パン生地髪の麦野さん
夜桜くらは
前編 君の髪は、小麦の香り
「あー……喉が腫れてますね。風邪でしょう。薬出しておきますから、ゆっくり休んでください」
俺は患者にそう告げると、症状とカルテの備考
この診療所は町の郊外にあるため、俺以外の医師はいない。
しかし、患者は少ないものの、俺一人でも十分にやれている。それはひとえに、ここへ来る患者の数が少ないからだ。
「お大事にどうぞ」
カルテを受付に置いてあるファイルに挟み込み、次の患者を呼ぶ。
さて、次はどんな患者が来るのか……。
そんなことを考えていたら、診療室の扉がゆっくり開いた。
入ってきたのは若い女性だった。二十代くらいだろうか。長い茶髪が印象的だ。
「あの……こちらで診てもらえると聞いたんですけど……」
彼女は不安そうな表情を浮かべつつ、小さな声で言った。
俺は椅子に座るよう促すと、彼女に優しく微笑みかけた。
「はい。お任せ下さい」
「ありがとうございます! 助かります!」
女性は大きな声で言うと、深々と頭を下げた。
その様子から察するに、どうやらかなり困っていたようだ。
「いえいえ。それでは早速、問診の方を始めましょうか」
「お願いします!」
彼女は元気よく返事すると、姿勢正しく座り直した。
こういう患者さんの方が話しやすいなぁ……。
「まず最初に、あなたのお名前を教えてください」
「はい! 私の名前は『
彼女は胸を張って答えた。
とても元気のある人だ。見ているこっちまで明るくなる気がする。
「麦野さんですね。それで、今日はどうしてここに?」
「実はですね、朝起きたら髪がパン生地になっていたんですよ」
「は……?」
予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。
パン生地ってあれだよな? 小麦粉とかで作ったやつだよな? それが髪の毛になったってどういうことなんだ……?
固まる俺をよそに、麦野さんは嬉しそうに語り始めた。
「私の髪って元々茶色じゃないですか。なんかパンみたいだなーって思ってて。私パン大好きなので、この髪がパンになったらいいのにって思ったんですよ。そしたら本当になったんですよ! すごいと思いません!?」
…………うん、とりあえず落ち着こうか。
小麦色の肌をした女性なら聞いたことがあるけれど、髪が小麦でできた生地になることはないと思うんだ。
そもそもなんでパンが好きなだけで髪がパン生地になるんだよ……。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいね」
俺は額に手を当てながら言った。
「えっと……念のために確認しておきたいんですけど、今朝目覚めたら急に髪がパン生地になってたんですね?」
「はい!」
「そして、今もそのままだと?」
「はい! このままですよ! ……あ、触ります?」
麦野さんは自分の髪を両手で持ち上げた。
ふわりとした柔らかさが伝わってくると同時に、甘い香りが漂ってきた。
いやいや、今はそういうことを言ってる場合じゃなくて……。
「いや、それは遠慮します……。えぇと、申し訳ないんですけど、俺にもよくわからないですね……」
「えっ!? 先生でもわかりませんか!?」
麦野さんの表情が一気に曇った。
そんな顔をされても困るんだけど……。
「まあまあ落ち着いて。ちゃんと考えますから」
俺は彼女を
うぅむ……。正直何が何やらさっぱりだ。
焼きたてのパンの香りだけが、診察室に充満しているような気さえしてくる。
いや、これはあくまで例えであって、実際そうなっているわけじゃ…………って!
「ちょっ……何してるんですか!」
「え……? 何って、クロワッサンを食べてるだけですけど」
彼女は平然と言い放った。
その手には確かにクロワッサンがあった。しかも二つもあるじゃないか。
「いやいや! ここ病院ですよ!? どこから持ってきたんですか!」
「あぁこれですか? 髪から取ったんですよ!」
「へぇ、そうなんですか……って、はいぃ!?」
俺は驚きの声を上げてしまった。
だって、今の言い方からすると、自分の髪を食べたことになるぞ!?
