令嬢の箱

大窟凱人

新しい人生

 深く黒い記憶の底で、強烈な電気が走った。


 それはひらめきといった類のものではなく、見たこともない出来事、景色、顔、声、匂い、感情。


 濁流のようにあふれ出るイメージに飲まれ、ドリーは自分を見失いそうになった。


 ――いや! やめて! 私の頭を奪うな!


 彼女は必死に抵抗し続けた。するといつしか謎のイメージの氾濫は止まり、頭の中に静けさが戻った。


 なんだったの? 今のは……

 

「そんなに嫌がらないでよ。ていうか、私も混乱してるんだから」


 ドリーの脳内で、誰かのため息が混じった声が聞こえた。


「だ、誰?」


 周囲を見渡しても、誰もいない。


 窓は閉じている。物音もなかった。


 部屋に侵入された様子はない。


 眼前には、洗練された貴族令嬢らしい広い部屋が広がっていた。


 窓から差し込む月の光に家具が照らされている。


 赤い絨毯にきらびやかな美しい装飾が施された椅子とテーブル、化粧台、そして天井からはシャンデリアがぶら下がる眩いばかりの部屋だ。


「私はエリカ。あなたの頭の中にいる」


「は?」


「だから、私もびっくりしてるんだってば。ちょっと考えさせて」


 それから小一時間かけて、ドリーとエリカはこの奇妙な現象について話し合った。


「つまりお前は、私が登場する本を読んでいる最中に誰かに殺されて死んで、私の体に生まれ変わったってことかしら?」


「たぶん。だって、あなたの名前も、あなたが言っていることも、喋り方も、私が死ぬ前に読んでた本の内容とそっくりだから。あなたはドリー・ブルストロード。ブルストロード家の令嬢で、貴族。得意な魔法は火炎魔法。現在嫁ぎ先を決めるためにお見合いを重ねている最中だけど、好きな人がいて乗り気じゃない。その人の名前は、オーソン・グッドマン公爵。あなたは彼を射止めたい。でもオーソンには気になる人がいてあなたの入る込む余地は……」


「もー、黙って! それ以上言いわないで!」


「はいはい」


「まったく。人の心の柔らかいところにずかずかと。……不思議なことがあるものなのね。でも、迷惑かしら。魂が生まれ変わるということが仮にあるとしても、こんなうら若き乙女の体に入り込んでこないでもらいたいものね」


「あなた、もう25歳じゃない。あと、次のお見合い相手は最悪よ」


「な!? 憎たらしい女……」


 ドリーは驚きつつも、エリカに質問した。


「それなら、お前は私の未来を知っているということ?」


「……うん。でも、それ聞いちゃう?」


「もちろんよ。お、オーソン様とは結ばれたのかしら? どうなの!?」


「まあ、隠しててもしょうがないか。ごめん。あなたとオーソンは結ばれないわ。それどころか、最悪の結末を迎えるの」


「うそ……」


「ほんとなんだ……」


「最悪の結末って、なにかしら?」


「あなたはオーソン公爵と、その意中の人、メイ・オルセンの関係にヒビが入るように工作をし続けてしまった結果、オーソン公爵にバレてしまうの。そのせいで絶縁されてしまって、全然好きでもないうえに気持ち悪い地方貴族と結婚することになる」


「さ、最悪……」


「悲惨だったわ……。ねえ、提案なんだけど、私がこの未来、変えてあげようか?」


「なに?」


「私はあなたが辿る運命を事細かに知ってるの。その運命と違う方法でオーソン公爵に接近すれば、きっと未来は変わるはず。でも、お願いがあるの」


「……お願いとは?」


「仲良くしてほしい。私、あなたの別人格ってだけの存在だから、あんまり邪険にされると窮屈なの。友達にならない?」


 ドリーは怪訝な表情を浮かべたが、この途方もない機会を活かすべきだと判断した。


「わかったかしら。仲良くやりましょう。よろしく。エリカ」


「わー! やった! よろしくね、ドリー」


 その時、コンコンとドアをノックする音が聞こえた。


「誰なの?」


「サイラスにございます。なにか、人とお話されているようなお声が聞こえましたので、心配になりまして……」


 彼はドリーの執事だ。長年彼女に仕えているが、少し心配性なのがたまに傷だった。


「なんでもないわ」


「さようでございますが。失礼いたしました。いい夢を」


 ドアの前から、サイラスが歩き去っていく足音が聞こえた。



 翌日から、2人の作戦会議が始まった。

 

