1-4 花霞
「おせえな、啓雲のやつ」
褒美の酒を丑寅から振る舞われた雷神隊の者たちは、無数の死体が埋められた庭の桜の花を囲み、すっかり酒宴となっていた。
無礼講でどんちゃん騒ぎの兵士たちの中、どこか浮かない顔で、隊長の丑寅は立ったり座ったり落ち着かないでいる。
「そんなに気になるか?あの声の主が」
旅芸人の蛇目が興味なさそうに酒をあおる。蛇目は男であるが、赤い口紅にしどけた浴衣の着こなしは、周りの野郎どもが思わず目線を奪われる妖艶さだ。
「気になるわけじゃねえんだけど…」
結局仁王立ちになった丑寅も、ぐっと酒を飲み干した。その飲みっぷりに、周りから拍手が起こる。
その時、屋敷の門に大きな影が現れた。
「遅くなりました、兄貴」
「遅かったじゃねえか…」
言いかけた丑寅の視線は、啓雲が抱えている若い女に釘付けになった。同じく一斉に注目した周りの者どもからも歓声が上がる。
驚きに目を見開いた女は、恥ずかしそうに啓雲の腕から降りたがっている。
のしのしと丑寅の目の前までやってきた啓雲が、恭しく女を地面に下ろした。釘付けのままの丑寅の目線も、そのまま女を見下ろす形になる。雷神隊の一同も、いつの間にか静まり返って女を見ている。
戸惑いを隠しきれない女が、上目遣いで礼をした。
「お、お初にお目にかかります。旅の真竹と申します。」
その芯のある声に、先ほど山から聞こえてきた歌の主であると分かった。
丑寅が返事を忘れていると、真竹の後ろから啓雲が、
「こちらは雷神隊総隊長、丑寅様でいらっしゃいますぞ」
と代わりに紹介した。
その瞬間、真竹の瞳がさらに大きく開かれ、震え出した。
「雷神隊、ですって…?」
明らかに表情は恐怖に鋭くなり、後退りした体はすぐ後ろの啓雲にぶつかり、そっとその両手で押さえられる。逃げ場のない状況に絶望する真竹の手を、丑寅は思わず握った。
「案ずるな。俺たちはお前の歌が聴きたくて、お前にここまで来てもらった」
やや緊張している丑寅は、そのまま真竹の手を引いて、屋敷の縁側に座らせる。自分もその横に腰掛けた。
「先ほど、山で歌っていただろう。その歌を聴いた俺たちの仲間の傷が、立ち所に治ったんだ。あれはどういうわけだ」
尋ねながら、逃げてしまわないよう真竹の肩に腕を伸ばす。その体が、恐怖に怯え、震えているのがわかる。
「わ、わたしは…」
逃げ場がないかと真竹が視線を泳がせていると、空気を読まない蛇目が啓雲の手元を見て声を上げた。
「お前、何持ってんだ?」
「あ、これか?」
芸人である蛇目がすかさず見つけたのは、真竹の月風琴である。真竹は逃げようにも、これを奪われているうちは逃げられない。
「このお嬢さんがこの楽器を弾きながら歌うんだ。それはそれは美しかったぞ」
うっとりとした表情で啓雲が言うと、蛇目が妬いたように真竹を横目で睨む。
「ほう?」
同じ旅芸人に睨まれた真竹の肩がびくりと震える。思わず、その肩を抱いた丑寅が優しく撫でたが、それでさらに真竹は身をこわばらせてしまった。
「蛇目、余計なことはするなよ」
丑寅が釘を刺すと、蛇目はぷいと横を向いた。
丑寅は、真竹の肩を掴み目をのぞいた。先ほどよりさらに怯え切ってしまい、目を白黒させている。
「真竹、俺のために一曲歌ってくれないか」
そう言って優しく髪を撫でる。なぜか、通りすがりの旅芸人にすぎない真竹を大切に扱う丑寅を、雷神隊の連中も珍しそうに見守っている。
「おい、啓雲」
丑寅の言葉で、啓雲がやっと月風琴を真竹に手渡す。ようやく触れた、慣れ親しんだ重みに、真竹の表情がほっと和らぐ。その様子に、丑寅は密かに唾を飲んだ。
真竹は月風琴を構え、考える。
これまでも女一人旅、危険な道を歩いてきた。いざという時に、使ってきた作戦が胸中にあった。絶体絶命の状況だが、これしかない。
「で、では、誠に僭越ながら、戦にお疲れの皆様のため、一曲歌わせていただきます」
酒に酔った観衆からは歓声が上がったが、すかさず丑寅が立ち上がり、「俺のためだ」と大声で付け足した。
「丑寅さまのために…」と真竹が小声で言い直す。丑寅が満足そうに真竹の横に座る。
おそるおそる、真竹が月風琴を弾き始めた。
月風琴を奏でる一音一音が、聞く者の耳に優しく語りかける。月風琴とよく合う真竹の優しい声が、それと会話するようにメロディーを紡いでいく。
一度歌の世界に入ってしまうと、周りの恐ろしい連中のことも忘れるほど夢中になってしまう。真竹を取り囲む雷神隊の連中の目はとろけ、酒を持った手はだらしなく力が抜けている。
真竹のすぐ隣にいる丑寅も、顔を赤らめ、真竹の肩を抱いたまま、その手元をぼうっと見つめている。
「今だわ」
作戦開始。
歌うメロディをゆっくりと落としていき、子守唄のようなより落ち着いた歌に変化させていく。
すると、蛇目を筆頭に、次々と野郎たちがいびきを立て始めた。立っていた者も崩れ落ちるように眠りに落ち、眠るまいと目を開くべく耐えていた丑寅も、ついにころりと後ろに転がってしまった。
「よし」
真竹の歌には不思議な力がある。
聞く者は人間であれ、動植物であれ、身も心も癒されてしまうのである。その力を使えば、傷を治したり、敵を眠らせてしまうことだってできるのだ。
丑寅の手をそっと体から離し、起こさないように月風琴を奏でながらそっと立ち上がる。
眠りに倒れた雷神隊の者たちを踏まないようにしながら、桜吹雪に紛れるようにして、真竹はその場を去ったのであった。
風の冷たさに、丑寅はぶるっと震えた。はっとして体を起こすと、いつの間にか日が傾いている。目の前では、屋敷の庭の桜の木を囲むようにして、雷神隊の野郎どもが眠りこけている。
はっとして隣を見ると、真竹はおらず、衛兵役である啓雲は、真竹がいたはずの場所の目の前で、錫杖を抱きかかえて眠りに落ちている。
「さてはやられたか…」
あまりの惨敗ぶりに頭を抱えながら、空を仰ぐ。雷神隊ほどの最強の集団を、一瞬にして打ち負かされたこと以上に、何かが引っ掛かる。風に舞い上がる桜吹雪を見ながら、丑寅は考える。ふと、真竹を抱いていたはずの左手を見る。開いた拳には、桜の花びらが握られていた。思わず、ふっと笑いが溢れる。
「真竹、か。この俺から逃げるとはな」
まだ寒さの残る薄紫の空に、新たな決意を固めたのであった。
青龍記 @runaco
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