忘却曲線

 先輩に恋なんてするんじゃなかった。しかも、ネットで知り合った、隣の県の、超進学校の、二つも上の受験生に。


「次はいつ会える?」


 別れの時間がまもなく訪れることを、嗅覚が悟っていた。ベッドの上、動くのもままならないほど力尽きている身体で指先だけ、希望に縋って手を伸ばす。


「ごめん、わかんないかも」

「そっか、そうだよね。勉強頑張って」


 空がそんな私の指先を握って、申し訳なさそうに眉を下げた。近くで見つめ合っているから、細かな表情の変化にはすぐに気づいてしまう。


「頑張るね、ありがとう」

「一番応援してる」


 崩れそうになる表情を、無理やり口角を上げることで持ち堪えさせている。さっきから涙は流れて止まらずに、全て枕に吸われていく。空は気づかずに私の頭を撫でていた。部屋の暗い照明に埋もれて、私はゆっくりと目蓋を閉じる。瞬間、空の腕に包まれた。そこはいつもと変わらず、つんと鼻の奥を突く寂しさの匂いがした。


 誘ったのは私だった。思えば、会ってみたいと最初に言ったのも、好きになったのも、告白したのも全部、私からだった。両想いなのに恋人じゃない、この近くて遠すぎる関係に名前が欲しい。好きを伝えれば同じ分だけ返してもらえるのに、明日にはなくなりそうな脆さが常につきまとっている。会うたびに、これが最後だと思っていた。それに、今日は本当に最後になるかもしれない。そう思っての行動だった。


 思い立ったら考えなしに行動に移してしまうのに、自分の気持ちは胸に閉じ込めて我慢する、そんな性格だった。他人から見えやすい思い切りの良さが目立って、FPSのゲームを通じて仲良くなったのが空だった。プレイヤー名はSky。本名を英語にしただけの、安直な名前。私も同じだと言って、素性を明かして笑い合ったころにはもう遅かった。


 今思えば、とっくに。


「そろそろ時間だね、動けそう?」

「うん、さっきよりは」


 目蓋を開ける。空が立ち上がって電気をつけて、光が目に差し込む。目が覚めてすぐと同じだ。眩しくて目の前がちかちかと点滅して慣れない。先程までの時間は夢みたいで、ふわふわしていて、思い出そうとすればするほど細部の記憶が消えていった。


 最後だという虚無感がじわじわと、身体を現実感へと連れ戻していく。部屋を出て、街を歩いて、駅が近づいて、別れの時間が近づくうちに、それは段々と鋭利な刃物に形を変えた。心臓の中心にずぷり、と刺さっていく。柄の部分まで刺さり切って、とうとう息を吸うたびに痛むようになったころ、空とばいばいをした。


『今日はありがとう。疲れてるだろうから早く寝てね』

『ありがとう! 会えて嬉しかった』


 ホームで電車を待つ数分間に交わすメッセージ。今日の思い出とどきどきを反芻する会話が、そこから間髪入れずに続いていく。身体はほんのり温かくて、しぱしぱと微炭酸が弾ける感覚が肌の表面を撫でていく。その熱に身を委ねられているときは、満ち足りていて胸がいっぱいで、麻酔みたいに痛みを忘れて頬が緩んでしまう。けれど、ホームにアナウンスが流れた一瞬で現実を意識してしまえば、痛みがぶり返して、私は息をすることさえもままならなくなってしまう。


 今だけだと、分かっているから。甘々で心が弾んで気持ちが加速して、空への想いの明るい部分に溺れられるのは今だけ。既読がすぐにつくのも、いくつ連投しても全部のメッセージに返信が来るのも、「夜電話しよ」って言ったら二つ返事で「いいよ」って快諾してくれるのも。会って話して触れ合った直後の、今がピーク。


 明日になれば、明後日になれば、もっと時間が経っていけば、忘却曲線のグラフみたいに、恋の気持ちは漸次的に小さくなっていく。今この瞬間の「好き」を忘れていくみたいに。


