後編 あなたのパンを、毎日食べたい

「また来る」と言っていた通り、麦野むぎのさんはそれから毎日のように診療所にやってきた。

 髪がパン生地になっていること以外は至って健康体で、どこの不調もない。

 最初は戸惑っていたものの、今ではすっかり慣れてしまい、彼女と会話するのが日課になっていた。


「せんせ! 今日はコッペパンにしてみました! ジャム持ってきたので、一緒に食べましょ?」


 麦野さんは、もはや近所のパン屋さんみたいな感覚で診療室に現れる。

 俺は苦笑しつつも、いつもの診察を始めることにした。


「それで、最近何か変わったことはありましたか?」


「うーん……特にないですね! 髪もトリートメントしてしっかりケアしてますし!」


 麦野さんは髪を両手で持ち上げながら言った。

 確かに艶があってとても綺麗だ。でもパン生地のトリートメントってどうやるんだろうか? 小麦粉をまぶしたりして手入れしてたりするのか? 気になったけれど、聞くのも怖いので黙っておくことにする。


「体調の方はいかがですか?」


「ばっちりです! 元気いっぱいですよ!」


 麦野さんはぐっと拳を握り締めながら言った。

 まぁ、見た感じ問題はなさそうだし、このまま経過観察で良さそうだ。

 ……というより、原因が分からないので対処しようがないのだが。


 ただ一つ分かったのは、彼女の髪はいくら切っても、元の長さに戻るということだった。理屈は分からないが……。


「それでは、今日のところはこれで終わりにしましょう」


「はーい!」


 麦野さんは笑顔で答えると、机の上に置いてあったパンを袋に詰めてバッグの中にしまった。全部彼女の髪から出来たものである。


「じゃあそろそろ行きますね! 明日はチーズパンでも作ってきます!」


「いや、それはちょっと……」


「大丈夫です! 絶対美味しく出来るはずなので!」


 麦野さんは自信満々な様子で言うと、元気よく部屋を出ていった。


 こうして俺の診察は終わる。麦野さんは相変わらずだが、悪い人ではないんだよな。

 それに、パンを作ってくれるから、食費も浮いて助かっている。……いや、最初は抵抗があったけどな?

