第3話 ホシカワイツキ
インタビューした内容を簡単にデータにまとめ、例の職歴で威張る上司への報告も終え、定時の17時丁度に退社をした。私の職場からさほど遠くない玄野巣くろのす駅に18時に待ち合わせをする約束だったので、余裕を持って到着する事ができた。玄野巣駅はこの地域では最も栄えている駅だと思う。東京の新宿や渋谷などに比べれば静かな街だが、玄野巣駅周辺も飲み屋があれば、それに合わせてラブホテル街もあり、歓楽街としての条件は揃っている方である。そんな風に改めて駅の周りを眺めていると、人混みから抜け出してきたホシカワさんがこちらに向かってきた。
「お待たせしました。今日は田島さんにお待たせしてばっかりですね」
相変わらず謙虚で気の使える人だと、今日会ったばかりの彼に感心した。
急遽決まった予定なのでお店の予約などもしていなかった。私が前から気になっていたお店を提案した。
「行ってみたかったスペイン料理のお店があるのですが、そこに行きませんか?ここからも近いので」
「僕も気になっていました。パエリアが美味しいと話題みたいですよね」
そんな他愛もない会話をしながら向かった。待ち合わせ場所の駅前広場にある、裸体の女性が壺を持ったモニュメントのある噴水から、徒歩五分ほどのお店に向かった。
到着したお店は、一言で表せば隠れ家的と呼ばれるものだろう。グルメ情報誌で最近よく見かける、大人の隠れ家的ダイニング・大人の秘密基地のようだ。私の勤務するローテ出版でも先月刊行された雑誌で、そのような特集を組んでいたところだ。入口扉は木製で、上の部分が半円形の両開きになっているもので、アンティークな雰囲気が漂う。建築用語で言うところのR垂れ壁だったと、学生時代の記憶を蘇らせる。その扉の右側をホシカワさんが少し重そうに開き、私達は店内に足を踏み入れた。水曜日のノー残業デーの影響もあるのか、店内はBGMが聞こえなくなる程賑わっていた。
店内に入り、少し時間を置いてから店員さんが私達に気が付いた。目の前まで来て軽く一礼をしながら、いらっしゃいませと挨拶をされ、私たちは席へ案内される。
向かい合わせの席の、奥のソファへ彼はエスコートしてくれた。木目調の何も置かれていないテーブルに手を置きながら、電球色で少し薄暗い店内を二人で見渡す。
使われている家具はアンティーク調のもので、電球の暖色光にぼんやりと照らされ、ノスタルジックな雰囲気が漂う。
横の壁には、四角い木の枠の中で明るいいくつもの点描が、暗い夜空を照らすように輝く。時刻は18時20分。外は寒空が青い。
先程とは別の、肌が少し焼けていかにも健康そうなショートカットの女性の店員さんが、左手の平で持ったトレンチに、レモン入りのお水とメニューを乗せて運んできた。このお店では呼び鈴は無く、店員さんが頃合いをみて注文を聞きに来るようだ。話題のパエリアはやはり人気なようで、見開きのメニューに大きく配置されていた。他にも定番のスペイン料理から、名前の知らない郷土料理まである。一通りメニューを眺め、ある程度注文が決まったところで、その事を分かっていたかのように店員さんが、注文を聞きに笑顔で歩いて来た。先ほど話していたパエリアと、サラダ、パスタ、チョリソー、それと各々ドリンクを頼んで、注文を終了した。注文した品を待ちながら、インタビューの時に話題にあがったスツールについて再び話をした。
「田島さん、アルヴァのスツールが好きだと言ってましたけど家でも使っているんですか?」
「もちろん使ってます。一人暮らしですけど、4脚置いてあります。重ねて収納できるし、サイドテーブルにも使えるので重宝してます」
「おお、4脚も。まさにアルヴァのファンですね。さすが卒論のテーマにするほどです」
笑顔で言われたので、一人暮らしで4脚は多いのかもしれない。
「ホシカワさんは家で使っているんですか?」
「有名デザイナーのものだと唯一アルヴァのものは使っているんですよ。参考にはなるんですけど、既製品のデザインに思考が似てしまうと嫌なので、なるべく有名どころの家具は使わないようにしてます。唯一こだわりを持っている事です」
「さすがです。そういうこだわりがあるからこその実績なんですよね」
若くして才能を発揮する人間は、他に見ることのないこだわりがある。
しかし、私が一番聞きたいのはスツールのことではない。付き合っている男性はいるのか、どんな人が好きなのかという事だ。いきなり話題を変えてもあからさまなので、もう少し盛り上がってから聞くことにしよう。そんなことを考えながらふと右を見ると、暗い背景の前で幾多の光が額縁のような四角い枠の中で輝いていた。
そうしている内に、注文したドリンクがまずは運ばれてきた。スペイン料理にはやはりワインが合うのだろうが、お互い一杯目からワインを飲むということには慣れていなかったのでカクテルを注文した。小さな猿の絵が描かれている、冷えたロングカクテルグラスを少し傾け、私たちは乾杯をした。「改めて、お疲れ様です」
