Episode4 銀色

 何日間、兄さんと一緒に過ごしただろうか。

 わからなかった。それは永遠のようでも、すごく短い時間のようでもあった。


 窓はもう、数え切れないほどの手形で、いっぱいになっていた。ほの白い手の跡の向こうに、ぼんやりと青い空が見えていた。兄さんとわたしはベッドの上で横並びになりながら、美しい色彩を見つめていた。


「ねエ、悠ちゃン」


 兄さんに呼ばれて、わたしは柔らかく笑って彼の方を見た。そこにいる兄さんは、もう生前の兄さんなど面影もないほどに、ぐちゃぐちゃの身体をしていた。


「どうしたの?」

「僕、悠ちゃンに触れたいンだ……」

「そうなの? わたしも、兄さんに、触れたいよ」

「本当ニ?」

「うん、本当だよ」


「本当ニ? 本当ニ? 本当ニ? 本当ニ? 本当ニ? 本当ニ? 本当ニ? 本当ニ?」

「本当だよー」

「よかっタあ……」


 兄さんはどろっとした笑顔を零した。わたしは安堵した。よかった。兄さんも、わたしに触れたいと思ってくれていたんだね。わたしだけじゃなかったんだ。ああ、よかったあ……


「どうしたら、兄さんにまた触れることができるのかな?」

「一つ、方法があるんだヨう……」

「なあに? 教えて、兄さん!」


 兄さんはわたしに、顔みたいなものを近付けて、昏く微笑んだ。


「悠ちゃンも、こっちに来ればいいんだヨう……」

「こっち、って……」


 微かに目を見開いたわたしを、兄さんは数多の触手で、抱きしめるように囲う。



「――一緒ニ、幽霊になロう?」



 その言葉に、わたしは少しだけ逡巡してから、

 そっと微笑んで、頷いた。




 外に出るのは、随分と久しぶりな感じがした。秋の空気が頬を撫でて、冷たかった。わたしはマンションの階段を、ゆっくり、ゆっくりと昇っていた。兄さんはわたしの後ろを、身体をずるようにしながら、ついてきてくれた。


「ねえ、兄さん」

「どうしたノお、悠ちゃン……?」

「わたし、兄さんのことが好き」

「僕も、悠ちゃンのことが好きだヨお……」


 そんな返答に、わたしはどうしようもなく、幸せだと思った。照れ隠しをするみたいに、わたしは言葉を並べる。


「『好き』っていうと、恋愛感情みたいになっちゃって、変だよね。違うの。兄さんのことが大切なの。たった一人だけの兄妹の、兄さんが、どうしようもなく大事なの。そういう、好きなの。わたし、兄さんのことが、好き……」


 話しているうちに、屋上の扉が見えてきた。わたしはその扉を、ゆっくりと開いた。


 視界に広がる街並みが美しかった。屋上に来たのは、いつが最後だっただろうか。ああ、そうだ、幼いとき、家族で来たな。わたしは兄さんの小さな手を繋ぎながら、広がる星空を眺めて、どうしてかすごく、切なくなったな。本当に、懐かしい……


 わたしは金属製の柵を乗り越えて、屋上のへりに立った。さらさらとした風が、わたしの着ている洋服を揺らした。


 兄さんはへりの向こうの空中に浮かびながら、笑っていた。数多の手をわたしに伸ばして、さあ、こっちにおいでと、そうささやいているようだった。それが堪らなく愛おしくて、わたしは勇気を出して一歩を、踏み出そうとした。



 ――とん、とん



 わたしは息を呑んだ。ばっと後ろを振り返ると、そこには誰もいなかった。でもわたしにはわかった。何度も、何度も肩を叩かれてきたから、わかるんだ。


 ……兄さんだ。


 間違いようがない。


 ……兄さん、だ。


 わたしは我に返ったように、目の前を見つめた。そこにいるグロテスクな形をした何かは、さっきまで兄さんだと思い込んでいた何かは、わたしの方を舐めるように見つめていた。違う、と直感的にわかった。わたしが今まで話していたのは、兄さんじゃない、何かだ……


