日めくりカレンダー
毎日、次の絵柄に期待を膨らませて一枚めくる。そうして新しいものに出会った気がして、リセットした気分になって眠れば、朝起きたときにはそのカレンダーの新鮮味はなくなってしまっている。朝の多忙さに追われて、意識を向ける暇もない。
一番ドキドキするのは、カレンダーをめくる、その一瞬と直前だけ。何かが変わる希望を持つだけ無駄なのに、私は毎日日めくりカレンダーをめくる。そして、過ぎ去った今日を一枚の紙切れとしてゴミ箱に捨てる。これまでの過去と同じように。
四月二十九日。めくった日付の横に書き込まれているハートマーク。予定が決まってすぐに、めくったときの楽しみを削ってまで一度先に見て書き込んだ。あからさまな印を付けて、今日に意味を持たせているのは私だけだ。他の人からしたらただの紙切れ一枚、他の日と変わりない一日。
出かける準備が整って、立ちあがろうとしたときだった。ブブ、とスマホが音を立てた。
『すいません、電車遅延しててちょっと遅れます』
スマホの画面が光って、通知が現れた。
『ゆっくりおいでー』
ぐっどのスタンプを一つ送信すればすぐに既読がついて、ありがとうございますのスタンプが返ってくる。そのスタンプにリアクションだけ付けて、また机に置き直す。
立ち上がりかけた椅子に座り直し、もう一度鏡を見つめる。ビューラーを手に取って、まつ毛を念入りに上げ直す。さっきは諦めた下まつ毛も抜かりなく。
障害物がなくなって、瞳に光が差し込んだ。いつもより時間をかけて施したメイク。今日は間違いなく、過去最高に盛れていた。
いつも、何かが変わるという期待だけ胸に秘めている。大学生になったら、新年になったら、メイクを変えたら、新しい服を身に纏ったら、その度に何かが変わるかもしれないという夢だけを。大事件が起こったり、一躍有名人になったり、素敵な恋人ができたりするものだと思っていた。そんな気持ちで毎日カレンダーをめくっていた。
『私家出るねー』
今日で十代が終わったとして、明日から何かが始まることはない。分かっている、分かっているのに期待してしまう。
もう一度スマホが音を立てる。
『おっけーです、すんません!』
私は馬鹿だ。彼からのメッセージにいつ何時でもすぐに気づけるように、わざわざバイブレーションをオンにした。駆け引きなんてできずに、返信はすぐに返してしまう。餌に飛びつく魚みたいだ。罠にかかって勝手に釣れて、釣られてから事態に気づくのだ。苦しくて、息ができなくなる。
「いってきます」
誰もいない部屋に挨拶をして、歩いて、事前に予約していたカフェの前で彼の到着を待つ。昼前にもなると、日差しが強くて暑い。最近一気に春めいた気温になって、ヒートテックを着なくて良くなった。とうとう日焼け止めを塗り始めたから、夏はもう、すぐに訪れるのだろう。
今日はここでランチをしてから、近くの神社に学業成就のお詣りをしに行く流れになっていた。彼が高校三年生になったから、せっかくだからと連れ出す口実に使った。
「先輩!」
爽やかな風が吹きぬける。ヘアアイロンで少しだけ内巻きにした髪の毛が揺れて、走ってくる力強い足音が私の胸の鼓動のリズムと共鳴した。
「
走って来てくれた彼の息は荒い。少しだけ髪が乱れていてかわいい。同じくらいの身長でまっすぐに見つめられて、直視できなくて、視線を下に逸らす。
「すんません」
「大丈夫! ごめんね、来てもらっちゃって」
「いえいえ、日程無理言ったの俺の方ですし」
「たまたま土曜日授業がなくなったから、無理なんてしてないよ」
「ラッキーです、さ、入りましょうか」
水色の淡い色合いが街並みの中で目立つカフェだった。ドアを開けるといらっしゃいませ、と小柄な店員が対応してくれる。予約していた大井ですと言うと、店内の奥の四人掛けの席へ案内された。
「パーカー、似合っててかわいい」
目を合わせられないから、彼の首から下ばかり見ていた。言おう言おうとしていたわけでもないのに、座った瞬間に口からこぼれた。
「ありがとうございます。でもかっこいいって言ってくださいよー」
