メキシコ・グアナファト州立刑務所にて、愚行の記録

南沼

第1話

 飛び付き逆十字だった。

 私の生涯において幾度となく繰り出した中で、もっとも美しいそれ。



「ミゲル、明日からはもう、来なくていいぞ」

 そう言うと、風采の上がらない小男が、泣きそうに顔を歪ませた。

「そんな顔をするな」

「セニョール・カルロス、だってよう……」

 ミゲル・マルドナドは私のタラチェロだった。タラチェロというのは、房内の掃除や身の回りの世話をする小間使いで、ここ州立刑務所の中では最も一般的な副業のひとつだ。

「なにも、負けるって決まったわけじゃないだろう。そんなこと言わないでくれよ」

 ミゲルの懇願に、しかし私は何も言わず首を振るだけだった。

 正直に言えば、もうミゲルに払う週あたり60ペソの給金すら払える算段が付かなくなったからだが、それを言い出すのは憚られた。

 姪のダニエラからの送金が途絶えて、もう2か月以上になる。一族の面汚しのような私にも欠かさず手紙を送ってくれるのはひとえに彼女の優しさによるものであって、それが今更途切れたとは考えにくい。新所長ヒメネス以下の看守どもが着服しているのは明らかだった。だが、それを言い立てたところでどうなるものでもない。私の立場は、今や風前の灯火である。すべての後ろ盾を失い痩せさらばえた五十路の男にできるのは、黙ってその日を待つことだけだ。

「餞別代りといっては何だが」

 私は小さなビニールのパッケージに入ったコカインの結晶ベースを渡してやった。メキシコ産特有の薄茶色をした結晶だが、純度は良い。2号棟のガブリエル・エステバンの元を訪れた時に手に入れたものだった。



 サンチャゴの右ストレートが私の顎を狙うが、しかし私が崩したと見せた体勢は誘いである。



「命乞いでもしに来たのか?」

 2号棟133号室で、ベッドに腰かけたままガブリエルは不敵に嘲笑った。

「ベースを買いに来ただけさ」

 2人部屋のはずだが、ほかにも3人の男が腕組みをして私を睨みつけていた。彼らもタラチェロには違いないが、用心棒も兼ねている。その中には、私の対戦相手であるサンチャゴ・カラスの姿もあった。190センチに迫る長身で、胸板はべらぼうに厚い。ランニングシャツから覗く胸元や二の腕には濃い体毛が密集しており、その見た目と激しいファイトスタイルから地獄の猛牛トロ・デル・インフィエルノと呼ばれている。

 なけなしの現金と引き換えにガブリエルから手ずからパッケージを受け取った私はちっぽけな結晶を眺めながら、「少し話もあったんだよ」と言った。

「ファイトマネーの件で」

「ファイトマネーだ?」

 勝者は、自身に賭けられた金額の1割を貰える取り決めだった。

「私が勝ったら、ファイトマネーを姪のダニエラに送金してほしい」

「何を言ってやがる」

 心底理解できないという顔だった。

「おれがそんなことをする理由がどこにある。それに、勝ったらだと?」

 ずい、とサンチャゴが割り込んできた。

「じじい。今この場で殺してやろうか?」

「サンチャゴ、口を出すな」とガブリエルが窘める。

「カルロス、まさかお前この男に勝つつもりなのか?」

「もしもの話だよ。あんたぐらいしか頼める人間がいないんだ、セニョール」

 エステバンファミリーのボス、アントニオ・ルイス・エステバンの甥にしてこの刑務所内のコカイン流通を一手に仕切っているガブリエルにとって、そんなことは造作もないだろう。ここで最もカネと権力を持っているのは彼だったし、そうである限りここではすべてが思い通りになる。メキシコの刑務所とは、そういう場所だ。

