読み終えてすぐいろんな古い映画を思い出した。
二人の男女が因習を逃れて南へ逃げる話は成瀬巳喜男の『浮雲』を思い出す。
二人が島の住人に捕まり、生贄にされる展開はホラー映画『ウィッカーマン』を連想した。
また一瞬の生の輝きののち二人の男女が無惨に殺されるラストはニューシネマの古典『俺たちに明日はない』を思い出す。
もちろん「映画からぱくった」などといいたいわけではない。
この小説はかつてあらゆるジャンルに存在した「男女の逃避行もの」の系譜に連なるのではないか? といいたいのだ。
この作品の一番の悲劇は二人が生贄に供されることではない。
語り手の「私」は十九歳のとき幼なじみの葵を誘って夏祭りに行く。
そして手を握っただけで終わる。
「私も葵も自分の人生を高く見積もりすぎていたせいだ」
この一文は自分の急所に突き刺さった。
おそらく多くの読者の急所にも刺さったと思う。
十九歳で筆を折った詩人のランボーは長編詩『地獄の季節』の終盤で
「もう秋か」
と嘆いている。
ランボーがいう地獄の季節は夏のことで、夏が青春を意味している。
だから「もう秋か」は「夏の終わり=青春の終わり」を意味する。
夏のお祭りはたいてい秋が近い晩夏に行われる。
十九歳の私は秋の気配(青春の終わり)を感じながら葵と手を握りあった。
「あの夏が最初で最後の分かれ道で、あるいは今とは違う未来もあったかもしれないと、それが後悔でなくすっかり美しい思い出になってしまっている時点で、きっと我々はもう散って枯れつつある側の命だ」
この諦念を含んだ文章は、ランボーの「もう秋か」と地続きの名文と思った。
正直にいうと「愛した男と三十で死ねるならむしろ幸せだ」と老兵の自分は思った。
だからこの小説を読んでいるとき、ずっと甘美な夢を見ているような気分を味わった。
「これは夢だ」
とわかって見る、甘美で悲しい夢(読書)だった。
ぼくはこれまでの人生、トロピカル因習アイランド小説を名乗るトンチキに星など決して投げるまいと強く固く決心して生きてきました。ひとたびそんなものに星を投げつけてしまうが最期、残る人生すべてをトロピカル因習アイランド小説に星を投げる生き物として生きていかねばならないし、たぶんカスみたいなまとめサイトにもコメントをするようになってしまって無限の煽り合いに生を捧げて永劫をすごすことになるだろうから。
でももうだめ。レビューまで書いてしまった。
もう終わりだ。ぼくはこの先の人生、一生降り積もるまとめサイトの煽りコメントに埋没して生きていくのだ。ファック。こんなことならもっとトロピカル因習アイランドを満喫しておけばよかった