第4話 金木犀

 10月24日金曜日、今日は残業をしないと心から決めていたので、一切の心の隙も見せず、仕事のお願いを断った。今日は許してほしい。残業をする事が美学という日本の風潮も、おかしいと思うが。


 しっかりと定時に上がった私は、映画館のある以前と同じ玄野巣駅へと向かった。お昼過ぎに星川さんから、仕事が長引きそうで19時半ごろになると連絡があった。時計を見ると時刻は17時半を差していた。2時間ほど時間があるので、駅前のコーヒーショップへと足を運こんだ。あと少しで読み終わる『容疑者Xの献身』で時間を潰した。石神が2人の罪を被るという結末まで読み終えた私は、正直映画を観なくても充分楽しめてしまった。上映中の2時間ほどは、星川さんの隣にいる幸せを感じたい。


 時間が経ち酸味の増したブレンドコーヒーを飲み干した私は、駅前の噴水広場の前で到着を待った。5分とかからずに、目の前の改札口から彼が歩いてきた。


「遅くなってすみません。結構待ちましたよね?」


 時間にするとそれなりに待った。


「いえ、私も仕事が長引いたので少し前に着いたばかりです」


 待ちましたかという問いに対して、定型文で答えることを選択した。


「よかったです。上映時間まで少し時間があるのであそこのカフェでお茶しませんか?」


 まさかとは思ったが目線の先を見ると、私が十分前まで滞在していたコーヒーショップだった。


「良いですね、そうしましょう」


 彼にとっては知る由もない事なので仕方がない。正直に伝えても、先ほどの定型文の辻褄が合わなくなるので、本日二度目の来店となった。


 入店してから、店員さんの目を見るなり「先ほど一人でご来店されてましたよね」という顔をしないでくれと表情で伝えた。一日に何人も接客をする店員にとっては気になる事ではないのだろうが。


「私はホットコーヒーにしますが、田島さんは何を飲みますか?」


すでにお腹はホットコーヒーで満たされていたが、彼と同じくホットコーヒーを注文した。ひとまず映画の鑑賞中に寝ることは無いだろう。


 一人で座っていたカウンター席とは別の、向かい合わせの肌触りの良い木の椅子のある席に座った。前回は気が付かなかったのか、彼からは金木犀のような少し甘い匂いがした。


「香水いい匂いがしますね。金木犀ですか?」


 香水の香りが苦手なのだが、昔から金木犀の香りが好きで思わず聞いてしまった。


「確か金木犀だったと思います。今日は気分で付けてみたんですよね」


「人間の香りの記憶ってすごいですよね。ある匂いが引き金になって、記憶が蘇る時がありますよね」


 彼も、同感の表情で頷く。


 彼に覚えてもらえるかなという一抹の期待を持ち、私も金木犀に似た香水を纏うことを決めた。


 星川さんへの気持ちばかりが先行してしまい、いざ彼を目の前にすると緊張も相まって質問が思いつかない。近いうちに髪を切ろうと考えていたので、髪型の参考にもなると思い好きな髪型を聞いてみた。


「星川さんって、女の人の髪型でこんなのが好きってありますか?そろそろ髪切ろうかなって思ってて、髪型悩んでるんですよね」


 直球すぎる質問に引かれないかとヒヤヒヤしたが少し考えて答えてくれた。


「そうですね、あんまりこだわりは無いんですけど、強いて言うならショートカットですかね。本人が気に入っていれば、それが一番その人に似合ってる髪型だと思いますよ」


 全ての女性の味方だなと思ったが、その反面一番髪型に悩むことになる回答だった。ショートカットは長らくしていないので、最有力候補になるかもしれない。


「ショートかぁ。ここ数年長いままだったからありです。参考にさせてもらいます」いたずら混じりの笑顔で答えた。


「ちなみに星川さんのその髪型好きです。真っ直ぐで、マッシュって」


 左の耳たぶを触りながら、恥ずかしそうな笑顔でありがとうございますと言う彼に何だか微笑ましくなった。


 使っている香水と好きな髪型を知れたのは、かなりの収穫だ。


 その後は映画についての話や、完成した記事について話した。残念ながら実物を持っていなかったので、後日渡す約束をした。


 小1時間ほど話したところで、映画館へと向かった。


 映画館に誰かと行くと、必ず悩む事なのが売店だ。私は映画館でポップコーンも飲み物も買わない派だった。相手がそうでは無かった場合気を遣わせてしまうので念の為確認した。