わはは、と二人して笑う。けれどきっと彼は知らない。かっこいいよりもかわいいの方が褒め言葉だということを。存外に愛おしいと伝えてしまっていることを。
「いつもかっこいいよ。パーカー男子好きなんだよねぇ」
覚悟が決まっているからだろうか。二年前は言いたくても言えなかった言葉がするすると口から飛び出してくる。褒めるのも好きだと言うのも、こんなに簡単だったっけ。これは、私が高校生の頃より成長したということなんだろうか。
「パーカー着て来て正解っすね!」
今なら大丈夫な気がして目を合わせたら、その瞬間に満面の笑みを浮かべられて落ちた。二年前に彼に恋心を抱いてから、これ以上好きになることなんてないと思い続けて、会うたびに話すたびに好きになっていった。
「そうそう。さ、何頼む?」
「先見てください」
「一緒に見ようよ」
私がメニューを横向きに差し出して、二人でめくる。メニューを見るふりをして彼を見てしまう。どれにしよ、とむんむんと悩む姿にまた愛おしさが溢れ出す。
「私カルボナーラにしよっかな」
イタリアンのカフェで、パスタやピザがメインに並んでいる。ゆっくりと一枚一枚に時間をかけて、メニューをめくる。デザートのページまで一周する間に私は決めた。
「えー、どれもおいしそうっすよね。決まってないのでもう一回見て良いですか?」
「いいよー」
二年前よりは成長して大人びてもっとかっこよくなっているのに、優柔不断なところは変わらない。こうして久しぶりに会って、変わっているところと変わっていないところを探している。
「ペペロンチーノにします! あ、あとデザートも食べません?」
「いいね」
変わっていないところ、甘いものが好きなところ。にこにこといつも明るいところ。
「私ベイクドチーズケーキ」
「モンブランにします。美味しそうじゃないですか?」
「モンブラン苦手なんだよね」
「え、そうなんですか?」
「そうだよー、前にも言ったー」
変わってないところ、私に興味がないところ。
「すみません」
悲しくなる前に店員さんを呼ぶ。はーい、と小柄な店員さんが走って来て、私が彼の分も注文を済ませた。
「ありがとうございます」
「うん」
「なんか、変わんないっすね。先輩って感じ」
真っ直ぐな視線が針みたいに私の心にチクチク刺さる。「変わらない」という言葉は高校生のときと同じ近さを手に入れられると同時に、大人になった私に気づいてもらえない寂しさを孕んでいる。
「二個上の歳の差は一生変わらないからねー」
「ですね。でも、俺もう三年っすよ、早くないですか?」
「めっちゃ早い。怖いもん。会ったとき一年生だったのに、私ももうすぐ二十歳だよ」
こうして話していると、生徒会室でよく二人で残って話していたときに戻れたような気がする。くるくるとよく変わる表情に、ただ淡々と言葉を紡ぐ私。あの頃からずっと変わらない気持ち。二個も上の私になんか興味ないだろうと気持ちをしまい込んだくせに、時々引っ張り出しては理由をつけて大学生になっても会っていた。
「えっぐいっす。大人〜!」
「ふふふ」
「また学校にも来てくださいね、みんな喜ぶと思います、特に
「そうだね、会いたいなー」
変わっていないところ、他の女の子の話をよくするところ。
「昨日も和香と帰ってたんですけど、明日先輩に会うって言ったらめっちゃ怒ってました。私にも会わせろーって。顔むすーって」
ふふふ、と表面だけで笑う。幼稚園から高校までずっと同じ学校で、仲睦まじい二人の様子を想像するのは自傷行為だ。できるだけ考えないように笑顔を貼り付けて聞いている。
「今も付き合ってないの?」
え、と一瞬会話の空気が乱れる。異物が混入したみたいな雰囲気が漂って、しまったと思っても遅い。
「まさか、本当に友達ですよ」
「そっか。そういう関係、いいね」
気になってると言ってしまったようなものだ。慌てて誤魔化して水を飲む。ひんやりとした舌触りが、私の頭を冷静にさせた。
「好きな人とか恋人とかいないの?」
世間話のように話を差し込む。今日はやっぱり一切照れることなく言葉が出てくる。
「高校生の間は無理ですかねー」
「ふーん」
