伯父の遺稿集の巻末につけた、おひげの伯父のばつによれば、死んだ伯父は「狷介ニシテ善ク罵リ、人ヲユルス能ワズ。人マタ因ッテ之ヲ仮スコトナシ。大抵視テ以テ狂トナス。遂ニ自ラ号シテ斗南狂夫トイウ。」とある。従って、其の遺稿集は、「斗南そんこう」と題されている。此の「斗南存稾」を前にしながら、三造は、之を図書館へ持って行ったものか、どうかと頻りに躊躇している。(お髯の伯父から、之を帝大と一高の図書館へ納めるように、いいつけられているのである。)図書館へ持って行って寄贈を申し出る時、著者と自分との関係を聞かれることはないだろうか? その時「私の伯父の書いたものです」と、昂然と答えられるだろうか? 書物の内容の価値とか、著者の有名無名とかいうことでなしに、ただ、「自分の伯父の書いたものを、得々として自分が持って行く」という事の中に、何か、おしつけがましい、図々しさがあるような気がして、神経質の三造には、堪えられないのである。が、又、一方、伯父が文名さくさくたる大家ででもあったなら、案外、自分は得意になって持って行くような軽薄児ではないか、とも考えられる。三造は色々に迷った。とにかく、こんなこころづかいが多少病的なものであることは、彼も自分で気がついている。しかし、自己的な虚栄的なういう気持を、別に、死んだ伯父に対して済まないとは考えない。ただ、この書の寄贈を彼に託した親戚や家人達が、この気持を知ったら烈しく責めるだろうと思うのである。

 だが、結局彼は、それを図書館に納めることにした。生前、伯父に対して殆ど愛情を抱かなかった罪ほろぼしという気持も、少しは手伝ったのである。実際、近頃になっても彼が伯父に就いて思出すことといえば、大抵、伯父にとって意地の悪い事柄ばかりであった。死ぬ一月ばかり前に、伯父が遺言のようなものをあらかじめ書いた。「勿葬、勿墳、勿碑。」(葬式を出すな。墓に埋めるな。碑を立てるな。)之を死後、新聞の死亡通知に出した時、「勿墳」が誤植で「勿憤」になっていた。一生を焦躁と憤懣との中に送った伯父の遺言が、皮肉にも、いきどおなかれ、となっていたのである。三造の思出すのは大抵この様な意地の悪いことばかりだった。ただ、一二年前と少し違って来たのは、漸く近頃になって彼は、当時の伯父に対する自分のひねくれた気持の中に「余りに子供っぽい性急な自己反省」と、「自分が最も嫌っていた筈の」とを見るようになったことである。

 彼は、軽い罪ほろぼしの気持で「斗南存稾」を大学と高等学校の図書館に納めることにした。但し、神経の浪費を防ぐ為に、郵便小包で送ろうと考えたのである。図書館に納めることが功徳になるか、どうかすこぶる疑問だな、などと思いながら、彼は、しぶがみを探して小包を作りにかかった。



    ×   ×   ×


 右の一文は、昭和七年の頃、別に創作のつもりではなく、一つの私記として書かれたものである。十年つと、しかし、時勢も変り、個人も成長する。現在の三造には、伯父の遺作を図書館に寄贈するのを躊躇する心理的理由が、最早余りにも滑稽な羞恥としか映らない。十年前の彼は、自分が伯父を少しも愛していないと、本気で、そう考えていた。人間は何とおのれの心の在り処を自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はない。

 伯父の死後七年にして、支那事変が起った時、三造は始めて伯父の著書「支那分割の運命」をひもといて見た。此の書は先ずえんせいがいそんいつせんの人物げつたんに始まり、支那民族性への洞察から、我が国民の彼に対するかいかぶり的同情(此の書は大正元年十月刊行。従っての執筆は民国革命進行中だったことを想起せねばならぬ)をわらい、一転して、当時の世界情勢、就中なかんずく欧米列強の東亜侵略の勢をちんして、「今や支那分割の勢既に成りてまた動かすべからず。我が日本の之に対する、如何にせば可ならん。全く分割にあずからざらんか。進みて分割に与らんか」と自ら設問し、さて前説が我が民族発展のへいそくを意味するとせば、勢い、欧米諸国にして進んでこうを中原に争わねばならぬものの如く見える。併しながら、この事たる、究極より之を見るに「黄人の相み相闘うもの」に他ならず、「たとい我が日本甘んじて白人の牛後となり、二三省の地を割き二三万方里の土地四五千万の人民を得るも、何ぞ黄人の衰滅に補あらん。又何ぞ白人の横行を妨げん。他年けいけい孤立、五洲の内を環顧するに一の同種の国なく一のしんしや相倚り相たすくる者なく、いたずらに目前区々の小利を貪りて千年不滅の醜名を流さば、あに大東男児無前の羞に非ずや。」という。則ち分割のこと、之に与るも不利、与らざるも不利、然らば之に対処するの策なきか。いわく、あり。しかも、唯一つ。即ち日本国力の充実之のみ。「もし我をして絶大の果断、絶大の力量、絶大の抱負あらしめば、我は進んで支那民族分割の運命を挽回せんのみ。四万々生霊を水火たんの中に救わんのみ。けだし大和民族の天職は殆ど之より始まらんか。」思うに「二十世紀の最大問題はそれ殆ど黄白人種の衝突か。」しこうして、「我に後来白人を東亜よりちくせんの絶大理想あり。而して、我が徳我が力く之を実行するに足らば」則ち始めて日本も救われ、黄人も救われるであろうと。そうして伯父は当時の我が国内各方面に就いて、他日此の絶大実力を貯うべきそなえありやを顧み、上に、聖天子おわしましながら有君而無臣をなげき、政治に外交に教育に、それぞれ得意のしんらつな皮肉を飛ばして、東亜百年のために国民全般の奮起を促しているのである。

 支那事変に先立つこと二十一年、我が国の人口五千万、歳費七億の時代の著作であることを思い、其の論旨のおおむせいこくを得ていることに三造は驚いた。もう少し早く読めば良かったと思った。或いは、生前の伯父に対して必要以上の反撥を感じていた其の反動で、死後の伯父に対しては実際以上の評価をして感心したのかも知れない。

 大東亜戦争が始まり、ハワイ海戦や馬来マレイ沖海戦の報を聞いた時も、三造の先ず思ったのは、此の伯父のことであった。十余年前、鬼雄となって我にあだなすものをふせぐべく熊野灘の底深く沈んだ此の伯父の遺骨のことであった。さかまたか何かに成って敵の軍艦を喰ってやるぞ、といった意味の和歌が、確か、遺筆として与えられた筈だったことを彼は思出し、家中捜し廻って、ようやくそれを見付け出した。既に湿気のためにになったうすかばいろ地の二枚の色紙には、瀕死の病者のものとは思われないゆうこんな筆つきで、次の様な和歌がしたためられていた。


あが屍野にな埋みそ黒潮のさかまく海の底になげうて


さかまたはををしきものか熊野浦寄りくるいさな討ちてしやまむ

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斗南先生 中島敦/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official

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