 空の方が圧倒的に記憶力が良いのに、その空の脳のメモリを私に与えてもらえない。私の方が恋愛脳だから、明日以降生まれる想いのギャップにしんどくなってしまう。空への想いの暗い部分が今日すら見え隠れしていたのに、明日からは一体どうなってしまうんだろう。受験前、夏休みの終わり、ここからはどんどん受験モードになって、きっと会えない。


 空は単語や数式なんかを覚えていくたびに、私のことを忘れていく。私にとってははじめてを全部あげた人でも、空はそうじゃないから。私はもう生涯、忘れることなんてできないのに、特別なのに、空にとっての私はその他大勢に含んでしまえる存在。だから、長期記憶に定着していないこの気持ちは、桜が咲くころには忘れ去られているんだろう。



「おはよう、真夏」

「おはよ」


 デートから一週間後、二学期一日目。補習でちょくちょく顔を合わせていたとはいえ、私が大人になったのと同じように、夏休み明けの教室はみんなどこか変わっている気がする。


「真夏! きいて、彼氏できたの!」


 分かりやすく、友達が変化していた。登校してきた私を見るなり、美鈴はスマホの画面を向けながら走り寄って来た。


「おお、おめでと。隣のクラスの野球部の……」

「西田祐輔」


 名前を思い出せなくて言い淀む私に、美鈴は小さくなった飴玉を最後まで転がすみたいに大切そうな声を出す。


「そうだそうだ、西田くん」

「この子朝からこればっかなんだよ」


 美鈴の後ろから気怠げについて来る理香は、大きなため息をついている。


「別にいいじゃーん。あのねあのね祐輔ね」


 美鈴は頬を赤らめながら、彼氏との馴れ初めや惚気をマシンガントークで展開していく。心なしかポニーテールの結び位置が高く、子犬の尻尾のようにぶんぶん揺れている。美鈴は春からずっと「彼氏が欲しい」と口癖のように嘆いていたから、私も心から嬉しいはずなのに。


 目を輝かせて、両想いになりたて特有のとろけた雰囲気で話されるうちに、心がざらりと舌で舐められたような、不穏な感触に包まれた。


「分かったから。告られた話はもう三回は聞いたから」


 そう言う理香は眉間に皺が寄っているものの、口角はほんのり上がっていた。私もちゃんと喜ぶ気持ちの方で表情を作れているか不安になる。不愉快な感触に見舞われていくうちに、私の内側から笑顔が消えていく。得体のしれない感情に悶えていると、理香があ、と窓の外を指差した。


「西田くんじゃない?」


 人差し指の先を見ると、ちょうど登校中の西田くんがグラウンドを歩いているのが見えた。比較的緩い部活なのに、野球部男子らしい坊主頭。見るからに好青年で、新学期一日目にもかかわらず爽やかなオーラを振りまいている。笑ったときにできるえくぼが可愛いのだと、今さっき美鈴が熱弁していた。


「わ、祐輔! 電話しちゃおっかな」


 美鈴は言うが早いか窓際に駆け寄って胸ポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリの一番上をタップして電話をかけた。するとすぐ、外の西田くんもスマホを耳に当てて、ほぼ同時に、美鈴がワントーン上がった声を出した。


「祐輔おはよー! 上見てうえうえ!」


「……、いいな」

「ん?」

「え、あ。彼氏いいなーって」


 思わず漏れていた声を、あはは、と空元気でごまかす。マイペース直進な元気タイプの美鈴とは違い、理香は落ち着いていて人の感情にも聡い。私が我慢しがちなことも半年で見抜いて、美鈴の勢いについていきそうになるのにブレーキをかけてくれる、頼れる存在。


