文字禍
中島敦/カクヨム近代文学館
文字の霊などというものが、一体、あるものか、どうか。
アッシリヤ人は無数の精霊を知っている。夜、闇の中を
その日以来、ナブ・アヘ・エリバ博士は、日毎問題の図書館(それは、其の後二百年にして地下に埋没し、更に後二千三百年にして偶然発掘される運命をもつものであるが)に通って万巻の書に目をさらしつつ
この発見を手初めに、今迄知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数程多い、文字の精は野鼠のように
ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったような所はないかと。之によって文字の霊の人間に対する
獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。文字の無かった昔、ピル・ナピシュチムの洪水以前には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の
ナブ・アヘ・エリバは、或る書物狂の老人を知っている。其の老人は、博学なナブ・アヘ・エリバよりも更に博学である。彼は、スメリヤ語やアラメヤ語ばかりでなく、
或日若い歴史家(或いは宮廷の記録係)のイシュデイ・ナブが訪ねて来て老博士に言った。歴史とは何ぞや? と。老博士が
賢明な老博士が賢明な沈黙を守っているのを見て、若い歴史家は、次の様な形に問を変えた。歴史とは、昔、在った事柄をいうのであろうか? それとも、粘土板の文字をいうのであろうか?
獅子狩と、獅子狩の浮彫とを混同しているような所が此の問の中にある。博士はそれを感じたが、はっきり口で言えないので、次の様に答えた。歴史とは、昔在った事柄で、且つ粘土板に誌されたものである。この二つは同じことではないか。
書
書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
若い歴史家は情なさそうな顔をして、指し示された瓦を見た。それは此の国最大の歴史家ナブ・シャリム・シュヌ
ボルシッパなる明智の神ナブウの召使い給う文字の精霊共の恐しい力を、イシュデイ・ナブよ、君はまだ知らぬと見えるな。文字の精共が、一度或る事柄を捉えて、之を己の姿で現すとなると、その事柄は最早、不滅の生命を得るのじゃ。反対に、文字の精の力ある手に触れなかったものは、如何なるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、何故に存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載せられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の
若い歴史家は妙な顔をして帰って行った。老博士は尚
青年歴史家が帰ってから暫くして、ふと、ナブ・アヘ・エリバは、薄くなった
実際、もう大分前から、文字の霊が或る恐しい病を老博士の上に
文字の霊が、此の
しかし、まだ之だけではなかった。数日後ニネヴェ・アルベラの地方を襲った大地震の時、博士は、たまたま自家の書庫の中にいた。彼の家は古かったので、壁が崩れ書架が倒れた。
文字禍 中島敦/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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