『  』のような恋だった。

朝田さやか

雪折れ

 雪が降っていた。目を閉じると身体に触れる雪の冷たさが誇張されて、貼りつくように体温を奪っていく。


 冬の静寂の中で一人。雪の音は本当に「しんしん」というのだと、雪野原に横たわる耳でじかに感じていた。


 黒いロングコートは白く染まって、じゅくじゅくと濡れて重くなっていく。


「あとどれくらいだろう」


 死ねるまで。記憶を全部忘れられるまで。雪の寒さに体温を委ねて、存在ごと消えてなくなることができるまで。


 ホワイトデーの今日、陸はきっと美穂と過ごしている。


 ――綾音、バレンタインに陸に告白するから手伝って!


 断ることなんてできっこなかった。前から美穂に恋愛相談を受けていたから。今更私も好きだと言う勇気はなくて、誰にも秘密にしていた。陸への気持ちは全部言葉にできないまま重すぎて、折れて、今ここにいた。


 一ヶ月前のバレンタインデーは、切ない吐息さえも白く色づくような、寒い日だった。息をするたびに、空気がほんの一瞬だけ白んで、すぐに消える。まるで自分以外には見えないみたいに。


「あっ、いたいた! 悠斗、陸」


 一段と白い息が出た。私が叫ぶと、グラウンドから西門へ向かって歩いていた二人の足が止まる。二人にチョコレートを渡そうと待っていた女子と、同じサッカー部の男子の前を通り過ぎて、二人の元へ走り出す。


「ストップ! まだ帰っちゃ、だめ」


 今日はなんだか酸素が薄いみたい。息が上手くできなくて、ちょっと走っただけでも息が上がる。気持ちを紛らわせるみたいにジェスチャーが大きくなって、身体の前で大きなバツを作った。


「どうしたよ綾音」


 陸の低くてしっとりとした声で名前を呼ばれるたび、いつもぎゅっと胸が痛くなる。陸の口から漏れた雪白な息は、私には届かずに消えていく。いつもそうだ。雪の結晶みたいに、掴むことはできない。


「まず、はいこれ」


 押し付けるみたいに、陸に水色のラッピングをずいっと差し出す。乱暴に、雑に、友チョコだって言うみたいに。


「あ、サンキュ」

「お返し期待してるからねー! そ、れ、と、」


 そこで一瞬、雪が肌に触れて溶けるくらいの一瞬、言葉が途切れて、陸が「ん?」という顔をする。


「美穂が東門で待ってるから行ってあげて!」


 大きな声を出すたびに、一緒に体温が放出されてしまうみたいだ。指先から凍えるほど冷たくなっていって、微かに震える。


「東門?」

「そう! ほら早く、今日寒いんだから」


 感覚がなくなった指で、制服の袖をぎゅっと握る。


「私は悠斗と帰るから!」


 行こ、と無口な幼なじみの背中を押して、そのまま一緒に西門へ向かう。


「バイバイ」

「ばーいばーい」


 私と悠斗が手を振ると、すぐに陸は背を向けて走り出した。いつもグラウンドでボールを追いかける、その足で。


 走り方が好きだった。教室で残って勉強するふりをして、いつも窓の外で駆け回る陸のことを目で追いかけていた。


「あ、そうだ! 悠斗の分」


 はい、と歩きながら悠斗にさっき陸に上げたのと同じ包みを渡す。


「ん」

「もーう、ありがとうくらい言いなさいよ」


 なんで悠斗相手に、こんな大きな声出してんだろう。普段はお互いに何も喋らずに歩いてるのに、今日は沈黙が怖い。声を出すのを止めたら、景色全部を包み込む冬の静寂に全部呑み込まれてしまいそうな気がした。


「綾音」


 ちょうど悠斗の出待ちをしてる女子たちの前を通ろうかというところだった。


「何?」

「手袋付けとけ」


 ん、と自分が付けていた手袋を外して、悠斗が私の手を掴んだ。きゃぁ、という小さな悲鳴が前から聞こえる。温かい、と思っている間に私の手は手袋を握らされていた。


「いいよ」

「俺は別にいいから、寒そうだし」


 私のことも見ずにそう言って、悠斗はそのままダウンのポケットに手を突っ込んだ。つき返そうにもできなくて、行き場を無くした手袋を仕方なく付ける。そんな一連の流れを見た女の子たちは悠斗に手作りチョコを渡す気を無くしたらしく、ただ私を睨んでいた。


