるから、大丈夫ですよ」三娘子は愛想よく笑った。

 驢馬の値段の交渉も済み、三娘子は客たちを手厚くもてなした。

「お客様がたは、どちらからいらっしゃったのですか?」

 六人の一人が答えた。「山東からです」

「まぁ、山東から。山東のお客様がたには、よくお世話になっているんですよ」

 女将はにこやかに酒を勧めたので、客間は飲めや歌えの大騒ぎとなった。趙はもともと酒を飲まなかったが、一同に加わって喋ったり笑ったりして過ごした。やがて夜が更けて、寺の太鼓が二更を告げるころになると、客たちはみな酔って眠りに就いた。女将も自分の部屋に帰り、扉を閉めて閂をかけた。

 客たちはぐっすり眠っていたが、戸口あたりで鳴く虫の声があまりにやかましくて、趙だけはなかなか寝付かれなかった。折しも満月で、格子戸から月光が差し込み、床を白く照らしていた。幾たびも寝返りを打つうちに、ふと趙はごそごそいう音に気がついた。彼の長椅子の脇、土壁の一箇所が小さく崩れ、穴が空いていて、その向こうから聞こえるらしい。向こう側は三娘子の部屋である。見れば穴からかすかに光もさしている。怪訝に思った趙は、そっと起き上がってその穴から女将の部屋を透かし見た。

 三娘子は火を灯した油灯を持ち、箱のようなものを卓上に置いたところだった。油灯の灯りで照らし出された彼女の顔は、表情がなく、仮面のように見えた。三娘子は箱の中から、木でできた人形と、牛、鋤を取り出した。どれも七寸ほど、片手に載るほどの大きさで、玩具のようである。三娘子はこの三つをかまどの前に置いて、水を口に含んで吹きかけた。すると木の人形が立ち上がり、牛に鋤をつけて、竃の前の土間を耕しはじめたではないか。

 趙が息を殺して見つめていると、三娘子は一袋の蕎麦の種を木の人形に渡した。人形は耕した土間に蕎麦の種を蒔いた。みるみるうちに蕎麦は芽を出し、葉を茂らせ、白い花をつけて実を結んだ。三娘子は箱から鎌やふるい、臼を取り出して、人形に与えた。木の人形は蕎麦を刈り取り、踏んで篩って籾殻を飛ばし、臼で挽いて粉にした。たちまちのうちに、七升ほども蕎麦粉ができたのである。それが済むと、木の人形はくたっとその場に倒れ、牛も動かなくなった。

 三娘子は人形と牛と鋤、鎌や臼など、全て元どおりに箱に納め、蓋を閉めた。そして蕎麦粉を鉢に入れると、水を入れて練りはじめた。漬物や肉を入れて平たく伸し、焼餅しゃおぴん、これは日本で言うところのおやきのようなものであるが、それを何枚かこしらえた。竃で焼き上げた焼餅を皿に載せると、彼女はようやく寝支度をし、油灯を吹き消した。灯りが消える寸前に見えたその顔は、傀儡師くぐつしの使う人形の頭のように固く見えて、覗いていた趙は背筋がぞっとした。

 ─ 気付かれてはならない。

 彼は音をたてないように長椅子に再び横になると、目を閉じて寝たふりをした。一、二度、女将の部屋の扉が開き、闇の中で彼女がそっと客たちのことをうかがっているような気がしたが、趙は動かなかった。

 やがて一番鶏の声がして、格子戸の外が少しずつ明るくなってきた。三娘子は部屋から出てきて灯りをともし、厨の竃を燃やしつけて大鍋をかけた。旅人たちに生姜茶を振る舞うためである。この時代、茶は生姜などと一緒に湯で煮出して飲むものだった。

 起き出してきた旅人たちに、三娘子は茶を出し、一緒に蕎麦粉の焼餅も大皿に盛って卓上に置いた。

 趙は「急ぐので」と言って焼餅には手を触れず、勘定を済ませて外に出た。しかし歩き去る振りをして、彼はまた旅籠にこっそり戻り、格子戸の隙間から室内を窺い見た。

 六人の旅人たちは茶を飲み、焼餅に手を伸ばして食べていた。しかし食べ終わる前に変化が起こった。旅人たちの手から焼餅が転げ落ちたかと思うと、その手は細長く伸びて先端が蹄となり、顔も首も、そして耳もにゅうと伸びて毛が生え、次の瞬間そこにいたのは六頭の驢馬だった。みな地を蹴り、悲鳴のようにいなないている。