「まあねー。真夏は良い人いないの?」


 理香から目を逸らす。だからこそ、言えない。冷静なくせに友達思いだから、理香に言ったら百、私を擁護してくれるから。


 曖昧だった不愉快な気持ちが輪郭を帯びて、はっきりと形作られていく。今分かった。この気持ちは。


「いないよ」


 嫉妬だ。空のかっこよさを二人に喋って知らしめたいのに、どうせすぐに終わる関係なのが分かっているから言えなくて、私も何の断りもなく空に電話をかけてみたかったと、願望から来る気持ち。遠慮とか諦めとか、そんな気持ちを知らない、ハッピー純度百パーセントの恋を猛進している美鈴に対しての嫉妬だ。


 私もそんな恋であってほしかった。


「真夏」

「ん?」

「元気ない?」

「全然、そんなことないよ。大丈夫」


 大丈夫。受験なんて私には関係ない、だからもっと好きな気持ちのままに行動したい、もう失恋のプレイリストをかけながら毎日泣くのをやめにしたい。ぶちまけたら負けだ。こんな気持ちは全部閉じ込めて、自分自身に言い聞かせる。いつか全部素直に吐き出せる日が来ることを少しだけ望んでしまっている自分が、心底嫌いだった。



『勉強休憩タイム』


 震えたスマホに飛びついて通知を確認すると、案の定相手は空で頬が緩んでしまう。今の今まで単語帳を開けて詰め込んでいた英単語が、浮ついた脳内からころころと抜けてその辺に落ちていく気がしたけれど、また覚え直せばいいだけだ。


『おつかれー! 何してたの?』

『模試の復習してた。見てこれ』


 そう言ってからすぐ、一枚の写真が送られてきた。ノートやペンケースが見切れている中央に、模試の結果が写っていた。五教科全て偏差値は六十五を超えていて、一番得意な英語は七十、三。第一志望校の判定は余裕でAだった。


『すご! え、めちゃすご!』

『ありがとう』


 一度、空を褒め称えたい尊敬の気持ちが膨れ上がって、けれどメッセージを送信した途端に、自分の模試結果が思い出されて一気に憂鬱になった。


『私も今日帰ってきたんだけどさ、過去イチ悪くて死にたい』


 得意な英語、国語も偏差値は六十に届かず、大嫌いな数学は五十を割ってしまった。来年になってから、空とまだ関係を続けられていたら教えてもらおうと密かに思っている。


『勉強しようね』


 がんばろう、のスタンプがその言葉に続き、勉強に身が入っていないのを指摘されたことにどうしてもいらいらしてしまって、画面を割らんばかりの勢いでフリック入力をする。伸びた人差し指の爪が画面を裂くように動いて、音を立てた。


『してる! 今も学テの勉強してる!』


 口を尖らせながらも、返信に求めていたのは褒め言葉だった。いつも通り「えらいね」って言葉が欲しくて、頭をなでているスタンプを押してもらいたかった。秒速レスポンスを期待していた。


 それなのに、五秒待って、十秒待って、二十秒待っても、既読は付いているのに、画面は動かないままだった。空がちょうどアプリを落とす瞬間に送ってしまったのかと思って、「空」とソフトタッチで名前を呼ぶ。間髪入れずに既読がついて、画面を開けたままだということが分かってしまう。


 なんで何も言わないのか、またいらだちかけて、その間もなく送られてきたのは私の名前だった。


『真夏』


 胸騒ぎがした。普段は「真夏ちゃん」って呼んでくれるのに、呼び捨てにされたから。十六年寄り添った名前の文字列が一画ずつばらばらと離れていって、一つの意味のまとまりとして認識することができない。自分の名前じゃないような異物感。異国の文字を見たときのような。


 今の今までにこにこと人懐っこい笑みを浮かべていた空が真顔になった。画面越しに明らかに空気感が変わったことが分かってしまった。


『春まであんまり連絡取るのやめようか』


 殺意を帯びた一刺しが、私の恋の息の根を止める。八つ裂きにされたみたいだった。意思を持って、何度も何度も刃物を抜き差しされて、ぐちゃぐちゃになって。悲鳴をあげたり、痛いと思ったりする暇さえない。


