幼形のマヌー
中嶋雷太
幼形のマヌー
生物の授業は耐え難かった。
山本蓮二という教師の声が、田中陽太を苛立たせた。
中堅の公立高校の成績は真ん中あたりの、すべてが中ぐらいの陽太は、何事にも興味を抱くことなく、家と学校を毎日往復する高校生だった。学祭だ、コーラス大会だと、青春ごっこを楽しむ同級生を見ていると、どこからあの笑顔が出てくるのか、いつも不思議だった。担任の浜田育子も連中と関わるのを楽しんでいた。「そうよ!それこそ青春よ!」的な心の声が滲み出ると、陽太は「いい加減にしろよ!」と唾を吐きそうになった。
そして、山本蓮二だった。
骸骨のように痩せぎすの山本蓮二は、歳は四十歳だというが、昭和の時代から抜け出たような服装で、大きな瞳が濁っていた。そして、だ。だらだらと喋る。歯並びが悪いせいか、語尾が濁る。授業も教科書を読むだけで、黒板の字も汚かった。
その日の授業も悲惨だった。
前夜読んだ五ページの内容を、そのまま説明するだけだ。
「リモートで良いんじゃないか?」と、陽太は授業を馬鹿にしながら、黒板をぼんやり眺めていた。
「そこでですが。進化論の話にもう一度戻りますが…」
語尾に「が」が出てくると、陽太の聴覚はほぼ完全に閉じてしまう。何故なら、「が」が多いのだ。「が」が連発し始めると、陽太はそれ以上聴くに耐えなくなる。
「で…。ダーウィンは『進化』という言葉を実は使ってはいないんですよね、が…」
「うん?」
陽太の閉じかけた聴覚の扉が途中で止まった。
「で…。もう一度言いますが、ダーウィンは『進化』という言葉を使っていません。なので、ダーウィンは自分から進化論とは言ってはいないわけです、が…」
〈ダーウィンは進化論とは言っていない?〉
〈そうです。田中君〉
〈え?〉
〈そうなんですよ、田中君〉
陽太は驚いた。
というか、その声を幻聴だと信じた。
教壇に立つ山本蓮二は、〈で…。ダーウィンは『進化』という言葉を実は使ってはいないんですよね、が…〉と話し終えたあと、教室を傍観していた。山本蓮二は話を止めた。口を動かしてはいない。けれど、だ。今、陽太は山本蓮二の声を聞いた。
〈田中君。だから進化論とは言ってはいない。ダーウィンは〉
〈え?〉
〈生物は多様な変異を起こし、たまたまその時に最適だった変異だけが残っていったわけだ〉
そこで授業を終える鐘がなり、山本蓮二はぺこりと頭を下げると、教室をダラダラと出て行った。
その日の帰り道。
自転車を漕ぐ陽太は土手道を走っていた。自宅へは遠回りだったが、マヌーが待っている橋の下を目指していた。
マヌーに出会ったのは、先週の金曜日の夕方だった。
その日は夕陽が綺麗だったから、陽太は遠回りをし、土手道を自転車で走っていた。梅雨の終わり、夏の始まりの夕陽は金色に輝きながら、西の山波を照らしていた。やがて、小さな橋のたもとにやって来たときだった。橋の下に真っ白な動物の影が見えた。
〈なんだろ?子犬だろうか?〉と、陽太は自転車を土手に止め橋の下へ降りて行くと、その真っ白に見えた動物が蠢いていた。目をよく凝らすと、二足歩行の不思議な動物が歩いては転げ転げては立ち上がり、懸命に歩いていた。
〈え?なんだ、こいつ?〉
その動物に敵愾心など感じなかったせいか、陽太はその不思議な動物に近づき、様子をうかがった。
〈なんだ?〉
橋の下の暗がりでようやく息をついたその動物は、陽太の気配を感じとったのか、突然振り返った。
〈お!〉
目線が合った陽太は驚いた。
そして、陽太が驚いたのに、その動物も驚いた。
「お前、なんだ?」
通じるわけがないのに、その動物に陽太が問いかけると、
「マヌーだ」と、その動物は大人びた声を出した。
かなり低音で、嗄れた声だった。
「マヌー?」
「ああ。俺はマヌーだ」
「そうか、マヌー…」
「それが、どうした?」
上から目線の言葉に、陽太は少しだけ腹をたてた。
身長は五十センチほど。
ゼリー状の膜が全身を覆い、ぬるりとした肌をしていた。
大きく可愛い瞳だったから、黙ってさえいれば〈可愛い!〉とお馬鹿な連中はキャーキャー喜ぶだろうが、根性はどうやらやさぐれた大人のようだった。
「で、それが、どうした?」
「あのさ。偉そうな口を聞くよな」
「そうか?というか、見た目で見くびっていないか、お前!」
「お前!って。俺のことか?」
「ああ。お前しかいないだろ、ここに…」
「そうだが…」
「だろうが。馬鹿!」
「馬鹿?」
「そうだ。お前は馬鹿だ」
「なんだよ!」
「だからさ、俺をまじまじと見つめて、お前は気持ち悪いな!」
「気持ち悪いって、お前の方が気持ち悪いじゃないか」
「なんだと、放っておけよ。これは俺らの姿だから。それより、お前はなんだ?」
