Episode2 再会

 自分の部屋に閉じこもるようになって、一週間ほどが過ぎた。


 お腹が空いた気がするときだけ、キッチンの方へ赴いて、適当なものを胃に流し込んだ。食欲は殆どなくなっていた。あれだけ好きだったアイスは、今見ると兄さんがいないことを思い出してしまって、むしろ吐き気がした。


 兄さんが死んでから、高校に行っていない。お父さんとお母さんからは、余り咎められなかった。二人が今までのように仕事に勤しんでいることが、わたしにとっては少し不気味だった。大切な息子が死んだのに、普通に働くことができている。もしかしたら、そうやって何かに打ち込んでいないと、彼らの心はばらばらに壊れてしまうのかもしれなかった。


 ベッドの上で布団にくるまりながら、ぼんやりと壁を見つめていた。眠って全てを忘れてしまいたかったけれど、寝ることさえうまくできなかった。苦しかった。


 兄さんの姿が、思い出された。楽しそうに笑う彼の姿。黒い髪と、その上で淡く輝く銀色のヘアピン。


 ……そういえば、彼が愛用していた二つのヘアピンは、見つかっていない。事故に遭ったときに外れて、道のどこかに転がってしまったのかもしれなかった。今も秋風に吹かれながら、寂しく煌めいているのだろうか。


 そんなことを考えているうちに、わたしの口はゆっくりと、開かれていた。


「……兄さん」


 幾度となく唱えているその言葉を、わたしはまた、ささやいた。


「兄さん、兄さん、……兄さん」


 視界がまた、滲んできた。涙はいつになったら涸れるのだろう。わからなかったけれど、もし涸れてしまったとしたら、薄情なように感じられた。いつまでも、兄さんを思って泣いていたかった。



「悠ちゃん」



 声が、した。


 わたしは目を見張った。驚きの余り、口から変な声が漏れた。背中の方から、その声はした。嘘だ……そう思いながら、わたしは恐る恐る振り返った。


 そこには、兄さんが立っている。


 ショートカットの黒い髪、切れ長の黒い瞳。前髪を留めている二つの銀色のピン。背が高めで痩せていて、面持ちはとても優しそうで――それは紛れもなく、兄さんだった。


 わたしはごしごしと、目の辺りを擦った。でも兄さんの姿は消えなかった。何度も、何度も、擦った。消えない、から、ようやくこれが現実なのだと、受け入れた。


「……兄さん、なの?」


 わたしは尋ねた。兄さんは微笑みながら、頷いた。


「うん、そうだよ」

「そんな、だって、兄さんは……車に轢かれて、死んじゃった、はずで」


 震えてしまう声で、わたしは頑張って言葉を紡いだ。兄さんは少しだけ悲しそうに、笑った。


「そう。だから今の僕は、幽霊なんだ」

「……ゆうれい」

「うん。死んじゃったけど、どうしても、悠ちゃんに会いたかった。側にいたかった。……その願いが叶って、僕は悠ちゃんの元に来ることができたんだよ」


 わたしは少しの間静止してから、頷いた。嬉しくて、悲しかった。幽霊になってまで会いに来てくれたことの嬉しさ。死んでしまった事実は結局変わらないことの悲しさ。二つの相反する感情が溶け合って、ぐちゃぐちゃになって、そうしてわたしは最後に、幸せだと思った。


 わたしはベッドから抜け出して、床の上に立っている兄さんを抱きしめようとした。でも触ることができなくて、腕は空を切った。呆然としているわたしに、兄さんは可笑しそうに笑った。


「あははっ、僕は幽霊なんだよ、悠ちゃん。触れないよ?」

「……そっか、そうだよね。何してるんだろ、わたし」

「ほんとだよ、ああ、面白い」


 兄さんは笑っていた。だからわたしも、声を出して笑った。あははははははははははは! 部屋の中に、兄さんとわたしの笑い声が響いていた。


 ああ、よかったあ、と思った。そうだよ、兄さんがわたしを置いて、どこかへ行ってしまう訳ないじゃないか。だって兄さんは、わたしを愛しているから。大切な妹だと、思ってくれているから。どうしてこんな当たり前のことに、気付けなかったんだろう?


 また溢れてきた涙はきっと、嬉し涙だ。




 兄さんとわたしの、小さな部屋の中での共同生活が始まった。兄さんが言うには、彼の姿を見ることができるのはわたしだけで、お父さんやお母さんには見えないらしい。


 それに気を付けながら、わたしは兄さんと沢山お話しした。他愛もない雑談から、兄さんが死んでしまう前は言えなかったことまで。かっこいいと言われた兄さんはくすぐったそうで、ちょっとだけ可愛かった。


 そんな幸せなことと同時に、奇妙なことが起こるようになった。


 夜、うとうととしていたとき。こん、こん、と音がした。わたしは扉の方を見た。再び、こん、こん、という音がした。お父さんかお母さんかなと考えながら、「入っていいよー」と言った。


 でも、返事はなかった。不思議に思って扉を開くと、そこには誰もいなくて、冷えた廊下の空気だけがあった。恐ろしいほどに、静かだった。


 わたしは怖くなって、扉をばたんと閉めた。それから、兄さんの右手に手を伸ばした。触れなかったけれど、近くにいるだけで安心した。


 翌日の朝、目を覚ましたわたしは、カーテンを開ける。そうして、思わず叫んでしまった。透明な窓ガラスに、手形のような跡がくっきりと残っていたのだ。


 わたしはカーテンを閉めて、布団にくるまった。兄さんはそんなわたしに、心配そうに歩み寄った。


「悠ちゃん、落ち着いて。多分、僕に引き寄せられているんだと思う」

「兄さんに……?」

「そう。幽霊はね、他の幽霊に近付きたがるんだ。今僕がここにいるから、色々な幽霊が引き寄せられている。だから、そんなに怯えなくていいよ。悠ちゃんは僕が守るから!」


 兄さんはそう言って、にこっと笑った。そんな兄さんの笑顔に、わたしは本当に安心して、「うん」と言って頷いた。また、こん、こん、こん、こん、という音がしたけれど、気に留めなかった。兄さんと一緒にいられるのなら、多少の恐怖くらい乗り越えてみせる。


 そう決意しながら、わたしは兄さんに向けて微笑んだ。

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