「あなたが破滅してしまう原因は、その性格の悪さよ」


 ドリーは怒った。


「いくらなんでも無礼過ぎじゃないかしら。私は貴族よ」


「あなたの頭の中にいるだけの私に貴族もへったくれもない。あなた、これまでも散々メイをいじめてきたけど、昨日の夜も何か企んでたでしょ」


「べ、別に……」


「隠しても無駄よ。いくら恋敵とはいえ、ちょっと感情的なりすぎ。それで提案なんだけど、メイと仲良くなってみたら?」


「なにを言っている。メイは魔法の力が認められたから特例として魔法学院に行けただけの農民にすぎない。貴族の私とは釣り合わないに決まって――」


「その感覚がダメなの。あなたのその考えが暴走した結果が、昨日言ったあの未来なの」


「ぐ……」


「オーソン公爵は今、メイに淡い恋心を抱きながらも長い間関係が進展せずにいるの。魔法学院を卒業した今でもそう。月に何度か会う程度。でも時間の問題だし、物語ではあなたのいじめが引き金となって2人は急接近しちゃうわ。だから、ここはひとつ、メイと友達になりましょう。2人の間を取り持ちながら、オーソン公爵に近づくの。ほら、恋の相談相手に惹かれちゃうことだってあるしね」


「上手くいくかしら……」


「今までのやり方よりは全然まし! まずはこれまでの悪行を謝罪するところからよ!」


「う、うん……」


 ドリーはしぶしぶ、エリカの言うことを受け入れた。


 その日の午後にはサイラスに馬車を用意させ、茶菓子を用意し、メイの住む田舎へと向かった。


 土属性の魔法に長けていたメイは魔法学院卒業後、自身の魔法を農業に活かそうと考え、オーソンの気づくか気づかないか微妙なラインのアプローチをはねのけて田舎の農村に帰っていた。


 ドリーが聞くところによると、彼女の村の農作物は質も出荷量もずいぶん良くなったらしい。


 2時間も経たないうちに、ドリーはメイの村へと着いた。


 馬車からは、広大な土地にいくつもの畑が広がっており、様々な作物が育っていた。


 しかも驚いたことに、鍬を持って農作業をする人は1人もおらず、代わりに可愛い土鼠の召喚獣が畑を耕している。


 メイは、農業に関しては天才だった。


 ふん。農民のくせに生意気かしら。


 ドリーはそうつぶやき、エリカはやれやれと呆れる。

 

 メイの家は、こじんまりとした木の平屋だった。


 ドリーはサイラスに手を引かれて馬車から降りた。


 ドアをノックすると「はーい」と明るい声が聞こえてきてドアが開き、メイが現われた。


「あ……ドリー……」


 メイの表情は暗かった。これまで散々いじめてきた相手が突然現れたのだ。当然の反応だった。

 