 三娘子は、にぃ、と笑った。「山東の驢馬は高く売れる」

 彼女は鞭を手に驢馬を追い立て、裏庭の厩へと連れて行った。そして彼らの荷物を改め、路銀も何もかも巻き上げてしまったのである。

 見ていた趙は、腰を抜かさんばかりに驚き、音をたてないようこっそりとその場を離れた。あれは仙術というものだろうか。いや、仙人は徳が高いと言われている。欲張りな人間をからかったりたぶらかすことはあっても、普通の旅人を家畜に変えて売り飛ばし、路銀をかすめ取るような非道なことはしないはずだ。妖術、とでも言うのだろうか。

 妖術。

 〝三娘子のように人間を驢馬にする妖術が使えたら、俺も一儲けできるかもしれない〟

 しがない行商人稼業から足を洗い、次々と手に入る驢馬を売って大金を手にする自分を想像し、趙はほくそ笑んだ。そうなったら開封に大きな屋敷を構え、自分では何もせずに召使を雇って暮らすのだ。〝趙大人〟とうやうやしく呼ばれるようになるだろう。器量好しの大家の娘と結婚して、息子娘は七人ほど……。

 趙は深く息をついて、妄想を打ち切った。そのためにはあの人形を手に入れねばならないし、それには三娘子を始末しなければならない。さて、どうするか。


 それからひと月ほどして、趙は帰りの旅で再び三娘子の旅籠に泊まることにした。一計を案じたのである。板橋店へ到着する日の昼、彼は茶店に寄って、蕎麦粉の焼餅を作らせた。前に見た、あの怪しい焼餅と同じ大きさのものだった。

 夕方になって趙は、何くわぬ顔で三娘子の宿に入って行った。今夜の客は彼一人だったので、女将は以前に増して手厚く歓待した。冬も間近のこととて、夜は冷え込んだ。先月あれほどうるさかった虫の声も、静まり返っている。煌々と輝く満月だけが、前回のときと同じだった。長椅子には分厚い藁布団が敷かれ、三娘子はさらに、暖かそうな綿入れ布団を客のために出してきた。

「他にご用はありませんか」彼女は訊いた。

「明日の朝、出発するときに、すぐに食べられる点心をお願いします」趙は言った。

「はい、どうぞご心配なく。それではごゆっくりおやすみください」三娘子はにこやかに言って立ち去った。

 夜中、趙が例の壁の穴から覗いてみると、三娘子は以前とそっくり同じように、木の人形と牛に土間を耕させているところだった。人形が蕎麦の種を蒔き、緑の芽がぐんぐん育って白い花をつける。見守る女将の、青白い無表情な顔も以前と同じで、趙の背には冷たい汗が伝った。これ以上見ることもない。彼は布団をかぶって眠ろうとつとめた。

 翌朝、三娘子は趙に生姜茶を淹れ、くだんの焼餅を皿に盛って出した。それから何かを取りに厨へ行った隙に、趙は自分の用意してきた焼餅を一枚出して、皿にある焼餅一枚と取り替えた。女将が戻ってくると、彼は言った。

「やあ女将さん、うっかりしていたよ。実は私も昨日、茶店で焼餅を買ってきていたんです。折角作ってもらったので、女将の焼餅をいただきます。どうです、私の焼餅を食べてみませんか」そして先ほどすり替えた三娘子の焼餅を、荷物から取り出して差し出した。三娘子は礼を言って受け取り、食べはじめた。趙も皿に移しておいた自分の焼餅を食べはじめた。

 ほどなくして三娘子の手から食べかけの焼餅がぽとりと落ちた。彼女の目は〝信じられない〟というように見開かれ、口を開けて何か言おうとしたが、その声はすでに驢馬のいななきに変わっていた。手は蹄となり、体はかがんで四つ足を地面につけて、耳も鼻づらもどんどん伸びて、あっという間に女は雌驢馬に変じたのである。

 驢馬は狙い定めて趙のことを蹴ろうとしたが、趙の方が素早かった。驢馬の背に飛び乗った彼は、裏庭に追いたててしこたま鞭をくれ、さんざんに追い回したので、驢馬はとうとう降参し、耳を垂れておとなしく服従するようになった。趙はからからと笑って三娘子の居間に行き、例の人形と牛の入った箱のほか、ありったけの銀子や金目のものも奪って荷物に押し込んだ。そして驢馬に乗って旅立った。

