Episode3 流血
兄さんの形は、少しずつ崩れていった。
腕と脚が、段々と増えていった。口がゆっくりと、裂けていった。身体が段々と、大きくなっていった。触手のようなものが、生え始めた。
兄さんは少し悲しそうに、佇んでいた。
「僕はどんどん、幽霊に近付いていってるのかもしれないね」
「……? 元から、幽霊じゃなかったの?」
「成り立ての頃は人間に似た形なんだけど、幽霊でいる時間が長くなるにつれて、不気味な姿になっていくんだよ」
「そうなんだね」
「悠ちゃんは、こんな僕は、嫌?」
裂けてしまって三日月のような形になった口を歪めながら、兄さんはそう尋ねた。わたしはそれを否定するように、すぐに首を横に振った。
「そんなことない! どんな形になっても、兄さんは間違いなく兄さんだよ」
わたしの言葉に、兄さんは嬉しそうに笑った。こん、こん、こん、こん、こん、こん、と壁から、扉から、音が響いていた。それを無視しながら、わたしは兄さんに身体を預けるかのように、少しだけ傾いた。触れないけれど、それだけで満足だった。
「悠ちゃんは、優しいね」
「えへへ、そうかな……?」
「うん、間違いないよ。僕、悠ちゃんのことが大好き」
「わたしも、兄さんのこと、大好きだよ」
こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん、こん……
ああ、幸せだ。
兄さんの心は、少しずつ崩れていった。
「ねエ、悠ちゃン……」
兄さんに声を掛けられて、わたしは「なあに?」と言って微笑んだ。彼の身体は色々なところにできた突起でぼこぼこになって、声は歪な響きに変貌していた。それでも、兄さんは兄さんだ。少し変わってしまったって、兄さんは兄さんだ。
「僕、血が見たいンだ……」
「ち……?」
「そう、僕、悠ちゃンの血液が、見たいンだ……真っ赤な真っ赤な悠ちゃンの血を、見たいンだ……お願いダよ、悠ちゃン……僕に血を見セて……?」
兄さんのぎょろりとした目が、わたしのことを覗き込んでいた。黒かったはずの虹彩は、もはやその面影もなく、暗い赤色に染まっていた。瞳が切望を滲ませていたから、わたしは少し迷ったあとで、頷いた。
「いいよ、兄さん」
「本当……? やっタあ、嬉しいナあ……悠ちゃンの血が、見れるなンて、すっごく嬉しいナあ……ありがトう、ありがトう、悠ちゃン……」
兄さんはそう言って、どろっとした笑顔になる。わたしは立ち上がって、勉強机の引き出しに仕舞ってあったカッターナイフを取り出した。少しずつ、刃を出した。かち、かち、という音がした。銀色の刃が、部屋の白い灯りを反射して、冷たく輝いていた。
そっと、手首に添えた。カッターナイフを動かそうとしたところで、怖くなってしまう。こんなこと、したことがない。やっぱり、痛いだろうか。心臓がどくん、どくんと、脈打っている。
「悠ちゃあン……早く、早くしてヨう……僕、血が見たいんだヨう……」
「待って、わたし、怖いの……」
「大丈夫、怖くなんてないヨう……大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
大丈夫という兄さんの言葉と、鳴り止まない部屋の軋みが、溶け合って、混ざり合って、わたしの恐怖も段々と、薄れていった。
カッターナイフを、滑らせた。
一本の線が浮かんで、そこからとろとろと、赤色の血が溢れ出した。兄さんは大声で笑い始めた。幸せそうに、楽しそうに、笑っている。そんな声を聞いていると、わたしも段々と、笑いを抑えられなくなってしまう。
「あはははははははは、僕もっト、悠ちゃンの血が見たいナあ!」
「あはははははははは、うん、いいよ!」
わたしは何度も、手首を、そして腕を優しく刻んだ。その度に、兄さんは嬉しそうに、もはや人間の形ではなくなってしまった身体を揺すった。
「ねえねえ、どうして兄さんは、わたしの血が見たいの?」
「美しいからダよ……」
「血? 血が、美しいの?」
「そうダよ……悠ちゃンが少しずつ、死に近付いている感じガして、すごク、すごク、美しいんダあ……」
「ふふ、そうなんだね……」
わたしは、ほのかに笑った。部屋は今も、軋み続けている。兄さんとわたしの邪魔をするかのように。邪魔なんかさせない。わたしは兄さんとずっと一緒にいるんだ。そう決めたんだ。誰にも邪魔なんか、させない……
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