「いやいやいやいやいや! それはおかしいでしょう!」
「大丈夫ですよ! 朝も食べたけど、美味しかったですし!」
「そういう問題じゃなくて……」
俺は頭を抱えながら溜息をついた。
なんだろう、この人はどこかネジが外れている気がする。
「とりあえず、そのパンはここに置いてください」
「はーい……」
彼女は残念そうな顔をしながらクロワッサンを机の上に置いた。
「それで、他に何か変わったことはありませんでしたか?」
「他ですか? 特に何もなかったと思いますけど……」
「本当ですか?」
「はい!」
麦野さんは元気よく返事した。確かに嘘はついていないようだ。
念のため体温を測ったが、熱もない。脈拍にも異常はなかった。
しかし、髪がパン生地になるとか普通に考えてありえないよな……。
「先生、どうしましたか?」
「え? い、いえ、なんでもありません。気にしないでください」
俺は慌てて首を横に振った。ダメだ、まだ混乱しているようだ。一旦落ち着こう。
深呼吸をして気持ちを整える。よし、これでなんとか冷静になれそうだ。
少し落ち着いたところで、ふと疑問が生まれた。
「あの……つかぬ事を聞きますけど、麦野さんはどうやってこれを作ったんですか?」
俺は机の上のクロワッサンを指差しながら尋ねた。
「これですか? こうやったんですよ」
そう言うなり、麦野さんは二つ縛りをするように、両手で髪を束ねた。
そして、それを
「えっ……? ちょっと……何をして……?」
「ほら、出来ましたよ!」
彼女は得意げな表情を浮かべると、両手で掴んでいた髪を差し出した。
だが、そこにあったのは綺麗な形に焼き上げられたクロワッサンだった。
「……は?」
あまりの出来事に、俺は完全に固まっていた。
髪がパン生地になったのは分かるとして(いや分からないけど)、どうしてそれが焼かれてパンになるんだ? 意味が分からん。誰か説明してくれ……。
「こうやって成形してちぎると、焼きたてのパンになるんですよね~。なんでかは分かんないんですけど」
麦野さんは笑顔で言うと、手にしていたクロワッサンを口にした。
サクッという音が聞こえたかと思うと、彼女は幸せそうに
「うーん! やっぱり焼き立てのパンって最高ですね! 先生も食べますか?」
「いや、俺は結構です……」
「えー……美味しいのに……。あっ、そういえば、今日は友達が遊びに来る予定なんですよ! だから急いで作らないと!」
麦野さんは再び髪を手に取ると、慣れた手つきで三つ編みにし始めた。
その姿を見つめながら、俺は心の中で呟いた。
あぁ、今日もいい天気だなぁ……。小鳥も鳴いてるし……。
「よし! 出来た!」
彼女の声を聞いて我に返る。いかんいかん、現実逃避するところだった。
「先生! 見て下さい!」
「え? はい……」
彼女は嬉しそうに両手をずいっと差し出してきた。
その手には……ツイストドーナツが握られていた。
…………うん。なんとなく分かってた。髪がパン生地なら、クロワッサン以外も作れるんじゃないかって。
「これがなかなか難しいんですけどね、上手くいくと凄く幸せな気分になれるんですよ!」
「は、はぁ……そうですか……」
俺は力のない返事をしつつ、頭を抱えた。
一体何なんなんだこの人は……。どうしてこんなことに……。
「これ以外にも、クロワッサンと同じ要領でバターロールとか……お団子にしてシナモンロールとかも出来ますよ! やってみましょうか?」
麦野さんはそう言いつつ、俺に近付いてきた。
近い。顔がめっちゃ近い。いい匂いがする。いろんな意味で。
「いや、もういいんで……。とりあえず落ち着いてください……」
俺は彼女から距離を取るように後ずさりながら言った。
「そうですか? 遠慮しなくても良いですよ? あ、先生は甘いもの嫌いですか? じゃあ、しょっぱいものでも作ります?」
「あー、いいですいいです。もう十分ですから」
俺は両手を突き出すと、必死に訴えた。
これ以上変なものを作られたら、頭がパンクしてしまう。パンだけに。
「そうですか……。それじゃあ、今日は帰りますね。また来ますので、よろしくお願いします!」
「はい……。こちらこそお願いします……」
麦野さんは丁寧に頭を下げると、パンを抱えて帰って行った。
嵐のような人だった……。本当に疲れる……。
「とりあえず、診察の続きをするかな……」
大きく溜息をつくと、俺は椅子に座ってカルテを開いたのだった。
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