 邪魔だと、言われてしまった。


『分かった』


 最後の力を振り絞って、震える指先で、伝えたい言葉とは正反対の言葉を示す。極度の圧迫感に、胸が血を吹きながら潰されそうだ。


 嫌だと素直に言えたなら、そういう可愛い女の子だったなら、空の隣にずっといられるんだろう。私は可愛くもなければ美人でもなくて、能力が高いわけでもないから。そんな誰かに取って代わられないように、隣にいる今を守りたくて、意見することもできず、何も伝えずに従っているだけだ。


『テス勉、がんばろね』

『うん』


 送信して、既読がついて、どれだけ待っても返信は来なくて、やがて画面が薄暗くなって、五分に設定している自動ロックが機能して、画面が真っ黒になる。その黒に反射した自分の顔は酷い有様だった。


 ぶさいく。ブサイク、不細工。顔のパーツが全部中央に寄っていた。眉間は皺だらけで、つり目で、鼻は力が入って硬貨が入るくらい広がっていて、口は人中がなくなるほどへの字になっていた。涙を生み出す成分の感情たちが全部ごちゃ混ぜになって私の胸を渦巻く。硬直していた手の上に、熱を帯びた水滴がぽたりと落ちる。次々に流れ落ちて手の甲から指の間を伝って画面に落ちていく。小さな水たまりができようとも、画面が再び光ってくれることはなかった。



 必死にペンを走らせる音が、静寂の中に響いていた。試験時間は残り三分。今から手をつけたところでIも解けない数学の大問を目の前に、私はペンを置いて虚無を見つめていた。見直す気力もない。部分点なんて知らない。国語、英語、そして最後の数学。乗り切った。やり過ごしたのだから、最後の三分くらい、何も考えなかったとしても許されるだろう。


 時間は無為に過ぎて、終了のチャイムがもう間もなく鳴りそうだ。秒針が上がって、十二を指して、プッと時間を切り裂くように空気が変わる音がして、直後、チャイムが鳴り響く。急いていた空気が一気に緩むこの瞬間に馴染むことができない私。もう少し時間が欲しかったという望みも、テストから解放されたという喜びも、何も持ち合わせていない。


「すぐ帰りのホームルームだから準備しろー」


 担任の指示に従って荷物をまとめる。普通なら真っ先に見るはずのスマホの電源はつける気にもなれなかった。何も通知のないロック画面を見るのを、自ずと避けていた。


「はい、連絡は以上、帰りのホームルーム終わり」


 担任が諸連絡を簡単に伝え終わって、解散になる。温められた水分子が突沸して弾けるように、空気が変わって、駆け出していく。


「真夏おつかれー、帰ろ」

「帰ろ帰ろー!」


 呼ばれた声に弾かれて、元気スイッチを無理やりオンにして顔を上げる。心配されないように、口角をいっぱいに上げた表情を意識しながら。


「美鈴、彼氏と帰らなくていいの?」

「うん! 今日は祐輔部活なの」


 彼氏の名前を出しただけで、とろけた表情になる美鈴。大好きなチョコミントパフェを食べたときよりも、目は輝いていて口元は緩んでいた。


「西田くんって言えばさ、野球部のマネが狙ってるって噂あるけど」


 私がリュックを背負ったのを見届けて、ゆっくり三人で歩き出す。口を開いた理香がぽろっとそんなことをこぼして、私は険悪な空気に成ることを覚悟した。


「らしいねー」


 予想に反して、他の雑談と同じ声色の美鈴に視線を向けると、表情も普段通りに戻っていた。


「あれ、知ってたんだ。美人だよねーあの子」

「え、わかる」


 野球部のマネージャーと言えば、確か西田くんと同じクラスの子で、昔読者モデルをしていたらしいと噂の美人だ。彼女のおかげで今年の野球部の新入部員は豊作だったと、私のクラスの野球部の子が声高に喋っていたことを思い出す。