 しかし最近はそんなことも忘れつつある自分がいる。慣れとは恐ろしいものだ……。


「はぁ……今日も疲れた……」


 俺は溜息をつきながら伸びをした。

 麦野さんのおかげで仕事が増えた気がするが、不思議と嫌な気持ちにはなっていない。

 むしろ楽しいくらいだ。これも彼女の人柄のおかげかもしれない。


「よし……片付けるか……」


 俺は机の上を軽く整えると、窓の外を眺めた。

 外は既に暗くなっており、街灯の光が眩しいほど輝いていた。


「……あれ?」


 ふと視線を下に落とすと、そこに見覚えのある人が立っているのが見えた。

 麦野さん……? 忘れ物でもしたのか? しかし、様子がおかしい。

 彼女は何かから逃げるように後ずさっている。その顔はとても怯えているように見えた。


「どうしたんだ……?」


 俺は不安な気持ちになりながらも、慌てて診療所を飛び出した。


「麦野さん!」


「先生!?」


 彼女は驚いたような表情を浮かべたが、すぐにホッとした顔を見せた。


「どうしたんですか? 何かありましたか?」


「それが……追いかけられてるんです!」


 麦野さんはそう言うと、背後を振り返った。そこには、たくさんの黒い鳥の姿があった。


「えぇっ……? あのカラスたちが……?」


「はい……。私の髪を狙ってるみたいで……。さっきからずっと追い回されて……」


 麦野さんはそう言うと、震えた声で続けた。


「このままだと食べられちゃいます……。だから助けてください……」


「わ、分かりました! すぐに戻りましょう!」


 俺は慌てて診療所に戻ると、扉を閉めた。鍵もかけておいた方がいいだろう。


「あの……ありがとうございます……」


「いえ……。それより、髪を見せてもらえませんか?」


「えっ、髪ですか?」


「はい。傷でもついているといけないので……」


「な、なるほど……。そういうことでしたら……」


 彼女は少し恥ずかしそうな顔をすると、うつむいて髪を差し出して来た。

 俺はそれを手で優しく撫でてみた。……うん、特に異常はなさそうだ。


「大丈夫そうですね……」


 俺は安堵のため息をついた。すると、麦野さんは小さく身動みじろぎした。

 もじもじしながら上目遣いでこちらを見つめてくる。そのほおは赤く染まっていた。

 ど、どうしたんだろう……。急にしおらしくなって……。


「せ、せんせ……。もう、良いですか……」


「え……? あっ……」


 そこでようやく自分のしていることに気付いた。

 俺は今、麦野さんの髪を触っていたのだ。それも両手でしっかりと……。


「す、すみませんでした!」


 俺は慌てて手を引っ込めると、深々と頭を下げた。


「べ、別に謝らなくてもいいんですよ! ただちょっとくすぐったかっただけですから!」


 麦野さんは慌てたように手を振ると、「気にしないで下さい」と言った。

 だが、俺はしばらく頭を上げることが出来なかった。……いかん。診察のためだとしても、これはやり過ぎだ。


「あ、あの……先生?」


「はい……」


「もし良かったら……また髪を整えてくれますか?」


「え……?」


 思わず聞き返してしまった。まさかこんなことを言われるなんて思わなかったからだ。


「先生になら、触られても平気ですし……」


「い、いや、ダメですよ! そういうことは好きな人にしてもらうべきです!」


「私は……先生のこと好きですよ?」


「へっ……?」


 突然の告白に、俺は素っ頓狂とんきょうな声を上げてしまった。

 い、いかん……。落ち着け……。動揺するんじゃない……。相手はパン生地髪ガールなんだぞ……。


 俺は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。そうしている間にも、彼女は話を続けていた。


「先生って、頼りがいがあるじゃないですか……。それに優しいし……。私ね、この診療所に来て本当によかったと思ってるんです」


「そう言っていただけるのは嬉しいですけど……。でも、俺なんかよりももっといい人はたくさんいますよ……」


「いいえ! 私は先生が良いんです!……ねぇ、せんせ……。私のこと、嫌いですか……?」


 麦野さんは真剣な眼差しで俺の顔を見上げてきた。心臓が大きく跳ね上がるのを感じる。まずい……このままでは……。


「嫌いじゃ……ないです」


 俺はしぼり出すようにして答えた。いや、違う……。嫌いなわけがない。だって……俺は……彼女のことが……。


「本当ですか……?」


「……はい」


「じゃあ……もう一回髪に触れてみて下さい」


「……」


 麦野さんは目を閉じながらゆっくりと髪を持ち上げた。俺は無言のまま、それに触れる。……柔らかい。バターのような香りが鼻腔をくすぐる。


「……これで、いいですか?」


「はい……。やっぱり、先生の手が一番落ち着きます……」


「……」


「あ、ごめんなさい……。変なこと言って……」


 麦野さんはハッとした様子で髪を元に戻すと、申し訳なさそうに言った。


「じゃあ、帰ります……。今日は、ありがとうございました」


 そう言って診療所を出て行こうとする彼女を、俺は無意識のうちに呼び止めていた。


「待ってください!」


 麦野さんは立ち止まると、こちらを振り向いて首を傾げた。俺は必死に言葉を探しながら口を開いた。


「えっと……その……。まだ、カラスが近くにいるかもしれません。夜道の一人歩きは危険ですから……。送っていきます……」


 言った。言ってしまった。自分でも何を言っているのか分からない。でも後悔はない。彼女が心配だったのも事実なのだから。

 俺の言葉を聞いた麦野さんは一瞬きょとんとしていたものの、やがて嬉しそうに微笑んでくれた。


「はいっ! よろしくお願いします!」



 翌日。俺は診療所でカルテを整理しながら、昨日のことについて考えていた。

 結局、麦野さんを家まで送ったあと、そのまま別れたので、何事も起こらなかった。まぁ、当たり前といえば当たり前だが……。


 ただ、その後一人で自宅に戻った俺は、ベッドの上で悶絶もんぜつしていた。

 何故あんなことを言ったのか分からない。ただ気付いた時には、体が勝手に動いていたという感じだった。


 まぁ、幸いにもカラスは襲って来なかったし、彼女も喜んでくれていたので良しとしよう。……いや、良くない。全然良くない。俺は一体どうしたというのだろうか? やはり、麦野さんのことを……?