「メイ、突然お邪魔して悪かったかしら。上がってもいい?」


「ええ。さ、上がってちょうだい」


 ドリーはメイに居間まで案内され、椅子に腰かけた。


 そして、持ってきた茶菓子を差し出す。


「これ、今貴族の間で流行っているの。良かったら召し上がって」


「ありがとう! ちょうどいいから、今お茶と一緒に出すね」


 メイはそう言って、キッチンへと向かった。


 彼女はお茶とドリーが持ってきたクッキーを持って戻ってきた。


「それで、今日は何の用なの?」


「じ、実はな。いろいろ考えていたのだ」


「いろいろって?」


「その、これまで私がお前にやってきたこと……だ」


「……」


 メイは下を向いた。


 きっと、嫌な記憶が蘇ったのだろう。


「振り返ってみて、やはり私は愚かだった。なぜあそこまでしてしまったのか。きっと、器が狭量だったのだろうな。だから……その……すまなかった」


 ドリーは目を斜め下にそらしながら言った。


「こんな謝罪一つで済むわけがないとは承知しているが、どうしても言いたかった」


 すると、メイがドリーの手を優しく包む。


「ううん。いいの。それって、すっごく勇気が必要なことだと思うの。ちょっと複雑だけど、嬉しかったよ」


「メイ……」


「よかったら、これからもお話とかしようよ。昔のことは水に流してさ」


 メイはそう言って、クッキーをひとつ食べた。


 彼女は「おいしー!」とはしゃいでいた。


 ドリーは、オーソンに近づくための策略だと思ってここまでやってきたが、メイの姿を見て、自然と涙が零れた。


「ドリー!? どうしたの?」


「いや、なんでもない。クッキーは美味かったか。そうか。また他の菓子も持ってくるかしら」


 ドリーは、メイと30分ほど雑談したあと、彼女の家を後にした。


 帰りの馬車で、ドリーはエリカと話す。


 サイラスが馬車を引いているので、頭の中でだ。


「よかったね、ドリー」


「……ああ。なんだか、胸がすっきりした。無意識に、後悔していたのかも」


「本気の友情が芽生えちゃったりして」


「それならそれでかまわない」


「すごい。まるで人が変わったみたいね」


「お前は、私のことをなんだと思っているのかしら」


 馬車は2人を乗せて進む。晴れた草原に風がなびいた。


 それからというもの、事あるたびにドリーは茶菓子を持ってメイの家を訪れた。


 一緒に農作業を手伝ったり、新しい魔法を見せてもらったりもして、楽しい時間を過ごしていった。


 ドリーは時折、オーソン公爵のことをメイに訪ねてみたが、メイはそのたびに照れた笑いを見せて恥ずかしそうにしていた。


 時折オーソンに誘われてお話したり、出かけたりするだけで、それだけなのだそうだ。


 その時に、最近ドリーと仲良くなって、遊ぶようになったという話をしたら、オーソンは喜んでくれたらしい。


 さらに、そのことがきっかけで、オーソンとメイ、ドリーの三人で遊ぶことも増えていった。


 ただ話すだけのこともあれば、馬に乗って遠出することもある。


 夜は一緒にお酒も楽しみ、ドリーの館に招待して演奏会を楽しむ夜もあった。


 エリカの助言の通り、ドリーはメイを通してオーソンに接近することができた。


 企みが成功したのは喜ばしかったが、それ以上に、ドリーは楽しかった。


 もし、私がメイとオーソン様を引き離すためになにかしでかしてしまっていたら、こんな気持ちは味わえなかったのだろう。


 オーソン様への恋心は、複雑になってしまった。


 今でも彼と結婚したい気持ちには変わりないが、メイのことも大切だ。


 ──いっそのこと、愛人にでも。


 ドリーは自嘲気味に笑った。


 だが、この幸せな日々は数か月後、終わりを迎えることになる。



 ある日ドリーがメイの家に行くと、いつもと雰囲気が違った。


 メイに案内され、居間に行くとオーソンが立っていたのだ。


「オーソン様!」


 ドリーは驚いた。


 事前に聞かされてもいなかったし、あまりに突然のことだったのだ。

 

「メイ、これはいったい……」


「あのねドリー。今日はちょっと大事なお話があって……。ほんとはオーソンは連れてくるつもりはなかったのだけど……」


 オーソン!? オーソン様を呼び捨てに?


「私から話そう。ドリー、まずはかけてくれ」


「は、はい」


 ドリーは促されるままに椅子に座った。


「ドリー。よく聞いてくれ。メイに子供が出来た」


 頭が割れるかと思った。


 衝撃が全身に走り、体中がしびれて現実感がない。


「そ、それはおめでたいじゃありませんか。おめでとうございます。メイ、おめでとう!」


 ドリーは、何とかして言葉を振り絞った。


 メイと敵対していた昔ならまだしも、メイは今友達なのだ。


 2人は結婚するだろう。


 だが、その後も人生は続く。


 愛人枠だって別に残っている。


 ドリーは悲観していなかった。


「ありがとう。ドリー」


 メイが言った。


 その言葉には、力がなかった。


「これから忙しくなるわね。まずは結婚式を挙げるんでしょう? もし準備に人手がいれば言ってちょうだい」


「ああ。そうだ。そうなんだが、話はそれだけじゃないんだ」


 オーソンが、神妙な表情のまま言った。


「いったいなにかしら?」


 ドリーには見当もつかなかった。


「これまでは、メイが自分の村で土魔法と農業の研究をしたいというから、離れて暮らしていたが、僕とメイはずっと前から結婚していたんだ」


 ――え?