複雑な感情が一瞬心を渦巻いて、結果虚しさだけに埋め尽くされる。誰もいないということだから私にもチャンスがあるということで、だけど、同時に誰も受け付けないということだ。それに、聞いたところでどうなる未来も見えないことは分かっていたのに。
「お待たせいたしました」
ちょうど良いタイミングで料理が運ばれて来て、空気がリセットされた。胸はいっぱいに詰まっているのに、お腹は空いていた。
「写真撮りますねー」
「うん」
はいチーズ、と美味しそうな料理を挟んで自撮り。変わっていないところ、自発的に写真を撮ってくれるところ。
「あとで送ってね」
「はーい。あ、料理だけの写真も撮りまーす」
彼は写真アプリを使って、こだわって画角を調整していた。インスタに載せるんだろうか、と考えたら思わず手が出ていて、私の手がピースの形を成した瞬間にシャッター音が鳴った。
「あっ、もう邪魔しないでくださいー」
「ふふふ、いいじゃーん」
眉を寄せた困り顔が愛おしすぎた。撮り直そうとする彼の邪魔をし忘れて、彼の表情に目が釘付けになっていた。パシャリ、と音が鳴る。画面に向けられた視線がふいに私に向けられて目が合う。その瞬間に、にやりと彼の口角が上がる。悪そうな顔に心が奪われて、視線を逸せなくなる。
「ふふ」
「な、何? どうしたの」
先に逸らしたのは彼だった。取り残された私の心臓がどくどくと早く音を立てる。彼は画面に視線を戻して指先で操作した後、ポンとタップした。また彼の視線が戻って、私の視線と交わった。私たちの視線が混ざり合って溶けようとしたとき、ブブと私のスマホが震えた。
今度逸らしたのは私だった。スマホの画面を見たら、彼からのメッセージの通知が届いていて、開けるとさっき撮ったツーショットと、それから。
「ちょっと、なんで料理だけじゃなくて私まで入れて撮ってるの」
「仕返しでーす」
私の姿が入った料理の写真だった。
彼がおかしそうにけらけらと笑う。私がむっとした顔をすればするほど笑い声が大きくなって、つられて私の中に愛しい気持ちが膨らんでいく。私は彼の、楽しそうに笑う表情が一番好きだった。
写真は、今さっき撮ったときに私まで一緒に撮られていたんだろう、彼の表情以外見えていなかったから気が付かなかった。写真に映った私は目が少しだけとろんとしていて、口元がほんの僅かに上がっていた。ハイチーズと言われたときとは違う、作り物じゃなくて、緩んだ笑み。
「この写真の無防備な顔、可愛いですね」
自分の顔を分析していたら、不意に言われた言葉にビャッと頭の中で変な声が生成されて、反射的に彼を見てしまう。いつの間に、おかしさに溢れた顔から普通の表情に戻っていたんだろう。視線が絡んで、彼の口元も緩んだ。とろけるように柔らかい微笑みが私だけに向けられる。
「な、何よ急にー」
変わっていないところ、歳下のくせにからかってくるところ。
「インスタに写真上げていいですかー?」
私の反応にもっと口角を上げた彼は、少し前に身を乗り出して上目遣いで見つめてくる。私よりもよっぽど可愛いよ、と突っ込みたくなってしまう。
「はーいストーリー投稿しまーす」
私が彼に見惚れた五秒のうちに、彼の指は高速で動いて問答無用で投稿された。
「わ、ちょっと駄目だよ」
私が慌てて抗議したら、彼がスマホの画面を私に向けてきた。投稿された写真はさっきの写真じゃなくて、一枚目に撮っていた、料理と私のピースが写っただけの写真だった。
「なんだ、その写真か」
「え、何の写真だと思ったんですか??」
煽るみたいな笑顔だった。にやにやと笑みを浮かべて、いたずらっ子のようだった。からかわれて悔しいくせに、私の手が写った写真を隠すわけでもなく使ってくれたのが嬉しい。
「うるさい、知らない。いただきます!」
嬉しい気持ちを誤魔化すみたいに私は小さい子供のように拗ねて、中央に乗った卵をグサリと一思いにフォークで突き刺した。とろりと出てきた黄身をそのままぐちゃぐちゃとかき混ぜて、フォークが持ち上げられる限界の量を巻き取って持ち上げる。スプーンでくるくると回して、大きな一口でパクリと食べた。
「うわー、拗ねちゃったな」