「はぁ……」


 溜め息をついて机に突っ伏すと、その時、診療室のドアがノックされた。

「どうぞ」と言うと、入ってきたのは麦野さんだった。


「おはようございます! 先生!」


「お、おはよう……」


 彼女はいつも通りの明るい笑顔を浮かべていたが、どこか緊張した面持ちだった。


「どうかしましたか?」


「えっと……その……」


 麦野さんは何やらもじもじしながら、ちらりと俺の方を見た。


「先生って……甘いもの大丈夫でしたよね?」


「え? はい……普通ですけど……」


「そうですか……。良かった……」


 麦野さんはほっとした表情を見せると、手に持っていた紙袋を俺に差し出した。


「これ、昨日のお礼です! 受け取って下さい!」


「え……? いや、そんな……。わざわざ……」


「いえ、私の気持ちなので……」


 麦野さんはそう言うと、ぐいと押しつけるようにしてきた。

 俺は戸惑いながらも受け取ると、中をのぞいてみた。そこには焼きたてらしいパンが入っていた。

 一つ取り出してみると、それはチュロスのようであった。いびつな形をしているが、これは……。


「ハート、です……」


 麦野さんは照れたように頬を赤らめながら言った。


「先生には迷惑かも知れませんが……。私の気持ちを形にしてみました……。美味しく出来たと思うので……。食べてもらえると嬉しいです」


「そっか……。ありがとう」


 俺は小さく笑みをこぼして言うと、早速それを一口かじった。サクッという音とともに甘さが広がっていく。うん、確かに美味しい。


「どう……でしょうか?」


「すごく、おいしいです」


 正直な感想を述べると、麦野さんはぱあっと表情を明るくした。


「良かったです! 嬉しいです!」


「こっちこそ、ありがとうございます。大切にいただきますね」


「はい!」


 麦野さんは元気よく返事をすると、椅子に座ってこちらを見つめてきた。何か言いたげな表情だ。


「どうしたんですか?」


「あの……。せんせ、私……このままで良いです」


「え……?」


「初めて来たとき、この髪をなんとかしてもらおうと思ってました。でも、今はこのままでも良いと思ってるんです」


 麦野さんはそう言うと、恥ずかしそうにうつむいた。


「こうやって、先生にパンを渡せるだけでも幸せな気分になれますから……。だから……この髪のままで良いかなって……」


「麦野さん……」


 俺は彼女の名前を呼ぶと、少し迷ったが、手を伸ばした。そして、優しく頭を撫でる。


「せ、せんせ……!?」


「あ、すみません……。つい……」


「いえ……。嫌じゃないです……」


 彼女はそう言って顔を上げると、幸せそうな笑みを見せた。

 ……ああ、そうか。俺はようやく理解した。麦野さんの髪がどんなものであれ、関係ないのだ。俺はきっと、彼女のことが好きなんだ。


 俺はその想いを胸に刻み込むようにしながら、優しく彼女の髪に触れた。ふわりと香るバターの匂いが心地よい。


「麦野さん。俺なんかで良ければ、これからもずっとあなたのそばにいますよ。……あなたのパンを、毎日食べたいな」


「せんせ……。はいっ!」


 麦野さんは嬉しそうに笑うと、俺に抱き着いて来た。俺はそれを受け止めると、ぎゅっと抱きしめ返す。


 小麦の香りに包まれながら、俺は彼女との生活がこれからも続いて行くであろうことに、確かな喜びを感じていた──。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パン生地髪の麦野さん 夜桜くらは @corone2121

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