茶の上で煌めく銀

汐海有真(白木犀)

Episode1 喪失

 ――大切な人はずっと側にいてくれるのだと、そう信じて疑わなかった自分がいた。




 わたしはソファに座りながら、ぼんやりとニュース番組を見ていた。窓から差し込む夕暮れが、リビングを切なげな橙色に染めていた。壁掛け時計に視線をやると、もうすぐ十七時になる頃だった。夏の頃はあんなに日が長かったのに、世界は段々と秋に移ろって、日が暮れる時間も少しずつ早まっていた。


 とんとん、と肩を叩かれる。わたしはそれだけで、後ろに誰が立っているかわかった。けれどわたしはいつものように、無垢な顔をして振り向いてみせた。突き出された人差し指によって、ふに、と自分の頬が微かにつぶれる。そこには予想通り、兄さんが立っていた。わたしはぷくっと頬を膨らませる。


「もう、兄さん! そのいたずら、いつになったら飽きるの?」

「あははっ、また引っかかった! 相変わらず学ばないね、悠ちゃんは」

「むう、バカにしやがってー」


 わたしはそっぽを向く。兄さんは「ごめんごめんっ」と言いながら、目を細めて笑う。少しだけ安堵する。きっと兄さんは気付いていないから。わたしが兄さんの人差し指に触れられるのが好きで、『学ばない』ふりをしていることに。


 兄さんは、左手に持っていたビニール袋を掲げてみせた。


「悠ちゃんの好きなアイス買ってきたからさ、機嫌直して」

「えっ、ほんと? チョコミントのやつ?」

「そうそう、歯磨き粉のやつ」


「だーかーらー、チョコミントは歯磨き粉じゃありません! 一緒にしないでくれますかー」

「だって、似てるじゃん」

「兄さんは今、全てのチョコミン党を敵に回したよ?」


 わたしはにやっと笑ってみせる。兄さんは「怖い、怖い」と笑いながら、わたしの隣に腰掛けて、持っていたビニール袋から二つのカップアイスを取り出した。わたしは兄さんから、チョコミント味の方を受け取る。兄さんはいつものように、バニラ味。


「ありがとー、兄さん」

「どういたしまして。今度何か奢ってくれてもいいんだよ?」

「そうしたら、わたしのスマイルを奢ってあげる」

「それお金かからないやつじゃんっ」


 兄さんのツッコミに、わたしは思わず笑ってしまう。兄さんもつられたように笑う。二人きりのリビングに、笑い声が響いている。


 ふと、兄さんの横顔を見た。黒い髪の上で、シンプルな銀色のヘアピンが二つ、きらきらと輝いていた。兄さんは前髪が長いから、いつもそうやって髪を留めているのだった。


「あ、そうだ悠ちゃん、これスプーン」

「わあ、助かるー」


 わたしは兄さんから、プラスチックスプーンを受け取る。カップアイスの蓋を開けて、スプーンですくって、ぱくっと頬張った。清涼な味わいが、口いっぱいに広がる。


「おいしー」

「それはよかったです」


 兄さんは顔を綻ばせた。その表情がかっこよかったから、わたしは尋ねてみる。


「そういえば兄さん、カノジョとかできた?」

「え、何だよ急に」

「ふと気になったんですー。それで、どうなの?」

「いやあ、いないね。できる気配さえない。僕、割とかっこいいと思うんだけどなあ」


「そういうこと自分で言っちゃうから、モテないんじゃない?」

「う、妹が核心を突いてきた。泣きそう」

「弱すぎでしょ」


 わたしは笑う。兄さんは少ししょんぼりしたように、小さく溜め息をついた。


 ――兄さんはかっこいいと思うよ。


 心の中でこっそり、褒めた。絶対に言葉にはしないけれど。そういうことを伝えるのって、何だか照れくさい。


 兄さんに恋人がいなくてよかったと思った。だってそういう存在ができたら、兄さんは今のように、わたしに構ってくれなくなるだろうから。中学生みたいないたずらをするのも、アイスを買ってきてくれるのも、隣に座って笑うのも、全部なくなってしまう気がするから。


 実の兄にこうした独占欲を抱いているのは、少し変なのかもしれない。わたしは高校一年生で、兄さんは高校三年生なのに、全然兄離れできていない。ちょっとだけ、切なくなる。


「……どうかした、悠ちゃん?」


 はっとして、隣を見る。兄さんが心配そうに、わたしの目を覗き込んでいた。わたしはそっと、微笑んだ。鈍感そうに見えて、変なところで聡いんだから。


「どうもしてないよー」

「そう? それならよかった。歯磨き粉おいしい?」

「もう、何度言ったらわかるの!」


 わたしは笑う。兄さんも笑う。


 この日常が好きだった。この日常が変わらないだろうことに、安堵していた。アイスをまた、食べた。冷たくて、甘くて、心地よかった。




 ――それが、兄さんが交通事故に遭って亡くなる、前日の話。




 大切な人はずっと側にいてくれるのだと、そう信じて疑わなかった自分がいた。


 今のわたしは、そんな自分を嘲笑っている。


 救いようのない阿呆だと、蔑んでいる。

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