「難しいか?」

 そう聞いたことは大層彼のプライドを刺激したようだ。目に力を入れて私を睨むと、「いいだろう」と吐き捨てた。

「昔日の英雄に免じて、それだけはやってやる」

 どうせ無理だろうがな、と混ぜっ返すと、控えていた用心棒たちが笑い声を漏らした。

「ありがとう、セニョール」

「話はそれで終わりか?」

「ああ」

 本当に、それだけが気掛かりだったのだ。満足した私は、踵を返して部屋を出た。



 サンチャゴの右拳を右側に逸らしざま、伸びきった彼の右腕を掴む。



 刑務所の中で最も大事なものはカネで、その次が権力だ。なぜ権力が2番目にくるかといえば、権力の大小を伴う刑務所内の政治的力学はしょっちゅう変動するからだ。

 2か月前、所長が代わったことを機に、所内の勢力図もまた大きく様変わりした。新所長のヒメネスは、エステバンファミリーからたっぷりと賄賂を貰っていた。ガブリエルを皮切りにして次々とエステバンの手のものが送り込まれ、それまで幅をきかせていたカスティーリョファミリーはたちまち立場を失った。コカインの卸と販売は麻薬カルテルでなければ許されていなかったが、カスティーリョ一色だったそこを、エステバンファミリーが丸ごと乗っ取ったのだ。カスティーリョファミリーが失ったのは立場だけではなく、多くの人命もだった。カスティーリョの後ろ盾のもとで多少なりとも大きな顔をしているものは、白昼堂々と、時には衆人観衆のもとで殺されていった。売人頭のリカルド・チャベスに、その用心棒だったペッポ・サンチョス、情報屋のルイ・イストリア。看守どもはみな、見て見ぬふりだった。ともだちは殆ど死んで、残ったのは私だけだった。

 ダニエラは私の妹の娘で、カスティーリョファミリーのナンバー2であるラファエル・ドミンゲスの情婦をしている。柔術の世界大会でメダルを1度獲ったきり落ちぶれ身持ちを崩し、挙句コカインとヘロインの密輸で30年もの刑を食らった私を、ダニエラだけは見捨てないでいてくれた。その運び屋でさえ、彼女の伝手を頼ってようやくありついたというのに。

 しかし、それももう終わりだ。カスティーリョのおこぼれに預かっていた私がエステバンファミリーに見逃されていたのは、ただ彼らが私を見せしめにするタイミングを見計らっていたからに過ぎない。

「地獄の猛牛があんたを狙ってるぜ」

 昼食時、隣に座った調達屋のヘスス・ボルゲッティがこっそりと声を掛けてきたとき、私はついにその時が来たと思った。

 『殴り屋』は、刑務所内でもメジャーな副業だ。喧嘩自慢に金を払って、気に入らない奴を痛めつけてもらう。だが、サンチャゴはガブリエルの用心棒をして給金をたんまりともらっている。そんな副業に精を出す必要は全くないはずだった。

 私はその噂に対して何の反応もしなかったが、数日が経つ頃にはカルロス・バラガンは挑戦を受けて立つという評判がどこからともなく立ち、あれよという間に決闘の場が立った。

 大した茶番だと私はうんざりした。本来なら第3者が受け持つはずの決闘の場の仕切りをガブリエルが受け持ったのが、その証拠だ。最早介入を隠そうともしていないし、周りの人間もそれを分かって乗っかっている。今の州立刑務所に、ガブリエルとその後ろ盾であるエステバンファミリーに楯突くことのできる人間など、どこにもいなかった。

 カスティーリョゆかりの者に対する最後の見せしめとして、老いて鶏ガラのようになった柔術家を、最強の用心棒が決闘の名のもとに無残に殴り殺す。すべての絵図は既に描かれていた。

 しかし、逃げることは同時に避け得ない死をも意味していた。名誉を捨てた挙句に、連中の心ばかりの私刑リンチを添えて。

 だから私は、どのような形であれそれを呑まざるを得なかった。



 右脚を、サンチャゴのやや曲げた右股関節のあたりに置くようにして、左脚で地を蹴る。



 私とサンチャゴのどちらが勝つかは既に賭けの対象になっていた。これはガブリエルにとっては一種の興行でもあり、見物料こそ掛からないが莫大なテラ銭が動くことだろう。

「だれが賭けなくても、おれだけはあんたに張るよ」

 そう言ってくれるのは、ヘススだけだった。陽気で気の良いこの青年はアメリカ生まれの所謂チカーノと呼ばれる人種で、彼らはアメリカとメキシコどちら側からも、どっちつかずの半端者のような扱いを受けている。しかしこの男はそれを逆手にとって、誰とでも分け隔てなくともだちになれる稀有な才覚を得た。金を払えばテキーラやバーベキューチキンのみならず女さえ都合してくれる彼のもとには、当然色んな情報がやってくる。

「そいつはありがたいが、今のオッズはどうなんだ?」

「だから、誰もあんたにゃ張ってねえのさ」

 あんたが勝てばおれの総取りだよ、とヘススは笑った。すでに頭の中で算盤を弾いているのだろう。

「だから頼むぜ、アミーゴ」

 私は苦笑いするばかりだった。サンチャゴは確か31歳かそこらで、私より20歳以上若く、体重も下手をすれば倍近く違うだろう。筋肉は削げ落ち、運動らしい運動などここ数年来縁のない私に勝ち目などない。その前評判はまったくもって正しいと私自身ですらが思う。ガブリエルは皮肉のつもりで昔日の英雄などと言ったが、それすら過大な評価というべきだった。この刑務所に入って5年が経つが、その前から酒と薬物で私の身体はボロボロだった。所内の規則正しい生活がなければ、もっと早死にしていたかもしれない。