仕事の話をするという名目で食事に出掛けたが、乾杯後はプライベートの話に華が咲いた。ホシカワさんの漢字を知らなかった事にもふと気づき、尋ねてみた。
「今更何ですけど、ホシカワイツキってどんな漢字書くんですか?」
ネットや受賞式の際も全てカタカナ表記だったので公表されていないことは気づいていた。
「やっぱり気になりますよね、公表してないけど隠している訳では無いので毎回このやりとりしてます。星川唯月です」
鞄からマット調の黒のボールペンを取り出し、テーブルに備え付けの茶色い紙ナプキンに書いて見せてくれた。唯月という漢字を見て、勝手に「樹」と想像していたので意外だなという感情を顔に出してしまっていた。
「ははは、そんな意外そうな顔しないでくだい。けどあまり見ないですよね、唯月って漢字」
「漢字から柔らかそうな雰囲気が伝わって、星川さんそのもののような気がします。いい名前ですね」
名前をしっかりと知れた時点で私からするとかなりの進歩だった。名前の話題でひとしきり会話が盛り上がったところで、好きな映画の話になった。
「映画館で映画を観るのが趣味なんですけと、田島さんは映画を観たりしますか?」
正直そこまで興味は無かったが、好きと言えば映画デートに行けるのではないかと思い、好きですと答えた。さらに昨日広告で見ただけの作品名まで言ってみた。
「好きです。容疑者Xの献身が今気になってます」
「本当ですか!私もその映画見たいんですよ。今度観にいきませんか?」
運が良いのか、計算通りの結果に驚いた。もちろん行くに決まっている。
「是非行きましょう!来週の金曜日はどうですか?」
「来週の金曜日私も仕事早く終わるので行けそうです」
来週の予定を立てたところで、お店を後にする事にした。入り口を入ったすぐのところにあるレジを、彼は「ご馳走様でした」とそのまま通り過ぎた。「あれ、星川さんお会計…」と不安になりながら聞くと、先程トイレに行くと席を外した際に、お会計を済ましてくれていたそうだった。なんてスマートなんだと感心しながら「ご馳走様でした。ありがとうございます」と心から感謝を伝えた。
時計を見ると20時半を回ったところだった。2人で駅まで歩くと、今日はありがとうございましたと言い合い、星川さんは新南しんなん線の改札へ向かった。次会った時には澄んでいる場所の会話をしても大丈夫だろうかなどと考えながら、私は銀川ぎんかわ線へと向かった。銀川線の最寄駅に着いた私は駅前の本屋さんに立ち寄り、『容疑者Xの献身』の原作本を買った。来週までに読んで、予習することにした。以前読んでいた本を読み切るのに四ヶ月近く要したので、来週までに知識を入れ込むことに不安がある。
駅から15分ほどの距離にある自宅へ着く頃には、すっかり頭の中は星川さんの事で埋まっていた。
無事に星川さんの記事を書き上げ、入稿まで進んだのは、出会いを果たしたあの日から12日後の、10月27日だった。例の上司からは、珍しく記事の内容を褒められたのでむしろ気持ちが悪かった。この特集は再来月の12月に店頭に並ぶので、完成品を早く彼に見せてあげたい。後から分かったことなのだが、前日の秋華賞で馬単を的中させたのが理由らしい。ニュースでちらと見たが、一着のブラックエンブレムは人気が11番目だったそうで、馬単の払戻し金にも大きく影響を与えたのだろう。私の父親も、昔から毎週競馬に勤しんでいたので知識が少しある。その父親だが、今回の秋華賞は惨敗だったそうだ。
記事を書き上げてから金曜までの4日間は、特に何も起こらず今までと変らない日常が過ぎていた。私が過ごす日々に変化は無かったが、金曜が近づくにつれて心が躍っているのが分かった。嫌いな上司にも苛立ちを感じないし、昨日の銀川線遅延にも広い心でいることができた。漫画の主人公のような、分かりやすい気分の上がり方をしている。誰かこの一週間を漫画にしてくれないだろうか。ちなみに周りの友人にはこの事は話していない。今まで恋愛に対して高揚感を覚える女では無かったので、恥ずかしいのだ。
頭の中は星川さんのことで一杯なのだが、どうにも仕事が忙しい。
入社してから四年目となると、先輩と後輩の板挟みになり気持ちが保たなくなる。気の弱い先輩からは管理職への愚痴は聞かされ、大学生気分のまだ抜けない新人への苛立ちも溜まる。かつては私も先輩に同じことを思われていたのかもしれないので寛容な気持ちで見てあげたいが、実際に後輩をもつと大変なものだ。それよりも、解決の糸口がない愚痴を後輩に吐き続ける先輩にだけはなりたくないと思った。
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