【短編】未完成ベイビー【現代/シリアス】
桜野うさ
未完成ベイビー
もう二十分も電話がかかって来ない。
このまま終業時間になって欲しいけど、仕事をしていないと時間の流れって遅い。私は暇を持て余し、管理職にばれないようにセンター内を見回した。
あっ、鈴木さんがまた居眠りしている。管理職は見てみぬふりだ。私が居眠りしていたらすぐ怒られるのに。一番の古株オペレーターだから特別扱いなんだろうな。
佐藤さんは男性管理職と無駄話している。男性管理職は注意するどころか、若くて美人の佐藤さんにデレデレだ。私の私語には厳しいのに。
理不尽な職場!
私はこのコールセンターで、四年間、テレフォンオペレーターをしている。身分は契約社員だ。
「
背後から鋭い声が突き刺さった。ふり向くと、職場で一番怖い女性管理職が睨みつけていた。
「周りは気にせず、自分のやるべきことをしてください」
この人、高校の国語の先生と似ているから余計に苦手だ。
その先生は授業中に私が「内職」をしていると、目ざとく見つけては注意して来た。
小さい頃から絵本作家になりたかった私は、学生時代は勉強よりも絵本作りに夢中だった。絵やストーリーのアイデアが思い浮かべば、授業中でもお構いなしでネタ帳に描いていた。
絵本を新人賞に送ったことは一度もない。作品がすべて未完成で終わる「完成させられない病」のせいだ。
友達のツキミからは「下手でもいいから完成させて応募しなよ。何も進まないよ」と、口を酸っぱくして言われた。
結局、一作も完成させられないまま絵本作りは辞めてしまった。私より才能のある子がたくさんいると知ったからだ。
もう一人の友達、ミドリに言われた。「あんたがやりたいなら、他の人とか関係なくない?」
二人は正しい。すごく正しい。わかっているのに「正しい」をできない自分が嫌になる。でもこれが私だからしかたないよね。
耳に装着しているインカムから「ピピッ」と音が鳴った。電話がかかって来た。
「お電話ありがとうございます。エポックカードの風間でございます。本日はどのようなお問い合わせでしょうか」
何百回と吐いたセリフは、自動で口から流れた。お客さんからの問い合わせ内容は似たり寄ったりで、仕事はとっくに飽きている。だけど契約社員は管理職に昇進できないから、ここにいる限りはずっと同じ仕事だ。
転職は毎日考えているけど、慣れた職場を変えるのは面倒だ。別にやりたいことがあるわけでもないし。いつも「変わらなきゃ」と危機感を覚えている癖に、何も変えないまま現在に至る。
新卒から同じ会社で正社員として働いていたツキミは、先日昇進したらしい。部下ができて大変だと嘆いていたけど、こっちからすればキラキラした愚痴だ。私も新卒の時にもっと頑張っておけばよかった。就活から早く抜け出したくて最初に内定をくれた会社に就職したけど、二年で辞めちゃった。
何かスカッとすることないかな。
そうだ、今度の三連休はミドリにトレッキングに連れて行ってもらおう。ミドリはトレッキングにはまったらしく、山頂でチタン製のコーヒーカップを掲げている写真などをSNSにアップしていた。私はひたすら「いいね」を押していた。
ミドリの写真は
気がつけば
アパートに帰宅し、ご飯を食べ、シャワーを浴び、ベッドに寝転がる。いつも通り用もないのにスマホに手を伸ばした。
ミドリから新着メッセージが来ていた。返信がてらトレッキングに行きたいことを言おう。……という考えは、メッセージを読んで消え失せた。
〈結婚することにしたの! 運命のダーリンと出会っちゃった!〉
先月までは彼氏と続かないって愚痴っていたのに、いきなりすぎる。いや、親友が結婚するんだよ? 心から祝ってあげなよ私! 頭ではわかっているのに、素直に喜べない最低な自分がいた。