彼と目も合わせず、リスみたいにほっぺを膨らませて食べる私は本当にガキみたいだ。本当はもっと歳上ぶりたくて、余裕に振る舞いたくて、だからメイクもファッションも頑張って垢抜けたのに、行動がこれだと意味がない。
「謝るんで機嫌直してください」
私はまだ顔を上げられずに、噛んでも噛んでも飲み込むまでに至らない口の中の小麦粉のかたまりを処理していた。味はよく分からない。こんな方法でしか彼の気を引くことができないのが惨めで、もぐもぐと力なく噛み砕く。
「爽世さん」
名前。呼ばれたと頭が認識したときにはすでに、顔が上がっていた。
「やっと見てくれましたねー」
彼は優しさを具現化したような笑顔を浮かべていた。一切手がつけられていないペペロンチーノを前に、私を包むような眼差しで見つめていた。
いつも先輩としか呼ばれないから。高校生のときだって、他の同級生のことは「○○先輩」と名前付きで呼ぶのに、私だけただの「先輩」呼びだった。だから、こうして時々不意に呼ばれると、どうしようもないほど胸がどきどきしてしまう。その度に好きだと自覚させられてしまう。
「じゃ、俺もいただきまーす」
彼は元気よく手を合わせて、フォークとスプーンを掴んで食べ始めた。うわ、おいしーと表情豊かにリアクションを取る彼。待っていてくれたんだ、と思いながら、ようやく最後の一かたまりをごくりと飲みこんだ。これだと彼の方が断然余裕で大人だ。何をしているんだろうと気落ちして、また視線を下げた。
「めっちゃでかい一口でしたけど、味どうですかー、って先輩?」
「ごめんね」
「いやいやいやいや、大丈夫ですか。あ、俺のペペロンチーノも食べます? あー、これから来るモンブランも食べてください、あ、嫌いなんでしたねうーん。ほらほらほら、なんか面白いことしましょうか?」
彼が矢継ぎ早に喋る。変わっていないところ、優しいところ。
気づいたら、彼の変わっていないところばかり見つけようとしてしまっている。変わりたくないと、知らないうちに願っているからだ、きっと。カレンダーをめくる度、変化を望んでいるはずなのに、めくって積み上げた二年分経過しているはずなのに、そこに目を向けられない。過去を抜け出せないまま成長できていない自分。
「ううん、何でもない。カルボナーラ美味しいから、ほら史人くんも一口どうぞー?」
唐突に帰りたくなった。わざわざ二時間もかけて私のところまで来てもらって、彼の、受験生の大切な時間を奪う資格なんてない。これで最後だという理由であれ、許されるはずがない。
「んー、じゃあいっただっきまーす」
「私も、ペペロンチーノ一口もらうねー!」
無理な笑顔に無理して合わせてくれて、お互いが無理をして。好きだからこそ、すぐに感情が浮いたり沈んだりしてしまう。彼は必死に笑わせようとしてくれているのに、私は死ぬほど面倒だ。きっと私なんかといても楽しくないだろう。
「先輩、おいしいですか?」
「うん、おいしいよ」
「本当においしいですか?」
ぐいっと、彼が身を乗り出したのが分かった。言いしれぬ圧力を感じて、鈍感だった彼が人の感情に敏感になっていることを分からせられた。変わっているところ。
「おいし、ぶはっ」
ゆっくりと顔を上げると、彼はスマホの画面にネタ画像を写してこちらに向けていた。
「はーい、先輩の負けでーす」
「なんで負けたことになるの?」
「いや、勝手ににらめっこ大会開催してたんで」
「何それー、ずるいし、史人くんの顔で笑ったんでもないし」
気づいたら笑っている。あれだけ気分が落ちていたはずなのに、一瞬で明るく塗り変わってしまった。変わっていないところ、私をいつも笑わせてくれるところ。
「いいじゃないですかー、先輩笑わせたかっただけなんで」
「ふふ、ありがとう」
「笑顔の先輩が一番好きです」
ふぁ、と不意打ちでまた変な声が心の中で生まれて、今度は危うく声にしてしまうところだった。
「ありがとね」
動じてない。この好きはただの褒め言葉で、彼が私を好きだという意味ではない。無駄な期待なんて抱くだけ無駄だから。
今だけはきっと大人になれた。軽く受け止めて謝辞を述べて、流して空気は元に戻った。彼はそんな空気を切るように水を一口飲んでから、口を開いた。