「何とも思ってないんだ、彼女の余裕ってやつ?」

「そんな感じよー」


 翳りのない笑顔。好きな人のことを想う明るい部分だけに浸っている顔。暗い部分を全く知らない、陽だまりみたいにぽかぽかしたオーラ。


「なんで、不安じゃないの」


 廊下の突き当りを曲がって、階段に差し掛かる。次の一歩を踏み出せずに足が止まって、二人が先に行く。テスト終わりの騒々しさの中で、私の口から飛び出たその切実な声は重く、地を這うように階下に響いた。


「だって、祐輔が好きなのは美鈴だもん」


 振り返った美鈴は、私を真っすぐに見つめていた。自信に満ちて誰よりも輝くその瞳が眩しかった。吸い寄せられて足が動く。二人に数段ずつ遅れをとりながら、昇降口へ向かう。


「思ったんだよね。美鈴よりも美人だったり可愛かったりする人は絶対にいるけど、美鈴より祐輔と気が合う人はいないなーって」


 前を向いて歩く美鈴の顔は見えないけれど、きっと、どんな金メダリストよりも自信に溢れているのだろう。美鈴の言葉で、私の涙を生み出す塊でできた気持ちに亀裂が入っていく。


「すごい惚気来たね。私も彼氏欲しくなってきた」


 下駄箱で靴を履き替えて、校舎の外に出る。視界が開けて、空が青くて、残暑の厳しい太陽が私を照りつける。テスト終わりの騒々しさと笑顔の群れに、私も紛れていく。


「うん」


 負の感情が壊れて、中から正の感情が現れる。美鈴の言葉は私にとって革命だった。足取りが軽くなって、二人の横に並んで歩いていく。けれど、話題が移った二人の会話には入らずに、考えているのは空の事ばかり。




「俺、本名空なんだよね、だからSky。安直過ぎだけど」

「同じ! 私の本名も真夏って言うの」

「ほんと? だからプレイヤー名サマーなの。いや、俺ら考えること一緒すぎだって」




 二人で爆笑した記憶が再生される。


 ゲームのキャラピックが大体被ってしまうところ、好きなフルーツがいちじくなところ、マックに行ったことがないところ、聞く曲の系統が同じところ。「え、俺も」「え、私も」って、何個も共通点を見つけては、その度に幸せな気持ちになった。


 確かに私も、空との相性なら誰にも負けないと言える。私よりも見た目が良い人だって、私よりも能力が高い人だってたくさんいるけれど、私は、そこだけは絶対に負けない。だって、そうでもなければあんなに長い時間一緒にゲームをすることだって、DMが一生続くことだってなかった。


 少し芽生えた自信が、私を強くする。私には釣り合わない遠い存在だった空が、急に近くなる。


「真夏」


 そのときだった。思い出に耽って、反芻していた声を浴びたのは。一気に現実に意識が引き戻される。校門をくぐって、目の前の景色は道路と新聞社のビルで、いつもと変わらないのに。


「なんで」


 そこに空が立っている。見慣れた景色の中に空がいる。あまりに強く思い過ぎたから、幻想を見ているのではないかとさえ思った。


「待って待って真夏、この知的感溢れる人とどういう関係?」


 けれど、美鈴と理香に詰め寄られて、私だけが見えているわけではないということを理解した。状況が呑み込めないせいでぐちゃぐちゃな頭の中で、温かい感情が存在を主張する。


 じろじろと空を観察して、警戒している理香。嬉々として私の手を握る美鈴。二人に説明しようとして、名前のない私たちの関係をどう説明すればいいか戸惑って口を開けずにいると、空が私に一歩近づいた。