「決闘は、クリスマスだったな」

 もう、数日先まで迫っていた。死刑執行のカウントダウンのようなそれを、私はどこか他人事のように捉えていた。

「ああ、メリー・クリスマスフェリッツ・ナビダのディナーは猛牛のステーキだ、そうだろ?」

 つられて思わず、私も笑ってしまった。

「そうだな、その前に景気よくチャチャチャを踊ってくるよ」



 私は両手でサンチャゴの右手首を掴んだまま、ぐるりと左脚を宙に蹴り上げ、彼の右腕を足で挟むようにして首を刈る。



 聞くところでは、よほどオッズが偏ったらしい。ついには私が何分で倒されるかまで賭けの対象になったと聞いた時には、さすがに大声で笑ってしまった。私にそれを教えてくれたのは、ミゲルだった。

「笑いごとじゃないぜ、セニョール」

「当ててみよう。当日までに首を吊るか、脱獄する方に張っているやつもいるんじゃないか?」

 ミゲルは気まずそうに黙った。半ば冗談のつもりだったのだが、どうやら図星だったようだ。

「で、おまえは何分に賭けたんだ?」

 ミゲルは、首を振った。

「セニョール、おれは……」

「……すまない」

 ただ、私は嬉しかったのだ。解雇されたはずのミゲルが、なお部屋に遊びに来てくれることが、たまらなく。

「なんでそんなに笑ってられるんだよ。殺されるんだぜ、セニョール」

「まだ負けると決まった訳じゃない、そう言ったのはおまえだぞ」

「あんなレスラーみたいな奴に、どうやって勝つっていうんだ。あいつ、これまで何人も素手で殴り殺してきたっていうぜ。そん中にゃヘビー級のボクサーだっていたって噂だ」

 あんたが嬲り殺しにされるのを見世物にしようとしてる、ひでえ奴らだ、そう気炎を上げるミゲルを、私は制した。

「あまり大きな声で言わない方がいい」

 誰が聞いているかわかったものではない。大事な興行を控えた私の身はかえって安全であるが、私に近づく者がそうであるという保証はどこにもなかった。



 前に泳いだサンチャゴの身体が、右腕にぶら下がる私の体重に負けて傾ぐ。



 いよいよ当日の朝になった。

 髭をあたり、鏡で剃り残しがないかよく確認してから部屋を出て、ヘススのもとを訪れた。

でいいぜ」というヘススに半ば押し付けるように10ペソを渡し、タコスとミネラルウォーターを受け取った。これで手持ちの現金すべてを使い果たした私は、いっそせいせいした心持ちになっていた。

 ヘススはまだなにか言いたそうにしていたが、私は「ありがとうグラシアス」とだけ言い残して部屋に戻った。

 よく晴れた日だった。クリスマスのメキシコといえば乾季の真っただ中で、もうここしばらく雨は降っていないものだからあたりは埃っぽかったが、中庭の空は気持ちよく晴れ渡っていた。決闘は昼過ぎからだというのに、廊下の窓から鉄格子越しに見下ろす中庭には、すでに何人もの見物客が少しでも良い場所を先に確保しようとたむろしていた。

 大して食欲はなかったが、タコスを半分だけ食べ、ミネラルウォーターで流し込んだ。

 それからしばらくベッドに座ったまま、枕もとのブリキ缶に大事にしまっていたダニエラからの手紙を引っ張り出し、何度も読み返しては紙面をさすった。

やがて眠気がやってきたので、そのままベッドに横になり、浅い眠りについた。

 2時間ほどで、目が覚めた。気分は悪くない。

そろそろ頃合いかと思い腕立て伏せをして体を暖めていると、ノックもなにもなしに男が2人部屋に入ってきていた。刑務所のドアだというのに、カギが何の役にも立たないのはいつものことだ。