〈いきなりの展開にめっちゃびっくりしたけど、結婚おめでとう!! 式は絶対に行くから、招待状をちょうだいね!!!〉
後ろめたさを打ち消すように、テンション高めのメッセージと、スタンプを送った。
ツキミにもメッセージしたい。私たちは三人で仲がよかったから、結婚することはあの子にも言っているはず。
〈ミドリが結婚するって聞いてどう思った? 私は意外だったなぁ。ミドリはずっとフリータだったし、まだプラプラしてると思ってたもん。距離を感じちゃって寂しいかも~〉
メッセージボックスにそこまで書いて、全部消した。悪意が見え隠れする嫌な文章だ。それに、別の意味で身を固めているツキミには私の焦りなんてわかってもらえないだろう。
また友達と差がついた。ツキミのキラキラな愚痴を聞いている時も、ミドリの素敵な休日に「いいね」している時も、同じ気持ちになった。
ツキミにメッセージを送るのは辞めにして、つぶやきSNSのタイムラインをチェックした。毎日飼っている猫についてつぶやいている人。毎日好きな女優についてつぶやいている人。彼らは川みたいに流れて行く。変わらない人たちが作る濁流は、私を癒してくれた。
「これじゃダメ人間だ……」
簡単に楽しい気持ちになれるものが、空から降って来ればいいのに。
タイムラインに見たことがない業者の広告が表示された。アカウント名は「ユウゲン会社よき旅夢気分」つぶやきには「安心安全を保障する旅、無料体験実施中!」と書いてあり、サイトのURLが添付されていた。
旅行なんてずっと行っていない。無料体験に惹かれ、URLをクリックすると、無料体験の予約フォームだけしかない素っ気ないページが現れた。
フォームの上にはこう書いてあった。
〈本当の自分と出会う旅をしませんか?〉
絶賛自分迷子中の私に深く突き刺さる言葉だ。
楽しい気持ちになれるものは、自分から手を伸ばさないと手に入らない。名前、性別、住所など必要事項を入力して、えいや! と、予約の送信ボタンを押した。
〈ご予約有難うございます。担当者からの連絡をお待ちください〉
メールアドレスや電話番号は入力していないのに、どうやって連絡が来るんだろう。なんてことを考えていると、
【風間様、ご予約有難うございます。無料体験の招待にあずかりました】
別の世界から聞こえて来るような不思議な声が部屋に響き渡った。
辺りを見回すと、冷蔵庫の前に見覚えのない男が立っていた。
身長は二メートル近くありそうだ。やせているので細長い印象を受ける。高級そうな真っ黒なスーツとシルクハットを身につけていた。ネクタイは濃紺で、細かな白いドットが夜空の星みたいに散っていた。
驚きのあまりベッドから飛び起きた。不審者だ! そもそも人間じゃない! 面長ではすまないほど口が長いし、目が小さすぎる。アリクイにそっくりだ。
「だ、だだだだだ、誰?!」
【失礼。名刺を渡しておりませんでした。これでは怪しいものですね】
この怪しさは名刺一枚でどうにかできるレベルじゃない。そうつっこむ前に、男は名刺を差し出し、丁寧にお辞儀をした。
【ワタクシ、こういうものです】
名刺にはこう書かれていた。
「
無料体験を申込んだ旅行会社の人だ。それにしてもこの見た目で田中三郎って……。
【代表取締役なんて大そうな肩書きで驚きましたよね!】
そこには反応していない。
【従業員三名の会社ですので、代表取締役という名のなんでも屋でございます。添乗員も兼ねておりますよ】
「どうやってうちに入ったんですか」
【わいふぁいを経由致しました】