「真夏ちゃんは俺の大好きな人です」


 照れる様子もなく、自慢げに、空が言う。それは太陽よりも輝いていて、温度の高い声だった。刺さりっぱなしだった刃物が抜ける。もう痛くない。まだまだ下校中の生徒がいる中で、私は目立ってしまって恥ずかしかったけれど、それでも、空が答えを教えてくれたから、私もせめて二人には伝えたい。


「うん、私の好きな人」


 きゃ、と二人が息を呑む。美鈴は頬を真っ赤に染めてなぜかジャンプして、理香は口角を上げながらも、お前もか、という呆れた目を私に向ける。


「以後よろしくね、友達さん」

「は、はい!」


 二人は口を揃えて言った後、私の背中をぐいぐいと押して前に立たせた。


「良い人いないって嘘つかれた分、全部聞くから覚悟しといてね」

「いってらっしゃい」


 最後にどん、と背中を手のひらで突かれて、足が前に出る。空が私の手を取って、見せつけるみたいに歩き出した。


「ちょっと、恥ずかしい」

「いいじゃん」


 振り返ると、二人は私に大きく手を振っていた。私ももう片方の手でちょいちょいと振り返して歩き出す。


「なんでいるの」


 言いたいことは色々あったけれど、真っ先に口から出たのがそれだった。


「メッセージ送ったんだけど、既読付かなくて」


 あ、と、スマホの存在を思い出す。慌ててリュックから取り出して電源を入れると、画面には通知が八件表示された。


「会いたくなったから」


 力が抜けて、思わずスマホを落としてしまいそうになった。緩んだ弾みで、高揚で熱くなっていた目頭から涙がこぼれ落ちる。


「嬉しい」


 連絡を取らない間に忘れられているのではないかと不安だった。考えれば考えるほど遠く感じて、胸が締め付けられて、何も手に付かなかった。あれが最後のやりとりになると思えば思うほど、死にたくなっていた。


「泣かないで、どうしたの」

「連絡とらないようにしようって言われて、邪魔だったんだって思ってたから」


 時間とお金を割いてまで私に会いたがってくれたことに、胸がいっぱいになる。繋いだ手のひらの熱が心地いい。


「そんなわけない。ごめん、言葉が足りなくて。あんまり俺が返信できないから、逆にスマホに張り付かせちゃってるんじゃないかって思って、成績が落ちてるって聞いてよくないなって思ったから」

「何それ、お互いにお互いの事想ってただけじゃん」


 視界がもっとぐにゃぐにゃに歪む。きっと、私の表情もぐにゃぐにゃに歪んでいる。


「真夏ちゃんといると落ち着くし、楽しいし、勉強頑張れるから邪魔なわけないからね」


 握っていた手が離れたかと思えば、気づいたら空の腕の中にいた。寂しさは香らない。空の匂いと体温に包まれて、空への気持ちの明るい部分に溺れていく。


「いつでも会いたいし、話したいし、ゲームしたいし、いちゃいちゃしたいんだよ」


 今まで抱きしめられた中で一番力がこもっていて、それは離さないと言われているみたいだった。一番落ち着く場所。忘れられないほどの、空への感情が溢れ出す。


「大好き」


 勝手に一人であることないこと考え込んで、悲劇のヒロインぶっていただけだった。私はばかだ。会いたいと思ってわざわざ会いに来てくれた。友達に自分の存在を堂々とアピールしてくれた。さりげないプレゼントだって、これまでいくつももらっていた。それは、会っていない時間も私を想っていることの、これから先も私を想うことの表れにほかならないのに。


「大好きだよ」


 記憶の歯車がかみ合う。記憶力のいい空だから、忘れるはずなどなかった。抱きしめ返す手に力を込めながら、今この瞬間の「好き」を、一緒に記憶に刻んでいく。


 これは忘却曲線みたいな恋じゃない。両想いになったときからとっくに定着していたんだ。会わない間に忘れていくのではなくて、会ったときに「好き」の最高値を更新していく、きっとそんな恋だ。

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『  』のような恋だった。 朝田さやか @asada-sayaka

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