「私もです。食べてると喉が乾くし、飲むとトイレに行きたくなるので悪循環です」


 トイレの話になったからか、少し気まずそうな笑顔で答えていた。入口の売店では何も買わないことが決まった。


 公開したのがつい最近ということもあるのだろう、空いている席が端ばかりだった。なるべく観やすくする為にと、タッチパネル式の券売機のチケットの左下(座席で表すとスクリーンに向かって左側の上段)を選択した。大人二枚を購入した。


 私たちはチケットを提示する場所の、目の前にあるソファで入場開始時刻まで時間を待った。


 映画が上映されている間、どうしても映画より彼に意識が向いてしまう。目元にほくろが一つあることに気付いたし、手がとても綺麗だなと半分見とれていた。


 誰もが感じることだが、楽しい時間というのは瞬く間に過ぎ去る。


2時間の上映時間は短く感じるのに、授業の1時間は気が遠くなるほど遅かった。


 先ほどの2時間が早く感じたのは、映画が面白かったという事よりも、星川さんがすぐ隣にいるという現実の影響だと思うが。


 エンドロールが終わり、場内の暖色の照明が点灯するまで動き出さないというのが鑑賞のマナーで暗黙のルールだと思う。エンドロールを観ずに帰る人たちがいるが、私は感覚が合わないなと思うと共に、星川さんがそれでなくて安心した。


 暗黙のルールを終え、星川さんと目を合わせた。彼は納得した表情で、さらに満足そうな顔をしていた。きっと想像以上の良い作品だったのだろう。


「内容は知っていたけど、映像になると現実味が増していいですね」


「湯川先生が福山雅治っていうのもハマり役でしたね」


 本当に映画も面白かったが、隣に星川さんがいたことへの嬉しさは言えるわけがないので、そっと心にしまった。仕方がないことなのだが、閉まってばかりの感情をいつか伝えられるようになりたい。


 今私たちがいる映画館併設型ビルは、上映が終了した20時半で閉館のようで、一旦外へと出た。


 繁華街だという事もあり、外は騒がしい。


 街を見渡すと、居酒屋の呼び込みをする胡散臭うさんくさいお兄さんや、ネオン看板が誘う夜のお店などで活気に溢れている。


 映画を観た後の予定は立てていなかったので、お互い目を合わせどうしようかという空気が流れた。


 その空気を先に取り払ったのは彼の方だった。


「せっかくなので一緒にご飯を食べたい所なんですけど、実は明日朝が早くて。」と、直接ではないが解散を促された。


「いえいえ、お気になさらず。またご飯にでも行きませんか?」


「もちろん。私もそうしたいと思ってました。予定が分かったらメールしますね」


 また会う約束を立て、週末ということでこの後もあるのかなと少し期待をしていたが、解散することになった。


 別れの挨拶をし、前回と同様に別々の方向へと歩いた。少し歩いたところで後ろを振り返ったが、彼の姿は眠らない夜の明かりの中へ、溶けるようにして見なくなっていた。


 酔っ払ったサラリーマンが頬を赤くして座る銀川線に乗り帰路につく。最寄駅へ着いた私は、家に夕飯がないことを思い出した。無性に牛丼が食べたくなったので、帰路にある牛丼チェーン店へと入った。牛丼といえば大体三つの派閥勢力に分かれるが、私はチーズ牛丼が一番美味しいすき家派だ。


 以前この話をした友人からは、すき家は好きではないと言われたので、好みは本当に分かれるのだろうと、生産性のないことに耽ける。


 週末の夜に1人で牛丼を食べる女性は、周囲からどう見えているのだろうか。くだらないことが頭をよぎったが、牛丼と共に空腹の胃の中へとかき込んだ。

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クロッカスの舞う夜に。 藤沢 玲 @Ramy824

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