「でも、妊娠してしまったからには、これからはメイは僕の家で暮らすことになる。だからもう、こんなことには付き合えないんだ」


 なにを言ってるの?


「ちょっとオーソン。言葉を選んでよ」


「ああ。すまん。でも、これは君の執事やご両親にも許可を取っている。あまりにも時間がかかりすぎたし、限界だ。ドリー、君は心の病にかかっているんだ」


 心の病?


「君は一度壊れてしまったんだ。それには、僕たちにも責任の一端があってね。君は僕に恋をしていた。でも、その思いが強すぎて、魔法学院にいた時も、卒業後もメイをいじめたり、僕に誤った情報を教えたり、いろいろと悪さをしてしまったんだ。僕はそれで頭に来てしまい、君との関係を切った」


 これは、エリカが言っていた……


「それから君は、お見合いをして、ある男と結婚したんだ。でもそいつは最悪なやつで、君を奴隷のように扱い、毎日のようにいたぶった。それで心が壊れてしまったんだ。僕たちが駆けつけた時は、それはもうひどい状態でね」


 これもエリカから……でも、私の心は壊れていないはず。エリカ? これはいったい何なの? どういうことなの? 頭の中でドリーは問いかけたが、エリカは答えない。


「君はつらい記憶を閉じ込めた。そして、まだやり直しが効く時点に戻ったんだ。君の感覚では数ヶ月に感じているだろうが、君がこうなってしまってから、もうかれこれ3年になる」


「3年……?」


 ドリーは驚き、メイとオーソンの顔を交互に見やった。


「その間に、真実を告げることもあった。でも、そのたびに半狂乱になって気を失い、目覚めたら元の状態に戻った。何度も、何度もだ。だから、ショック療法ではなく、心の安定した状態を保ち続けていればいつかはきっとと思っていたが、時間切れだ。もう僕たちはこれ以上関われない。すまない。力が及ばなかった。許してくれ」


「う、うそだ。うそだ!!!!」


 ドリーは頭を抱えながら立ち上がり、椅子が倒れた。


「ドリー、ほんとなのよ」


「エリカ!! エリカ!!? 何とか言って!! うそよね!? あなたはどこまで知ってたの!?」


「エリカは、君が作り出したもう一人の人格だよな。彼女は君の未来をわかっていて、君にどうすれば幸せになれるのか助言してくれる存在だろ。2回目に君に真実を告げた時、初めて彼女の存在を知ったよ。エリカは君に過去の記憶を知られたくないために、生まれ変わった魂だと言っているが、それは嘘だ」


「エリカが、私との仲を回復させるように言ったのよね。彼女のような人が生まれたということはきっと、罪悪感があったんだと思うわ。だからこそ、私たちは放っておけなかったんだけど……」


 メイが言った。


 彼女は頭を抱えて唸っているドリーを見ていられなくなり、涙が溢れ、オーソンの胸に顔をうずめた。


 ――エリカ、嘘よね? 嘘だと言って。


 ――ごめんねドリー。


 ――じゃあ見せて。私が閉じ込めた記憶を。


 ――いいけど……心に負担が大きいと思う。次見たら、それこそ本当の廃人になるかも。


 ――見せて。


 ――わかった。


 エリカが見せた彼女の記憶は、凄惨なものだったが、それを見た瞬間、彼らの言っていることが真実だということがわかった。


 自分自身の醜さと、オーソンを失った悲しみ、消えない執着心、何か月にも及ぶ虐待の日々……

 