「あのさ。こちらが訊きたいよ。お前はいったい何だ?」
「だから、マヌー」
「分かった。マヌーという名前なのは分かった。ここで何をしているんだ?」
「ここでか…」
「ああ。突然、出てきたから驚いたじゃないか」
「そうか?」
「ああ。驚くだろ。見たこともない変な動物が、こんなところにいるから」
「こんなところ…」
「そう。こんな橋桁の下で、歩くのもままならず…」
すると、マヌーの表情が固まった。
足腰の弱さを指摘され憤慨したようだった。
変にプライドの高い奴だった。
「お前、名前は?」
「俺か?俺は田中陽太」
「たなかようた、か」
「そうか…」
その時だった。
夕陽が急に陰り宵闇が橋の下に突然降りてきた。
これ以上この動物に関わっているとこちらの精神がおかしくなりそうだと我に返った陽太は、「あ。俺帰るから。また来るから…」と切り出し、変な夢を振り切るように早足で土手に上がり家に向かって自転車を漕いだ。
土曜日と日曜日、陽太はマヌーと名乗る気持ち悪い動物のことを思い出しては、何かの夢だったに違いないとそのやりとりを記憶から消そうと試みた。
そして、月曜日。
学校帰りに、あの橋の下にやって来た。
夕方の橋桁には人の姿はなく、蚊柱だけが雲のように立っていた。土手に自転車を停めた陽太は、恐る恐る橋の下へと降りた。
梅雨の湿気がまだ残る橋の下は、雑草の青臭い匂いに満ち、陽太は鼻をムズムズさせながら、マヌーがいた土手のブロックに近づいた。
「おい!」
橋の上から声がした。
見上げると、橋の裏にマヌーがぶら下がっていた。
「お前、何をしているんだ?」
「俺か?」
「ああ。お前、そこで何をしているんだ?」
「特に、何も。暇つぶしだ」
マヌーは、ぴょんと宙返りすると、陽太の足元に音も立てずに着地した。
「ま、座ろうか」
「ああ」
大人びたマヌーは、土手のブロックを指差すと、転んでは立ち上がりしながら、歩いて行った。足腰の弱い動物だった。
マヌーの話は、陽太の底浅い常識を超えていた。
どうやら、マヌーは時間を飛び越え突然この時代に現れたようだった。それが過去なのか未来なのかは分からなかったが、時間の歪みに突然捉えられたようだった。
「で、目的とかはないわけだ」
「そうさ。突然さ」
「突然、その時間の歪みに捉えられた、と」
「そうだな。お前らの安っぽい信号では、そういうしかないな」
「ちょっと待って。まずさ、過去か未来かは知らないけれど、マヌー、お前さ、なんで日本語が話せるわけ?」
「あ、これ、日本語というのか…安っぽい信号だな」
「ま、安っぽいとかどうかは横に置いて、何故使えるんだ?」
「何故だろうな。お前の軽い頭の中の振動が分かるからだろう」
「俺の頭の中の振動?」
「そうだ。その振動パターンはすぐに分かる。ここ数日、橋の上を歩く奴らの振動を聞いていたが、ま、お前らは下等動物だな」
「下等だと?」
「ああ。くだらないことばかり考えている」
マヌーの〈くだらないことばかり〉という言葉が陽太の心をぐさりと突き刺した。
「ま、そうかもしれないが…」
「本当のところ、お前、どこからやって来たんだ?」
「はは。時間の歪みとか言ったが、嘘だ」
「嘘?」
「ああ。この川の上流。一カ月ほど前に、大きな地震があっただろ?あのときさ。上流の断層に亀裂が走ってさ、静かに眠っていたのに起こされて、気づけばここまで流されてきたわけさ」
「そうか…」
「ま、端折っているが。なんだ?疑っているのか?」
「いや。しかしだ。お前、すごく客観的に自分を捉えているよな。まるで地震の前から今までをずっと見ていたみたいに…」
「ああ。お前より先に俺と話をした奴がいたからな」
「俺以外にもか?」
「ああ。山本蓮二って、奴だ」
あの生物教師の名前が、マヌーの口から突然飛び出した。
「山本蓮二を知っているのか?」
「ああ。あいつ、断層の亀裂の跡を調べていたんだ」
一カ月ほど前の大きな地震で川の上流の断層に亀裂が走った。
生物学を教える山本蓮二だが、地質学にも興味を持っており、断層のあたりを調査していたという。その断層の底にいたのがマヌーだった。ゼリー状の皮膜に覆われ手足を胎児のように丸めていたマヌーは一千万年ほど眠りについていた。
その数センチほどのゼリーの塊を山本蓮二が偶然見つけたという。手のひらにのせ、顔を近づけ観察を始めた時、さっと雨が降り出した。通り雨だった。すると、水滴を受けたゼリーの塊が急に蠢き始めたから山本蓮二は驚いて足元に落とした。しばらく、足元のゼリーの塊を観察していると、ゼリーの塊の中で手足が伸び、数十センチの赤ん坊のような姿に変態を遂げた。
「で、その後は?」