 わたしは踵を返して走り出した。殺される、そう思った。兄さんじゃない。だって兄さんが、わたしを死なせようとする訳がないじゃないか。わたしの腕を切らせようとする訳がないじゃないか。あれだけ優しかった兄さんが、そんなことを、わたしにさせる訳ないじゃないか……


 柵を再び乗り越えようとして、わたしの両足は何かに掴まれた。わたしは体勢を崩して転んでしまう。身体が地面に打ち付けられて、鈍い痛みが走った。顔だけ振り返ると、そこにはあの幽霊がいた。わたしは怯えながら、叫ぶ。


「いやっ、やめて!」

「やめないヨお……ひどいヨお、悠ちゃン……死んで僕と一緒になってくれるんじゃなかったノお……?」


「いやだ! いやなの! あなた……兄さんじゃ、ないでしょう!」

「ふふふふふ、ようやく気付いたンだあ……遅いネえ、遅いネえ……」


「やめて! わたし、死にたくない……死にたくないよ!」

「うるさイなあ、うるさイなあ、うるさイなあ、うるさイなあ、うるさイなあ……」


 身体が段々と、屋上のへりの方へ戻されていく。手足をばたつかせて抵抗するも、うまくいかない。殺される……その恐怖で、胸がいっぱいになる。


「誰か……誰か、助けてっ!」


 わたしはそうやって叫んだ。段々と、意識が霞んでいく。死にたくない……そう思いながら、目蓋が少しずつ、閉じられていった。



 ――大丈夫だよ、悠ちゃん。



 意識を手放す前に、そんな懐かしい声を聞いたような気が、した。




 ……ゆっくりと、目を覚ました。


 上体を起こして、辺りを見回した。屋上だった。わたしはへりの側にいた。身体は所々が擦り傷になっていて、痛々しかった。


 あの幽霊は、もうどこにもいなかった。存在すらしていなかったかのように、平穏な景色が広がっていた。わたしはぼんやりと、呼吸を繰り返していた。


 ふと、輝きが目に留まる。

 何だろうと思って、手を伸ばして拾い上げる。



 ――それは、二つの銀色のピンだった。



 わたしは呆然と、そのピンを見つめていた。

 理解した。


 そうか……兄さんが、助けてくれたのか。


 自分の心が、誰かの手にぎゅっと掴まれたような心地が、した。


 思えば、部屋の扉と壁が叩かれていたのも、窓に幾つもの手形が付いていたのも、兄さんがやったのかもしれなかった。わたしがあの幽霊に騙されないように、警告してくれていたのだろう。そのことに気付くのに、こんなにも長い時間が掛かってしまった。


 ありがとう、とわたしは呟いた。


「うう、」


 そのあとで、口から嗚咽が漏れた。


 二つのピンを見ていると、かつて生きていた兄さんのことが、共に過ごした記憶が、一気に押し寄せてきて、止まらなくて、どうしようもなく悲しかった。


「うわああ……うわああああああああ、あああああああああああああ!」


 わたしは大声を上げて、泣いた。目から、とめどなく涙が零れていく。わたしは二つのピンを抱きしめるように持って、ただひたすらに、兄さんのことを思った。


 大好きだった兄さん。死んでしまってからも、わたしのことを助けてくれたんだね。ありがとう。ありがとう、兄さん。できることなら、兄さんが生きていた頃に戻りたいよ。それで少しでいいから、話したいよ。叶わないんだろうなあ、わがままでごめん、大好きな、兄さん……


 滲んだ視界で空を見て、わたしは涙を流しながら、微笑んだ。




 わたしは高校の制服を着て、鏡の前に立っている。


 焦げ茶色をした前髪の一部分を、二つの銀色のピンで留める。少し位置を調整したあとで、小さく頷いた。

 洗面所を出て、リビングに戻る。


 そこには兄さんの写真がある。楽しそうな笑顔を浮かべている兄さん。わたしはその写真を眺めてから、そっと笑いかけた。



「行ってきます、兄さん」



 その言葉を置いていくようにして、わたしはリビングを後にして、玄関へと向かった。


 ピンを留めている感覚にはまだ少しだけ違和感があって、でもそれが何だか、心地よかった。

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茶の上で煌めく銀 汐海有真(白木犀) @tea_olive

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