 三娘子は足取り確かで頑丈な驢馬になった。日に二十里は進むことができるので、旅路は大いにはかどったが、趙には不満なことがあった。奪ってきた人形に水を吹きかけてみても、一向に動く気配がないのである。どうやって動かすのか驢馬に問うても、何しろ畜生のこと、耳を上下させるばかりで答えはない。たっぷりあった銀子は、道中の街の賭場ですってしまった。趙はくさくさした気持ちを抱えながら、驢馬に乗って行商を続けるしかなかった。



 四年の歳月がたった。趙は相変わらず行商をしていたが、都の近くで古い廟の前を通りかかったところ、一人の老人と行き会った。老人は温和な顔に白い髭をたくわえており、にこやかに趙に挨拶をした。

「趙季和さんでしたね」老人は言った。

「そうですが、どうして私の名をご存知なのですか?」趙は驚いて訪ねた。

「以前、板橋店の近くでお会いしたことがありましたが、覚えておられませんか」老人は言った。「私は柳と申します。柳士禎、馬喰を生業としております」

 老人の顔には覚えはなかったが、行商という商売では多くの人に出会う。〝きっと俺が忘れているだけだろう〟と思って、趙は話を合わせることにした。

「ああ、柳さんですね、お久しぶりです」趙は言った。

「以前は歩いてご商売をしておられましたね」柳老人は言った。「今は随分立派な驢馬に乗られて……」

「なかなかいい驢馬で、よく歩きますよ」趙は言った。「まぁ、山東の驢馬ほどではないのでしょうが」

「おや、山東の驢馬をご存知で?」

「なんでも高く売れる、と聞いたことがあります」

 老人は口を開けて「はははは」と笑った。歳の割に立派な白い歯の持ち主である。「いや、どこで聞かれたのか知りませんが、〝高く売れる山東の驢馬〟というのは乗るための驢馬ではありません。阿膠あきょうにするのです」

「阿膠?」

「薬です。驢馬を殺して皮を剥ぎ、毛をこそいでからその皮を煮込むのですよ。血を補い肌を美しくするというので、かの楊貴妃も愛用した高価な薬剤ですぞ。…どうされました。顔色がお悪いが……」

「い、いや、何でもありません」趙は言ったが、胃から酸っぱいものがせり上がるような気がした。山東から来たあの六人の旅人は、それでは……。

「素直そうな顔をしとりますな」老人は驢馬の鼻づらをなでながら喋っている。「おや、ちょっと鼻にできものができているようですよ。私は馬喰ですので、馬や驢馬に効く薬を持っています。ひとつ塗ってあげましょう」

 断る間もなく老人は驢馬の鼻のあたりに片手をかけた。引き続いて起きた出来事であまりに驚いたので、趙はもう気分の悪さもどこかへ消し飛んでしまった。老人は驢馬の顎にもう片方の手をかけたかと思うと、力任せにその口をべりべりべりっと引き裂いたのである。すると口の中から三娘子が元の姿で躍り出て、驢馬は皮一枚だけになり、くしゃくしゃと崩れ落ちた。皮の上に尻餅をつく形になった趙が、呆然と見上げていると、三娘子は「柳兄、助かりました。お礼申し上げます」と地面に伏して老人を拝礼している。

「お主、四年も驢馬になっていたとは、何というざまだ」老人は言った。「それでは通力もほとんど無くなっておろう。さ、参れ。山に戻って修行せねば元の力は戻らぬぞ」

 そして老人は三娘子の腕を取ると、一陣のつむじ風となって宙に消えた。


 趙は気が抜けたようにしばらくそこに座り込んでいたが、いつまでもそうしてはいられない。立ち上がって重い荷物を背負い、歩き出した。やがて彼は開封の城門をくぐり、安宿に入った。寝台で荷ほどきしていると、苦々しい思いがこみ上げてくる。妖術で大金を稼ぐ夢は消え、それでも驢馬がいるだけ楽だったのにその驢馬も消えた。不思議な人形の動かし方は、ついに分からずじまいである。彼はいまいましそうに舌打ちして、役に立たない人形の箱を荷物から取り出した。これからは驢馬ではなく自分で荷物を背負わなくてはならないのだ。無駄な物は少しでも減らしたい。

 趙は人形の箱を持って、宿の向かいにある質屋に入った。人形をかたにわずかばかりの銀子を借りると、趙は少し胸のつかえが取れた気がした。人を驢馬にして売り払うくらいのことは、金儲けのためならやろうと思っていたが、殺して薬にする話を聞くと、さすがに恐ろしかったのである。彼はその銀子で少し骰子賭博をし、都で商売をした後、旅を続けた。