「先輩は、彼氏とか好きな人とかいないんですか」
ぬぁ、とまた口の中で変な声がした。
「気になるの?」
緊張したときくらい速い脈。さっき私が彼に同じことを聞いたからという理由でも良かった。彼が私に興味を持って聞いてくれたというだけで。
「そりゃまあ全く気にならないのに質問なんてしないですよー」
「ふーん。秘密〜」
けれど、そう簡単には教えられない。あからさまに人差し指を口に当てて、ひみつ、のポーズをする。
「えー、教えてください」
気づいたら、二人とも食べる手が止まっていた。見つめ合っていた。目をはっきりと合わせて五秒、勝手に数える。五、四、三、二。
「気になります」
ふい、とまた彼から逸らされた。ほんの少しだけまごつく様子が見受けられて、愛しい。
「いるよー」
それだけを伝えて、パスタを食べる。大きな一口でまたもぐもぐと頬張るように。
「え、誰ですか? 大学の人、とか」
口がいっぱいだから喋れない代わりに、んーん、という表情だけをして首を横に振る。飲み込んで空になっても絶対に話さない。
「教えてくれないんですね、ケチ」
彼もようやくペペロンチーノの二口目以降に手を付け始めた。むすっとした表情が愛くるしくて、どうしようもなく好きだと思った。だからこそ、誰が好きかは教えられない。
そんな私の様子に彼が折れて、新しい話題を話し始めた。二人でパスタを頬張りながら、当たり障りのない雑談をする時間が流れていった。
*
「美味しかったです、予約ありがとうございました」
「うんー、でも奢らせてくれても良かったのにー」
「まだ言ってるんですか」
神社までは歩いて五分。ゆっくりと二人、春の強い日差しの中で歩きながら会話する。
「私大学生なのにー、史人くんわざわざ来てもらったのに」
「先輩バイトしてないじゃないですか、一緒です」
大人ぶらせて欲しかった。
「覚えてたんだ」
「もちろんですー。俺記憶力良いので」
こんなところだけ覚えているのはずるい。そして、記憶力がいいなら一番覚えておいて欲しかったことがある。
「モンブラン嫌いなのも覚えてね」
「覚えましたよ!」
些細な会話の一つ一つを大切に心に留めていく。北海道の大学を志望する彼には、今日以降もう会うことはできないから。
「そろそろ着きます?」
「うん」
けれど、二人きりで共有する時間はあっけなく終わりを告げた。
「爽世せんぱーい!」
太陽みたいに輝く声がした。神社の近くからぶんぶん手を振りながら、フレアスカートをふわゆら揺らしてこちらに走ってくる小さなシルエット。
「和香、お前なんで」
「ごめんなさいー、久しぶりにどうしても爽世先輩に会いたくて来ちゃいました」
ああ、もう今日は終わりなんだと思った。ボブのさらつやな髪の毛、二重のくりくりとした垂れ目、愛らしく頬をピンク色に染めて、アイドルみたいだ。行動力があるから、時々こうして大胆な行動に出るけれど、いつも受け入れられて結果的に上手くいく。そんな持ってる女の子。
「わざわざ会いに来てくれたの? ありがとう」
「わ! やったぁ」
大人だから。彼女も大好きな後輩であることに間違いないから。後輩の女の子を愛でる顔に変えて、胸の痛みには気付かないふりをする。
「行こっかー!」
仕方がないから歩き出す。帰れなんて言えるわけがなかった。
「はーい!」
「なんでここ来るって分かったの?」
「昨日帰りに史人に聞いたので、待ち伏せちゃいました」
ふへへ、って、私でもときめいてしまうくらいの可愛い笑い方をした。
「和香邪魔なんだけど、てか何が嬉しくてお前と今日も明日も会うんだよ」
「あー、ひど! 別に史人に会いに来たわけじゃないしー、そっちが邪魔」
「史人くん帰る?」
「え、先輩まで酷すぎますよ」
三人でこらえきれずに大きな笑い声を漏らす。今の私の立ち回り方はこれが最適だ。歩いているうちに気づいたら私が先導して、二人が横並びで歩く構図になってしまっていたとしても。
「明日無理だったの、和香ちゃんと会うからだったんだね」
本当は明日、彼と会いたかった。けれど、先約があるからと断られて、前日である今日になった。