部屋の隅に設置している無線ルーターを見た。当然、大男が通れる穴なんか開いていない。
【普段は体を電子化して電脳空間に住んでおります故】
そんな雑な説明じゃよくわからない。
【さっそく旅行にゆきましょうか】
「待ってください! なにも準備していませんし、夜ですし!」
【夜だからこそ、でございます。それにお客様にご準備いただくものはございません。旅行先は夢の中ですので】
「本当の自分に出会う旅に連れて行ってくれるんですよね?」
ただでさえつぶらな目を細め、田中さんは「ええ」と、言った。
【ニンゲンの心はほとんどが無意識という、自分でも認識できない深海に眠っております。無意識と対話できる手段が『夢』でございます。ワタクシはお客様が出会いたいご自身と出会える夢をお見せすることができます。――こちらを使って】
田中さんは懐から、銀色に光る指揮棒を取り出した。
「どうしてそんな魔法みたいなことができるんですか?」
田中さんはいかにも答えづらそうに言った。
【……実はワタクシ、ニンゲンではありません】
知ってた。
「アリクイですか?」
【
なにそれ怖い。
【ちなみに、ワタクシの好物はすいーつです】
別に聞いていない。
【近ごろは食糧不足で困っております】
「夢が減っているってこと?」
【はい。ニンゲン達のやることが増え、睡眠時間が大いに減ったのです。満足な食事ができず、こんなにも痩せ細ってしまいました】
田中さんは両手で自分の腹をはさんだ。
【……冗談です。体型は千年前から変わっておりません】
獏の寿命って何歳なんだろう。
【食料不足は事実でございます。ニンゲンの睡眠時間を増やすため、会社を立ち上げ、えすえぬえすで宣伝しておりました。……無料と言っておいて恐縮ですが、見た夢を少しいただきたいのです】
「夢を食べられたらどうなるんです?」
【忘れるだけです。ニンゲンが見た夢をすべて覚えていないのは、ワタクシたちが食べているからなんですよ】
再び田中さんは目を細めた。彼なりの愛想笑いなのだろうか。
【夢の中へはワタクシもご一緒いたしますので、ご安心ください】
「獏って、人間の夢に入れるんですか」
【ワタクシは添乗員も兼ねている代表取締役ですので、特別です】
理屈はまったくわからないけど、田中さんが代表取締役の地位を気に入ってるのはよくわかった。
【ではそろそろ旅行にゆきましょうか】
こんなヘンテコな状況、現実のわけない。つぶやきSNSをチェックしている内に眠ってしまったんだろう。どうせ夢なら面白い方がいい。私は「わかりました」と、返事をした。
【ベッドに横になってください】
言われた通りにすると、田中さんが指揮棒を振り上げた。
【よき旅夢気分♪】
聞いたことのないクラシック音楽が鳴り始めた。田中さんの声と同じように、別の世界から聞こえて来る。
やがて脳の緊張がゆるみ、意識が眠りへ吸い込まれた。
気がつくと見覚えのない廃墟に立っていた。廃墟の中で一番目を引くのは、スイーツショップに置いてるような大きなアクリルケースだ。一つもお菓子が陳列されていないそれは、埃まみれになっている上、あちこちひび割れていた。
天井からは星型のランプがぶら下がっている。ランプは全部壊れているのに、何故か周りの様子がわかるくらいに明るかった。
【おや風間様、せっかく旅行に来たのに浮かない顔ですね】
「こんな不気味な場所に連れて来られたらそんな顔にもなりますよ」
もっと華やかな場所に行けると期待していたのに。まるでお化け屋敷じゃない。
【不気味なのはご了承ください。獏の力で見せられるのは悪夢だけです故】
「えっ?」
【獏が食べるのは悪夢だけでございますから】
そんな大事なことは先に言ってよ!