 行商人が受け出しに来ないので、質屋の玉泉堂では人形を質流れ品として売りに出した。半年ほどしても買い手がつかなかったため、主は店の奥の物置にしまいこみ、そのまま忘れてしまった。

 ところがその少し後、開封一帯に大雨が降った翌日の夜のことである。

 質屋の物置では雨漏りがあって、売れ残りの質種を突っ込んである行李も、中の品物も随分濡れてしまった。夜半に雨は上がり、満月が煌々と瓦屋根を照らし出したので、「明日には濡れた品物を乾かせるな」と主は言った。

 主が二階の住居で寝支度をしていると、戸締りをしていた召使が、慌てて階段を駆け上がってきた。

「旦那様、物置から変な音がします」

 質屋の主は豪胆な男だったので、片手に灯火、もう片方の手に麺棒を握りしめ、店へ降りて行った。確かに奥から妙な音がする。そっと物置の戸を開けると、格子戸から差し込む月光の下で、びしょ濡れの木の人形が木の牛に鋤をつけ、床を耕しているではないか。

 主の後ろでは召使が腰を抜かしていたが、主は「こらっっ!! 人の店で何をしているかっっ!!!」と人形を怒鳴りつけた。途端に木の牛はぴたりと動かなくなり、人形もその場に崩れ折れた。

 翌日主は、人形と牛と鋤や臼など、箱に入っていたものを一切合切燃やしてしまった。

「長い年月としつきを経た物は、あやかしとなることがある。だが燃やしてしまえば精気は散り果てて、再び集まることができない。恐れることはないさ」主は召使にそう言い聞かせた。しかしそれは、別の災難のはじまりだったのである。



 また四年の月日が流れた。趙は相変わらず行商で小商いを続けていた。少し遠出をして新しい品物を仕入れようと、長安の都を目指す途中、曲城という所に泊まった。道士たちの修行場として名高い、険しい華山の麓の村である。泊まり客は少なく、相部屋の客もおらず、趙は部屋でゆっくりとくつろいでいた。夕食の後、戸を叩く者があるので、茶を持ってきてくれたのだろう、と出てみると、そこに立っていたのは忘れもしない、あの三娘子だった。八年前から一つも年をとったように見えなかったが、こちらを睨みつけるその目は火を噴かんばかりである。

「人形を出せ」三娘子は言った。

 口をぱくぱくさせていた趙は、やっとのことで言った。「も、持っていない」

「嘘をつけ!」

「いや、本当だ。俺には使い方が分からなかったから、質屋に預けてそれきりだ」

「どこの、何という質屋だ」

「開封の玉泉堂という店だ」

「嘘だったら、お前の生肝を抜いてくれるわ!」

 そう言い捨てて、三娘子は走り去った。

 趙は呆然とその後ろ姿を見送った。質屋で見つからなかったら腹いせに殺されるのではないか、と思うと夏でもないのに脂汗が出てきたが、開封までは遠く、三娘子が戻ってくるにも一月以上かかるだろう。その頃には趙も旅の空の下、どこか遠くへ行っている。

「大丈夫だ、落ち着け」趙は自分に言い聞かせ、戸に掛け金をかけて寝台に入った。

 夜更けに、がちゃりという音がして、趙は目が覚めた。戸の掛け金がひとりでに外れ、すぅっと開くと、そこには再び三娘子が立っている。左手に持った灯りに照らされたその顔は、冷たく無表情で、趙は全身に鳥肌がたった。

「燃やされていたわ。四年も前に」三娘子は一歩、また一歩と寝台に近づきながら言った。「いつか生きて動けるようになったはずなのに……!」

「俺じゃない。俺がやったんじゃない」趙はがたがた震えながら言った。

 三娘子は無言で、右手に持っていた丸い物を、寝台の前の床にごとりと落とした。転がったそれを見て、趙は悲鳴をあげた。あの質屋の主の首だったのだ。

 夜中の絶叫に旅籠中の者が目を覚まし、行商人が一人で泊まっている部屋にどやどやと押し寄せた。宿の主が油灯を掲げて戸口を開けると、女将や召使たちは金切り声を上げた。月光に照らされた床にはおびただしい血が流れ、その中で行商人は絶命していた。服もろとも腹が引き裂かれ、肝がえぐり取られている。他には誰もおらず、窓の格子戸は開け放たれて風に揺れ、きぃ、きぃ、と軋んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

驢馬の宿 〜板橋三娘子異聞〜 飯島明子 @Lindera_umbellata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