「ああ。山本蓮二が家に連れて行ってくれたんだ。きっと、面白いと思ったんだろうな、俺のことを」
そして、マヌーは、山本蓮二の家に一週間ほど居候することになった。テレビを観たり、インターネットで知らぬことばかりの情報を検索したりして遊んでいたという。山本蓮二が帰宅すると、質問責めに合い、マヌーはくたびれた。
「それで、家を飛び出してこの橋の下にやって来たんだ」
「マヌー。あのさ。山本蓮二のことなんだけれど、テレパシーってか、なんか会話ができるみたいなんだが…」
「それは、そうだろうな。俺がお前らの頭の中の脳みその振動で話すことを、あいつは知らないままに覚えたからな。お前だってそうだ。こうやって振動で会話しているじゃないか」
〈確かに!〉
気づけば、陽太は口を動かしてはいなかった。
言葉を一つも話してはいない。ただただマヌーと目を見つめ合っているだけだった。
「分かった?」
「ああ。なんとなく。ということはさ、俺と山本蓮二もそのテレパシーみたいな会話ができるわけだ」
「そうなんだろうな…。俺がこの世にいる限りは、俺もお前も、そして山本蓮二も、お前がいうテレパシーというのが使えるようだ。その理由は分からんが」
マヌーは、〈そんな基礎的なことを今さら〉とでも言うように、馬鹿にした目線を陽太に送った。
「マヌー。で、お前だ。一体、何なんだ?」
「俺か…。山本蓮二の説明だとさ…」
マヌーは、一千万年ほど前の突然変異で生まれた哺乳類の一つではないかという。あらゆる生物は無数の変異を起こして、その時々の環境に合った生物だけが生き残る。それ以外は死滅する。五百万年前に人類が誕生するまで、人類候補のような哺乳類が何億通りも変異し、現れては消えた。
「へぇ。そんなもんなんだ。で、マヌー。お前が人類になっていたかもしれないと言うのか?」
「どうやら、そうらしい」
「でも、こうして一千万年もの時間をかけて、まだ生きているわけだ」
「そうだなぁ。でも山本蓮二は言っていたぜ。人類なんかたったの五百万年しかまだ生きていないって。恐竜なんか一億六千万年ほど生きていたらしいが」
「え?そうなんだ」
「ああ。俺も調べたさ。インターネットというやつで。山本蓮二が家にいないときに。つまりだ。人類は恐竜のまだ三十分の一しかこの惑星に生息していないわけだ」
「ま、そう言われれば、な」
「さらに、だ。恐竜は偉かった。パンゲア超大陸って知っているか?」
「ああ。なんか聞いたことは、ある」
「そうか。二億五千万年前に、全部の大陸がくっついて一つの大陸になったんだ」
「そうだったかな」
「ああ。で二億年前にまたまた分裂し始めて、いまみたいな大陸になっているんだが、恐竜は偉いぞ。その超大陸で発生して、大陸が分裂していくのに、それでも生きていたんだからな」
「そうなんだ」
「ああ。これも山本蓮二が教えてくれたんだが」
橋の下で、マヌーが教師、陽太が生徒になっていた。
マヌーは、陽太の次の質問を待ったが、陽太の頭は停止していた。一度に、あれこれ詰め込まれた脳みそがパンクしそうだったからだ。
しばらくし、草むらのバッタが飛び跳ねた時、二人の間の詰まった空気が解けた。
「で、マヌー、どうするんだ?」
「…どうするって…」
「うん。このままここに居るわけにもいかないだろう」
「ああ。そうだな。お前ら人類に負けた。人類になり損ねた変異動物だからな…。俺らは。陽太。ま、俺のことは忘れてくれ…」
「そうか…。分かった…」
「陽太。だから、サヨナラしよう。あっさりと…」
「うん。サヨナラ、だね」
「ああ。陽太。元気でな。サヨナラだ…」
翌日の夕暮れ、陽太は橋の下にやって来たが、マヌーの姿はなかった。
そして、月日が経った。
陽太はなんとなく教育大学に入学し卒業し、なんとなく生物学の教師になった。配属されたのは偶然だろうか母校だった。配属が決まり、母校を訪ねると、移動となる山本蓮二が机の整理をしていた。
「先生」
「あ。陽太。田中陽太君だね」
山本蓮二は、珍しく笑みを見せた。
「四月から、ここの生物学を担当します」
「ああ。聞いている。ま、頑張れよ」
「はい。あの…」
「なんだい?」
「あの…」
〈マヌーのことか?〉
〈はい。マヌーは何処に行ったのでしょうかね〉
〈そうだな。土に還ったか、海に戻ったか…〉
〈海に戻ったか…?〉
〈それとも、生きている…か〉
山本蓮二が差し出した右手を陽太はギュッと握り返した。
〈じゃあ。良い生物学の先生になれよ!〉
〈はい!〉
了
幼形のマヌー 中嶋雷太 @RayBunStory1959
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