「時間だ」

 ガブリエルの用心棒たちで、2人ともうっすらと笑っていた。私が慌てふためくところを見られると期待していたのかもしれない。

「ああ、分かってる」

 今更誰が逃げ出すというのか。私は立ち上がり、あてが外れたのかきょとんとした顔の彼らに挟まれながら部屋を出た。



 肩のあたりから着地した私は腰を伸ばし、前に傾いだ勢いのままサンチャゴの身体は半回転し仰向きに倒れる。



 中庭の人垣の中は、ものすごい熱気だった。この公開処刑ともいうべき見世物を、娯楽に飢えた囚人たちは心待ちにしていたのだ。囚人だけではない、制服姿の看守も遠巻きに見ていた。勿論、彼らがこの場を止め立てすることはない。

 私は背中を小突かれるように前に押され、観客たちはモーゼモイセスが割った海のように私を迎え入れた。ぽっかりと空いた空間の中に、シャツを脱いだサンチャゴの姿があった。

 ウォームアップは既に終えていたのだろう、その肌はうっすらと汗で光っていた。筋肉の盛り上がりが陽光を照り返し、凄みのある身体つきを露わにしていた。

「じじい、ぶち殺してやる」

 観客たちが一斉に囃し立て、それが開始の合図となった。

 サンチャゴは拳を握って左前のボクシングスタイルに構え、私もそれに倣った。身体を上下に揺すり、リズムをとる。

 大方の予想は私が逃げ回るというものだったのだろうが、私は敢えて前に出た。間合いは詰めすぎることなく、慎重に。

 サンチャゴのジャブ。

 長い。明らかに私の射程の外から、鋭い拳が飛んできた。それに速い。

 2発、3発とガードでいなしていると、サンチャゴは鋭い踏み込みとともに右ストレートを放った。辛うじてバックステップが間に合った。

 努めて涼しい顔を装っていたが、冷汗が一気に噴き出してきた。恐ろしい迫力の拳で、風を切る音までが聞こえてくるようだった。

 ひとまず距離をとろうとしたところで背中が観客の方に寄りすぎ、背中を強く広場の中央の方に押され、私の身体はまた前に出る。

 逃げ場はどこにもない。

 


 サンチャゴの腕は伸びきったまま、肘関節が私の右股関節の上に添えられる。



 防戦一方だった。

 サンチャゴの攻撃は直線的ではあったが、どれも誇張でなく必殺の威力を持っていた。クリーンヒットだけは免れていたものの、身体のあちこちが痛い。顔面にもジャブを何発か貰っていて右の瞼や頬骨のあたりが既に熱を持ち重く感じていた。それに、ガードするたびに腕の骨が砕けそうになっていた。きっと、すでにいくつもの痣が腕にできているだろう。

 逃げ回るだけでなく、私も手を出してはいた。しかしサンチャゴは目もいい。へっぴり腰で打ち出した私の拳は、すべて躱されるか叩き落とされて、あわやカウンターパンチを貰おうという場面もいくつかあった。うかつに反撃すらできない。

「どうしたバラガン。意地を見せろ」

「殺せ、殺せ」

「あと5分耐えてみせろ、そしたら死んでいいぞ」

 囚人どもは好き勝手に叫んでいる。

 私は、今度は足を使う作戦に出た。前に出てくるサンチャゴと観客の輪で出来たリングに挟まれない為には、そうするしかなかったからだ。

 サンチャゴの左を、右回りに円を描くようにしてすり抜ける。切り返しの巻き込むような右フックがうなりをあげて迫るが、これは屈みこんで躱した。すかさず、腹に1発、2発と打ち込んで離脱する。またステップ、ステップ。さながら地獄の猛牛を相手どる闘牛試合コリーダ・デ・トロ

 観客が沸いた。

 しかし、それが何のダメージにもなっていないのは私が一番よく分かっていた。

 まるで巌のような腹筋だった。私の細腕でこの強固な肉の壁を貫くには、日が暮れるまで打ち続けなければならないだろう。

 私のような小兵に反撃を許したのが癪に障ったのか、サンチャゴはラッシュに出た。左右の連打に始まり、フック、アッパーカットを交えて5発、6発……まだ終わらない。幸いなのは、サンチャゴが蹴りを繰り出してこなかったことだ。もし下段への攻撃などと振り分けられていれば、ひとたまりもなかっただろう。

 しかし、引っ掛けるような鋭いコンビネーションフックから間を置かず繰り出された右のストレートが、ついに私の顎を捉えた。

 たまらず後ろに吹き飛んだが、左腕で上体を支え、何とか倒れずに済んだ。

 だが、倒れずに済んだという、ただそれだけだった。頭が朦朧としていた。今すぐにでもその場に寝転んでしまいたかった。

 今一瞬でも意識を失えば死ぬ。その危機感だけが私の身体を動かした。

 見れば、サンチャゴも肩で息をしていた。お陰で、立ち上がる為の一瞬の間を私は手に入れることができた。

 息も絶え絶えに立ち上がると、観客は一層沸いた。ここまで私が粘るとは誰も思っていなかったのだろう。

 サンチャゴもまた、焦れていたに違いない。まだガードも上げていない私に向かって、今日一番の勢いで突進してきた。

 これが、私が文字通り命がけで張った、最初で最後の罠だとも気づかずに。

 


