空洞のような君を、愛してしまったから

汐海有真(白木犀)

空洞のような君を、愛してしまったから

「……え、瀬戸せと、また彼女と別れたの?」


 私の問いかけに、瀬戸つむぐは机にもたれかかって缶コーヒーを飲みながら、「うん、そうだよー」と笑った。放課後の教室には彼と私しかいなくて、校庭の方から聞こえる運動部の喧騒が、微かに響いていた。


「だってさ、めんどくさくなっちゃって。あいつ、俺が他の女子と話すの嫌だって言うんだもん。束縛とかされるの、だるいんだよねー」


 瀬戸は間伸びした口調でそう言って、また缶コーヒーに口を付ける。彼の首にくっきりと浮かんだ喉仏が揺れて、自分の身体が確かな熱を帯びたのがわかった。


 自分では制御することのできないその温度が、嫌いだった。瀬戸が元恋人のことを悪く言うとき、心の奥深くでは暗い喜びを覚えてしまう自分も、嫌いだった。


「……相手の女の子はさ、瀬戸のこと、すごく好きだったんじゃない?」

「うーん、まあ、そうかもね? でもさあ、あんま俺に入れ込み過ぎない方がいいと思うんだよねー。どう考えてもろくな男じゃあないよ、俺。恋愛なんてお遊び程度にしか思ってないしね」


 瀬戸はどこか投げやりな感じで言う。あなたが良い人ではないことなんて、とっくにわかっている。わかっていて恋心を消し去ってしまえるのならば、どれほど楽だろうか――私は自分の手のひらに、ぎゅっと爪を食い込ませた。


 外見が恐ろしく優れている彼には、よく恋人ができる。そして短い期間の恋愛関係を経て、別れる。席替えで席が近くなり瀬戸と親しくなってから、そういう話をよく聞かされてきたから、知っている。あるときふと胸が痛くなって、そうして私はようやく、自分の気持ちに気付くことになった。


「あなたはそもそも、誰かのことを本気で好きになったりするの……?」


 私は震えてしまいそうになる声で、そうやって尋ねた。

 瀬戸はきょとんとした顔をしてから、「何だよ、急にー」と笑った。


 そんな風に笑いかけないでほしい。期待してしまうから。あなたが私のことを恋愛的な意味で好きではないことなんて、しっかりと理解しているはずなのに、脳が勝手にそういうことを考えてしまうから。


「本気で、か。……そもそも俺ってさ、空っぽなんだよね」

「空っぽ?」


 言葉をただ繰り返した私に、瀬戸は「そうそう」と笑ってから、窓の方を見つめる。


「あんまり感情が動かないんだよ、何に対してもね。昔は結構、喜怒哀楽とかをしっかり感じる方だったと思うんだけど。

 ……今はもうどこにいるかさえ知らない父さんが、気に入らないことがあると暴力を振るう人だったんだよね。殴られると悲しいじゃん? でもある日殴られてたとき、悲しさとか全部がどうでもよくなって、大事な糸がプツンって切れたみたいな心地がしたんだ。そっから、ずっとこんな感じ」


 瀬戸の横顔は、どこか物憂げだった。彼の過去の話を聞くのは初めてで、抱えていたものの重さに私はしばし、呆然としてしまう。それと同時に、彼の父親への行き場のない怒りが、沸々ふつふつと湧き上がってくる。


「……そんな親っ、ひどいよ! 瀬戸に暴力を振るうなんて、そんなの、許せないよ……」


 私の言葉を、瀬戸は無表情のまま聞いてから、いつものように笑った。それが貼り付けたような笑顔なのだと、今になってようやくわかった。


綿谷わたやはいいよね、見てて面白い。お前みたいに表情豊かで真っ直ぐな奴といると楽しいし、それになんか少し……羨ましくなる」


 瀬戸はそう言って、微笑んだ。その微笑にはほのかな哀切が混ざり合っている気がして、もしかするとそれは、瀬戸が失くした感情の残骸なのかもしれなかった。


 もう、我慢できそうになかった。私は少しだけ、瀬戸に近付いた。不思議そうに首を傾げた彼の左手に、自分の右手をそっと触れ合わせた。彼はぼんやりとした様子で、私のことを見つめていた。


「瀬戸は、私と付き合ったり、しないの……?」


 言い終えて、何だよそれ、と自嘲する。好きと言う勇気がないから、直接的な言葉を避けてしまう自分がいる。臆病だと思った。


 瀬戸は私からすっと手を離して、柔らかく笑った。


「うん、しない」

「……何で。あなたは今まで、色んな人と、付き合ってきたじゃない」


「そうだね。……でも、綿谷のことは、大事なんだよ。俺にはない大切なものを、しっかりと持ってるから。だからお前のことは、絶対に傷付けたくないんだよ。お遊びにしたくないんだよ……」


 瀬戸はそれだけ言って、学生鞄を肩にかけた。いつものように笑いながら、「それじゃ、またね。気を付けて帰んなよー」と言う。そうして、教室を出て行った。

 私は一人だけの教室でぼんやりと佇みながら、「……何だよ、それ」と呟いた。


 ――あなたは確かに、空っぽなのかもしれない。


 でも、そんなあなたの空洞に、手を繋いで、抱きしめて、キスをして――そうやって、私の愛を投げ入れてみたかった。


 それはすぐにうつろに溶けて、なくなってしまうのかもしれないけれど。


 ……それでも、よかったよ。

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