「そうです。でも、和香だけに会うんじゃないですよ! 生徒会メンツで」
「あー、そっか、和香ちゃん明後日誕生日だから?」
「わぁ! 爽世先輩覚えててくれたんですか!」
「もちろん」
覚えている。私のことを一番慕ってくれていた後輩だし、私の誕生日の次の日だから。それに、メッセージアプリの誕生日登録をしているから、いつでも確認できた。
「嬉しいです……」
「ちょっと早いけどおめでとう」
彼女の目がきらきらと眩しさを増した。
「一番祝ってもらいたい人に祝ってもらえて嬉しいです!」
「ふふ、私じゃないでしょそれ」
一番祝ってもらいたい人。彼女に向けていた視線を三十度だけ右にずらす。良かったなー、と棒読みで言う彼は、二人きりでないと私に視線を向けてくれない。記憶力が良いと言うくせに、私の誕生日を覚えてくれていない。誕生日設定をしたら負けだと思って、変なところで子供みたいに意地を張っていて、おめでとうの言葉をもらいそびれるんだ、きっと。
私が入り込む隙もないくらい、二人で構築された空気感で会話を続けている。何かを喋ろうと口を開く気も起きなくて、相槌だけ打っておく。二年前から何も変わらない関係性。
「お詣りしよー」
「します!」
二礼二拍手一礼。史人くんが合格しますように。それ以外には何も願う権利を持ち合わせていない私。
「願ったから受かるかなー」
「勉強しないと受からないってばーか」
「もー!」
微笑ましい会話。段々とまた落ちていく心。私といるときは気を遣わせるから、史人くんは今の方が余程楽しそうだ。
「あ、私ちょっと買って来ていい?」
眩しさに焼かれて痛い胸の傷が、どんどん痛みを増していくのに耐えられなくなって二人から離れる。
「あ、はい!」
返事を聞くより前に背中を向けて歩き出していた。
「すみません、学業成就のお守り一色ずつ二つください」
帰ろう、と思った。大人ぶれなくなる前に。
「こちらになります」
「はーい、ありがとうございます」
巫女さんに向ける笑顔ですら怪しくなって来ているから。
「うわ、見て! 大吉!!」
「俺も大吉だしねー」
「なんだー、つまんなーい。そこは大凶でしょ」
「不幸願うのは違うでしょ」
二人のところに戻ったら、キャッキャという効果音が似合いそうな雰囲気で話していた。おみくじさえ、二人の味方をする。声をかけるタイミングを失う前に、流れで話しかける。
「二人とも大吉ー? すごいね」
「爽世先輩! こーゆーの、昔から二人とも大吉引きがちなんですよねー」
「すごーい、ラッキーガールとラッキーボーイだ」
昔から、という言葉が私の心の傷を膿ませていく。私が彼と共有できた時間はたった一年にも満たないのに、彼女はこれまでも今も、それからこれから先も、ずっと彼の近くにいる。確か、同じ大学を志望するらしい。
「じゃあそんな二人にこれー!」
私は今にも崩れ落ちてしまいそうな笑顔を保って、さっき買ったお守りを差し出した。
「わ! いいんですか? ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
驚いたように目を見開いて、そして少しだけ微笑む彼。さっき彼女と言い合っているときのような気やすさはそこにはない。
「爽世先輩もおみくじ引きません?」
「んー、私はいいかなぁ」
悪い結果が出るのは分かりきっている。そうでなくても、「恋愛 片思いです」なんて突きつけられたら本当に立ち直れないから。
「じゃあ、私は帰ろうかなー」
「え! もう帰っちゃうんですか」
「うん、今日ここまわったら解散の予定だったからねー」
ね、と彼を見ると、頷いてはくれずに私をまっすぐに見つめていた。見つめ返す余裕はなくて、すぐに視線を逸らす。心がかき乱されるのが分かった。たったそれだけで好きだという思いが溢れてしまう。
「わざわざこっちまで来てくれたから後は二人でどこでもまわりなー」
「えー、爽世先輩もっと居てくださいよ」
彼のことは見られない。視界の端に映る姿でさえも意識的に消して、彼女だけを見て話す。