 手袋は、悠斗の体温が残っていて温かい。けれど、その温かさは指先だけを温めて、凍りついた心までは熱を取り戻してくれない。


 中途半端に守られた手で、ポニーテールのシュシュを取る。


「外すの?」

「うん、首元寒いから」

「そう」

「うん」


 だってもう、意味がない。一番好きな髪型がポニーテールって聞いた次の日から、わざわざ毎朝セットした。早く起きて、くせっ毛にヘアアイロンをかけてストレートにした。


 四月からせっせと集めたヘアアクセサリーの中で、その日の気分に一番合うものを選んで高い位置で結ぶ。今日は水色のシュシュだった。水色は、陸の好きな色だから。


「さっむいねー!」


 今日のうちで一番大きな白い息が溢れた。私の言葉が誘ったみたいに、ガラスの破片が舞うような冷たさの風が吹く。その風は目尻の熱さえも奪っていく。そして、大きな破片がぐさり、と心臓に刺さった。


「なんで」


 隣の悠斗にも届かない声は静寂に混ざって溶けていく。


 なんで今日、私の隣を歩くのは陸じゃないんだろう。なんで指の震えに気づいてくれたのが陸じゃないんだろう。なんでこの手袋は陸のじゃないんだろう。


「なんで」

「ん?」

「ううん、なんでもない」


 なんで、なんで私は、美穂に手を貸しちゃったんだろう。


 寒さがゆっくりと身体を蝕んでいく。私の心は凍りついたまま、溶けそうになかった。


✳︎


「陸、お前、桜木さんと付き合うことになったんだって?」


 翌日、教室はその話題で持ちきりだった。俺は陸を教室のベランダに連れ出して、ひそひそと話をしている。


「違うよ、一ヶ月だけとりあえずって話だっての。美穂がそう言うから」


 陸は困ったように眉をひそめる。けれど、桜木さんら女子の間では付き合い始めたともっぱらの噂だった。


「受け入れてんじゃんか」

「いや、そうだけど」


 そう言って、ふらりと視線が綾音に向いたのを、俺は見逃さなかった。


「曖昧な態度が一番相手を傷つけるぞ」


 こいつはお人好しだから、突っぱねて断るってことができなかったんだろう。ましてや、綾音が一枚噛んでると知っていたなら尚更。


「分かってるけど」

「分かってない。じゃあ桜木さんのこと好きなのか?」


 俺に向いた視線が揺れる。陸は小さく白い息を吐いて、グラウンドの方へ向いた。


「嫌いじゃない。仲は良いし、正直付き合っても良いと思えるラインは越してる」


 俺の目を見て言うのが辛いみたいに、誰かさんを見たくないと言うように教室に背を向けて、陸はぽつりと呟いた。


「好きなら好きって言えばいいだろ」


 回りくどい言い方をして、妥協しようとするこいつに腹が立つ。


「美穂のことは」

「綾音の話だよ」


 図星を指されたと言わんばかりに、陸は俺の方へ勢いよく振り返った。


「なんで綾音が出てくんだよ」


 また逃げようとする。陸が逃げた分だけ綾音が傷つくのに。綾音は今日も髪をくくらずに下ろしたままだっていうのに。


「じゃあお前の好きな人は誰なんだよ」

「……綾音は、綾音が好きなのは悠斗だろ」


 吐き捨てて、また背ける。昨日の帰り道に見た綾音の今にも泣きそうな表情が何度も頭をよぎって離れなかった。


「昨日綾音から何もらったんだよ」

「急だなぁ。マフィンだけど」

「あーあー、もう、綾音が好きなのは俺なわけないって」

「マフィンがどうしたんだよ? っていうか昨日悠斗も綾音に告白されたんじゃないのか」

「されてない。俺と綾音は本当にただの幼なじみだ」

「は? いちゃいちゃしてたって女子マネから」

「りーく!」


 教室から邪魔な声が入って、無理やり話を中断される。


「陸も悠斗くんも、次移動教室だよ。早く行かないと」