 ドリーの夫、ジョエル・グルエフは、最初はいい夫だったが、本性は悍ましい獣だった。


 両親も大手を振るって結婚を認め、悲しみに暮れる娘をなんとか救ってくれるだろうと喜んでいたし、ドリー自身も少なからず、彼との結婚に期待していた。


 だが、待っていたのは地獄だった。


 彼は毎日のようにドリーを手荒く犯し、暴言を投げかけ、少しでも反抗すると殴った。


 ドリーは強気な性格だっため、ことさらジョエルはドリーに厳しくした。


 ひどい時には、裸で鎖につないで動物のように食事させ、唾を吐きかけた。


 逃げようにもジョエルの家は人里から離れていたし、逃げようとすると尋常ではない折檻が待ち受けていた。


 ドリーの自尊心はどんどん削れていき、毎日祈るようになった。


 彼女の両親とオーソンが駆けつけ、ジョエルを殺した時にはもう、ドリーの心は壊れて正気を失っていた。

 

 



 日が暮れ始めていたが、雲が空を覆い夕日は隠され、辺りは薄暗かった。


 ドリーはメイの家を出て、馬車に乗った。


 サイラスはドリーに代わって、オーソンとメイに頭を下げた。


 ふたりは、悲痛な面持ちでドリーを見送った。





 彼女は屋敷に着くと、サイラスに介抱されながら自室に戻った。


 道中、ドリーの両親が心配そうにサイラスと話している声が聞こえた。

 

「ではお嬢様。ごゆっくりおやすみください。ご用命があれば、いつでもおっしゃってください」


 サイラスはそういうと、ドリーの部屋から出ていった。


 ドリーは、暗い部屋でベッドの上でただ茫然と座っている。

 

「ねえ、ドリー」


「なに、エリカ」


「また、記憶を閉じ込めるの?」


「……」


「次そうなってしまったら、私はどうしたらいいかわからない。もうオーソンとメイは協力してくれないし、また今日みたいなことが起きたら、あなたは……」


「あなたは、なに? というか、暗すぎだ。いつもの調子はどうした?」


「ドリー?」


「参謀のお前がそんな具合では、オーソン様を射止めるまでに私は老婆になってしまう。それで、明日はどうする? お前の知っている私の物語に、なにかヒントはないのかしら?」


「……うん、そうだよね。ちょっと考えてみるから待ってちょうだい」


 エリカは、再び記憶を閉じ込めた。


 今回もダメだった。

 

「私の夢は、立派な公爵夫人になることなのよ。美しくて、気高くて、教養があって、みんなに羨ましがられるような」


「うん。知ってる」


「ねえエリカ、あなたの夢はなに?」


「私? えー。んー。ないよそんなの。私はあなたの頭の中に居候してるだけの存在だし」


「そう、じゃあ何か見つかるといいな」


「そうだね」


「そろそろ寝ようかしら。おやすみエリカ」


「うん。おやすみ、ドリー」



 翌朝。


 ドリーは消えた。


 エリカが目覚めると、いくら探しても主人格のドリーはどこにも見当たらなかった。


 代わりに、エリカがドリーの体を動かせるようになっていた。


 エリカは部屋を飛び出した。



「サイラス! サイラス!」


 屋敷の廊下をサイラスの名前を呼びながら走った。


 すると、部屋の中から彼が現われた。


「どうされましたか、お嬢様」


「ドリーが、ドリーが」


 サイラスは、涙をボロボロ流しながら必死にドリーの名前を叫ぶ彼女を見て、概ねのことを察した。


 主は、もうこの世にはいないのだろう。


「エリカ様、ですね」


 エリカはうなずいた。


「これからしばらくは、ドリー様として過ごしてください。あとのことは、ゆっくり考えましょう。私たちには、少し時間が必要です」


 サイラスは悲し気な表情を浮かべながら言った。


 

 ドリーは昨晩、私に体を譲るつもりだったんだ。


 邪魔されないように、記憶を閉じ込めたふりをして、私が寝てる間にこっそり体の主導権を入れ替えた。


 ドリーはきっと、頭の中の奥底にある記憶の墓場へと旅立ち、そこで永遠の眠りについているのだろう。


 ずるい。


 とエリカは思った。


 彼女はドリーの部屋に戻ると、カーテンの揺れる窓辺に立ち、外を見た。


 青空が、どこまでも果てしなく広がっていた。

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令嬢の箱 大窟凱人 @okutsukaito

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