 そして今。

 サンチャゴが地に転がり倒れた勢いを利用して、私は思い切り腰を反らして腕を引き付け、ひと思いに右肘の関節を破壊した。



 サンチャゴは、勇敢で屈強な戦士である。腕を極められようが絶対に降参しないことは分かっていたし、よしんば肘を折ったとして、この男がそれで諦めるとも限らなかった。何より、体格、年齢、体力、すべてにおいて劣る私にとって、このチャンスを逃すことは絶対にできなかった。

 死んだ鳥の羽根を毟る時の感触を数倍した悍ましいそれを、私は皮膚と肉、そして骨ごしに感じた。

 サンチャゴが我に返り、情けない悲鳴を上げるより先に、私は素早く立ち上がり距離をとって彼の反撃に備えた。しかし、不屈のはずのその男は、だらしない悲鳴を上げて肘を押さえ、のたうち回るばかりだった。

 サンチャゴの身体がうつ伏せに裏返ったタイミングを見計らって、私は膝で彼の肩甲骨のあたりを押さえ、後頭部に拳の雨を降らせた。拳だけではなく肘鉄も交え、能う限りの力で駄目を押した。ゴッゴッという鈍い音が幾度となく辺りに響いた。

 数え切れぬほどの打撃を経たのち、いつしかサンチャゴはうつ伏せのまま深いいびきをかきながら昏倒していた。私はそれを確認してようやく彼の身体を離し、立ち上がった。

 私は肩で息をしながら、サンチャゴを見下ろす。起きてくる気配はまるでなかった。

 私の勝ちだ。それはどうしようもなく確実な実感だった。あたりを見渡すが、観客たちはみな信じられないものを観るような目で呆然としていた。

 私の荒い息と悪い冗談のようなサンチャゴのいびきだけが響く中、やがて、誰からともなく雄叫びが上がった。雄叫びだけでなく、それはあるいは、聞くに堪えない罵声でもあった。

 叫びながら、彼らは殺到した。向かう先は言うまでもなく、私だ。もみくちゃにしながら殴り倒し、地に伏し頭を抱えて蹲る私の身体を、所かまわず蹴った。唾を飛ばさんばかりに興奮する彼らの中に、ヘススの顔もあった。どうあれ、私には何の抵抗もしようがなかった。ただ頭だけを必死に庇いながら、私はただダニエラのことを考えていた。

 ダニエラ。ああ、わが愛しの姪。どうか許してくれ。

 血迷った彼らのうちの何人かは、隠し持っていたナイフで切りつけた。それは大小いくつもの傷を作ったが、そのうちのひとつは肝臓まで達していた。

 恐らく州立刑務所設立以来の騒ぎとなった中庭だが、これを放置することはむしろ保身にならぬと判断したのであろうゴメス看守長が怒鳴りながら駆けつけ、虚空に向けて銃を何発か撃った。

 途端に、みな蜘蛛の子を散らすように逃げだした。あっという間だった。昏倒したサンチャゴの身体を、彼のタラチェロたちが両脇から抱えながら運んで行った。

後には、身体のあちこちを腫らし大量の血を流して無様に横たわる私の身体が残されるばかりだった。

 まだ辛うじて息はあった。ゴメスはでっぷりと出た腹を突き出しながら大儀そうに屈みこみ、弱弱しいうめき声を漏らす私の顔をまじまじと見つめ、息があるのを確認してからもういちど腰の拳銃を抜き、顎のあたりを1発撃ちぬいた。至近距離から乾いた音で発射されたそれは、私の脳幹をぐちゃぐちゃに破壊したのち、後頭部に派手な穴を開けて中庭の地面に食い込んだ。赤い花が中庭の乾いた土に飛び散りながら、見る間に染み込んでいった。

 よく晴れたクリスマスの午後、このようにして私は死んだ。

 ゴメスは私の死体を見下ろし、呆れたように吐き捨てた。

「馬鹿なやつだ」

 その点については、私も同意見だ。

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メキシコ・グアナファト州立刑務所にて、愚行の記録 南沼 @Numa_ebi

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