「ありがとう」


 俺たちを呼びに来た桜木さんの横に、綾音がいない。教室を見回せば、一人で教室を出て行くところだった。


「陸、一緒に教室移動しよーよ」

「俺はクッキーだったから、意味調べとけよ」


 当然のように陸の彼女として振る舞う桜木さんに嫌気がさして、陸にそれだけ言い捨てた。


「クッキーって何の話ー?」

「別に」


 後ろから聞こえる二人の会話に苛立って、足早に教室を出た。


「綾音」

「悠斗」


 びっくりしたように振り返って、「ああ、なんだ悠斗だけか」ってあからさまにがっかりした表情に変わる。


「ぼっち」

「はぁ? 悠斗もぼっちでしょーが!」


 落ち込んでるときの綾音はいつもよりうるさい。


「うるせ」


 昨日落ち込んでたのだって、きっと俺しか気づけない。だから、両片想いの二人をくっつけられるのは俺だけだ。


「何よ!」


 だけど、この些細な表情の変化は絶対陸にも教えてやりたくないって思う。幼なじみは俺だっていう、ガキみたいな独占欲。


「いつにも増してうるせぇ」

「はぁ?」


 それでも願うことはただ一つ。友愛度限界値の幼なじみが、どうか幸せになってくれますように。


✳︎


 なんで三月なのに雪なんか降ってるんだろう。バレンタインにも降っていなかったのに、昨日は暖かかった気がするのに、気候は意地悪だ。なにも、失恋が確定した日にこんなにロマンチックにしなくてもいいのに。


 うっすらと瞼を開ける。身体中が寒さに震え始めた。呼吸するたびに白い息が出ていくのを数回見て、私はまだ生きているんだなと思う。


 もう一度瞼を閉じる。真っ暗な視界の中、凍えそうな寒さの中では眠気に襲われることもなく、嫌でも陸のことを考えてしまっていた。


 好き。会いたい。彼女になりたい。


 その言葉はどれ一つとして言葉にならないまま、また今日も心に降り積もっていく。悠斗の友達としてしか見ていなかった四月のころに戻れたらどんなに良いだろうかと思う。ただの友達として、友達と結ばれるのを祝福できたなら。


「いた、綾音」


 ざく、と静寂の中に響く足音がした。寒さで五感が死んでいることにほんの少しだけ期待して瞼をゆっくり開けたのが間違いだった。


「おい、悠斗かよみたいな目して閉じんな」


 結果、幼なじみの声を聞き間違えるわけがなかった。落胆して、また勝手に切なくなって、いやいやと首を横に振ってだんまり。


「寝てろばか」


 子供みたいに動かないでいたら、悠斗にすら呆れられた。足音がどんどん遠ざかっていく。


「……ばか」


 なんで悠斗なのよ、いつもいつも。悠斗の優しさに埋もれて好きになれたら良かったのに。


 声も仕草も走り方も、陸を欲してしまう。願ってしまう。全部忘れたいと思うのに、記憶に刻み込まれて消えてくれなくて。また心が折れそうになった、そんなときだった。


「綾音!」


 嘘だと思った。とうとう寒さにやられて幻聴が聞こえたのだと思った。心を鎮めるように、深い深呼吸を一つ。


「息ある、良かった」


 駆け寄ってくる足音が、陸だった。でもまさか、そんな。


「綾音」


 大好きな声だった。会いたい声だった。隣にいて欲しい声だった。ときめいて、それでいて胸が締めつけられる、いつも通りの声だった。


「陸」


 ゆっくりと瞼を開ければ、目の前に陸がいた。


「なんで」

「なんでじゃないよ。どんだけ心配したと思ってんだ? 今日誘おうと思ってメッセージ送っても既読つかないし。電話しても出ないし。悠斗に聞いても知らないっていうし、お母さんに聞いてもらってもどっか出かけたって言うし、スマホも鞄も財布も家に置いたまんまだって言うし。本当に、ああもう。とにかく良かった」