「俺この後、先輩と行こうとしてたところあるんですけど」
表情が、感情が、揺れる。もっと私と一緒にいたいと思ってくれていると勘違いしてしまう。また思い出の箱に押し込めようとした思いが、閉じ込められないほど飛び出してしまいそうになる。
「この後予定あるから、ごめんね」
「今日一日フリーって言ってませんでした?」
「入っちゃったの、ごめんね」
「爽世さん」
無理だと思った。名前を呼ばれたら、視界がぼやけて、顔が歪みそうになって、胸が張り裂けそうで。
「史人くん、和香ちゃん、久々に会えてよかった! 今日は本当にありがとう」
台詞を伝えるこのときだけは、笑う。これまで会ったときとは違って、「またね」とは言わない。高校生の自分に戻って、精一杯のありがとうを伝える。卒業式の日すら寂しくて言えなかったありがとうを。
ひらひらと手を振って、一人で歩き出す。振り返った瞬間に、押さえていた涙が溢れ出す。けれど、彼に見せる背中は凛としたものになるように努めて歩いた。
彼の中の私のイメージは、ずっとただの「先輩」にしなければならなかったから。
*
静けさに包まれた夜だった。時計を眺めながら、過去を想う。時刻は二十三時五十五分。時計の秒針の音は私一人だけの部屋に確かに響いていた。
日付が変わったら、お酒を買いに行こうと思っていた。十代を手放して、酔って、この切ない気持ちを忘れ去りたかった。
きっと人生の中で、今日の日付を跨ぐ瞬間が一番特別になる。たとえ、今一番祝われたい人に祝われないとしても。零時になる瞬間に大人になる。私は過去の思い出をリセットして歩いて行くんだ。
二十三時五十九分。スマホを片手に、時計の針を見つめる。
「残り三十秒」
たった一人のカウントダウン。明日への期待が、一秒ずつ過ぎるごとにどんどん大きくなっていく。
「十、九、八、七……」
時計の横に佇む日めくりカレンダーに意識が向いて、こんなときなのにハートマークが嫌でも目に入ってしまう。ちゃんと日付が変わったら、一番にめくろうと思っていた。破り捨てて、過去にする。
「五、四、三、二、一」
零。
同時に、手に持っていたスマホが震えた。
「嘘」
数人の親友から送られてくるメッセージ。けれど、日付が変わって一番最初に届いたのは、彼からのメッセージだった。
『爽世さん、お誕生日おめでとうございます。二十歳ですね、大人ですね。爽世さんの誕生日、一番に祝いたくて、メッセージ送っちゃいました。迷惑だったらごめんなさい。
爽世さんは優しくて、仕事ができて、大人で、でも、とっても可愛いくて、素敵だなってずっと思ってます。初めてこんなこと言うから驚かれるかもしれませんね。高校生だったときから先輩って存在が遠かったのに、大学生になってからは、会うたびに届かないって思って遠くに行っちゃうみたいで寂しかったんです。だから、伝えることで少しでも爽世さんの心に残れたら嬉しいなって思います。
昨日、本当は誕生日プレゼント一緒に買いに行きたくて、でも和香が来ちゃったし二人で選びたいので、もし嫌じゃなければ別日に会いませんか。
俺が大人になる努力をするこの一年が、爽世さんにとって素敵なものになりますように』
気づいたら声を上げて泣いていた。この文を初見で読めるのは一度きりだから、簡単に消化してしまいたくなくて、何度も何度も返し縫いをするみたいに同じ部分を読み直して、少し続きを読んだら戻ってを繰り返した。
思い立って立ち上がって、日めくりカレンダーをめくる。新しい絵柄が現れて、だけど、今までそうだったように、この行為はリセットじゃない。
二十歳になったからといって、カレンダーをめくったからといって、何かが無理やり変わるわけじゃないから。明日には今日も、積み重ねる過去になる。取り止めもない日になる。
だからリセットなんてしなくていい。今までと同じように未来に少し期待して、過去の続きとして、今日を歩いていこう。そして、明日も明後日もカレンダーをめくっていくんだ。彼に会う日にはとびっきりのハートマークを書いて。
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