 陸の優しい顔ばかり見てたから、怒ってるのか泣きそうなのか心配してるのか、全部混じった複雑な表情は新鮮だった。


「立つよ」


 手を差し伸べられて、戸惑う。掴みたいけど、掴んではいけない気がして。出しては引っ込めてを繰り返してしまう。


「やっぱり悠斗の方がいいなら呼んでくるけど」

「なんで悠斗?」


 一直線に向いていた目が逸れる。小さく息を吐いて、そして渋々というように口を開けた。


「悠斗のこと、好きなんじゃねぇの?」


 陸にしては随分とぶっきらぼうな言い方だった。幾度となく向けられてきたその勘違いを、陸にも言われるのかと思うと、少しだけ寂しくなった。


「好きじゃないよ。ただの幼なじみ」


 だって私が好きなのは陸なんだもん、と続けて言えたらどんなに良かっただろう。


「バレンタイン、てっきり綾音は悠斗に告白したんだと思ってた」

「違うよ、そんなわけない」


 必死に否定したって馬鹿みたい。勘違いして欲しくないからといって、この行動には何の意味もない。


「そっか」


 噛み締めるようにそう言うと、陸は躊躇わずに私の手を握った。


「ちょっと」

「冷たっ」


 両手をぐいっと引っ張られて、勢いのまま体を起こすどころか立ち上がってしまった。寒さで身体が凍って、足の感覚もなくてふらついてしまう。


「危ない」


 ふわりと、さっきまではなかった暖かさに包まれる。気づいたら、陸の胸の中にいた。


「ごめん」


 慌てて離れようとしても手に力が入るわけもなくて、結果的に全体重を預けることになってしまった。


「綾音」


 陸の声が耳元を掠める。


「ひゃっ」


 次の瞬間、抱きしめられていた。突然のことに、ただでさえ鈍っている頭では処理しきれない。私の氷みたいな冷たい体温が、陸のヒーターみたいに温かい体温と溶け合う。


「突然ごめんね、綾音。好きです」


 ぎゅっと、力がこもる。白い息がお互いの肩に触れる。


「うそ、」


 受け入れられなかった。言われた言葉を理解できなかった。陸が、私のことを好き? そんなこと、あるわけがない。


「嘘じゃないから」


 力強い言葉がダイレクトに私に降りかかる。


「そんな、だって、美穂は?」


 そんな言葉をもらってもなお、私は素直に受け取ることができない。誰にも言えずに溜めて溜めて溜め込んだ私の重い恋心。それを口に出す勇気がなくてまた逃げてしまう。


「好きじゃない。ちゃんと付き合ってもない。昨日振ったんだ」

「そんな、知らなかった」

「俺も、二人が本当にただの幼なじみだって知らなくて。悠斗、女子で綾音のことだけ呼び捨てだし、距離近いし、バレンタインは俺を美穂のところ行かせて悠斗と帰りたがるし、だから、好きなんだと思ってた。伝えられないだけだって思ってたから告白できなかった」


 陸の気持ちに触れて、知らない間に心の中が温まっていた。この一ヶ月、痛かったはずの心の傷が癒されて。


「もう一度言うね」


 力強く握られていた腕の力が緩まって、陸は私の肩を持って引いた。陸の、白を反射する瞳が私だけを捉える。真っ直ぐに、真摯に。


「綾音、好きです。付き合ってください」


 私も同じ分だけ陸の瞳を見つめ返す。二人の視線が交わって混ざって溶ける。今ならきっと、言える。


「私も、陸のこと好きです」


 言った瞬間、雪が頬に当たって、流れ出した涙と一緒に流れて落ちていく。やっと言えた、私の気持ち。


「ありがとう」


 もう一度ぎゅぅうっと抱きしめられて、頬が熱くなる。幸せとどきどきと恥ずかしさとで飽和した想いが、雪の涙に変わって流れ落ちていく。


「見つけるの、遅くなってごめん。俺が一番に見つけられなくてごめん」

「んーん、ありがとう」


 はっくしゅん、と言い終わらないうちにくしゃみが飛び出して、陸に笑われた。早く帰ろうって腕を解かれて、ほんの少しだけ寂しくなって、だけどすぐに手を握られてまた満たされた。


「そうだ、マフィンの意味、あれって狙ったの?」


 寒さに凍えながら歩く帰り道、ふいに陸がそんなことを言った。


「んー何の話ー?」


 後ろに悠斗の影がちらついたのが癪に触って、思わずごまかしてしまう。


 こんな風に、私だからこれからも言えないことはたくさん出てきちゃうんだろう。だけど、折れてしまう前に気づいてくれる人がいるから、私はきっと大丈夫。


 そう思ったら、雪折れみたいな苦しい恋もちょっぴり悪くなかったのかなって、そう思えた。

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