「……てことは、これから怖いめに遭うんですか?」
【可能性は非情に高いです。しかし、ご安心ください】
「田中さんが護ってくれ……」
【なにかあっても所詮は夢です故、危険はありません】
「で、でも、トラウマになったり……」
【悪夢はワタクシと社員が食べます故、すぐに忘れますよ】
そう言って田中さんは片目を瞑った。ちっとも可愛くないウィンクだ。忘れるとしても怖いめに遭いたくない。……ひどい旅行会社に頼んでしまった。
【散策でもして楽しみましょうか♪】
田中さんは廃墟の奥へと歩いて行った。私は慌てて追いかけた。
廃墟の奥ではいくつものテーブルセットが埃まみれになって倒れていた。元々はイートインスペースのあるスイーツショップだったのかな。調度品はどれもセンスがあるし、お洒落な店だったはず。
【お菓子屋さんのようですのに、すいーつがないのが残念です】
こんな場所にあるものを食べるつもり? 廃墟より悪夢より、田中さんが一番不気味かも……。
「ここで本当の自分になんて出会えるんでしょうか」
【ご自身と向き合う勇気があれば、出会えますよ】
自分と向き合う。私がこれまで一番避けて来たことかもしれない。
【旅を通して大切なことを思い出したお客様も多いです】
自分ですら「いいね」を押せそうにない私に、大切なものなんてあるのかな。
ほんにゃあァ、ほんにゃあァ。
突然、赤ん坊の泣き声が辺りに響いた。声はひとつ、またひとつと増え、次第にできの悪い輪唱を奏ではじめた。できの悪い輪唱は徐々に近づいて来た。
怖くなり、廃墟の出入口の扉に駆け寄った。ピンク色の扉は、朽ち果てていて、押しても引いても、力いっぱい蹴ってみてもびくともしなかった。閉じこめられた!
ほんにゃあァ、ほんにゃあァ。
今度はすぐ後ろで泣き声が響いた。ふり返ると、目や耳や足など体の一部が欠けた赤ん坊の群れがうごめいていた。
群れはハイハイでこちらに来る。私は言葉にならない悲鳴を上げながら、ひとりで一目散に走り出した。
走るたびに道ができた。この非現実さはさすが夢だ。夢の中にいるのにひどく息切れした。ついに体力の限界が来て、その場にへたり込んだ。壁に体を預けて息を整える。
「なんなのよ、あれ!」
【風間様が一番よく存じているかと】
田中さんがいつの間にか隣にいて、私はまた言葉にならない悲鳴を上げた。
【びっくりさせないでくださいませ】
それは私の台詞だ。
田中さんはまったく息が上がっていなかった。見た目だけではなく、体力も化け物じみている。
私が一番存じているはず? 廃墟も赤ん坊の群れも身に覚えがない。
【夢は見ているニンゲンの心を反映しています】
「私の、どんな心があの赤ん坊たちを作ってるんでしょうか」
【周りをよく見てください。ヒントが隠されていますよ】
辺りを見回した。薄汚れた壁に、掠れたペガサスの絵が描いているのが見えた。――このデザイン、知っているかも。
近くで赤ん坊の声が響いた。やばい、もう追って来た! 立ち上がり、声とは逆方向に逃げようとすると、そちら側から何かを引きずるような音がした。
【ア……アア……】
姿を現したのは二歳くらいの女の子だった。右目がえぐれ、左腕が欠損している。スカートからのぞく足は、ケロイドみたいになっていた。なんて痛々しい姿だろう。
女の子だとわかったのは、着ているのが――ひどく傷んではいるけど――フリルのたくさんついたピンク色のワンピースだったからだ。スカートのふちがキャンディーのイラストでぐるりと彩られていた。これも見覚えがある。
【アアアッ! アァマ!】
女の子は蛙がつぶれたような声で叫ぶと、片足を引きずりながらこちらにやって来た。逃げなきゃ。
【逃げてばかりでは、本当の自分には出会えませんよ?】
怖いんだからしかたないじゃない。私は女の子も赤ん坊もいないところに向かって走った。
逃げて、逃げて、逃げる。やはり走るたびに前に道ができた。逃げ続けたってどうにかなるじゃない。――そう思っていたら、行き止まりにぶち当たった。
赤ん坊の群れが近づいて来た。もう逃げられない。
ほんにゃあァ、ほんにゃあァ。
赤ん坊が、ひとり、またひとりと私の体をよじ登って来る。蹴ったり腕を振り回したりして抵抗したけど意味はなく、蟻に群がられる昆虫の死骸みたいに、体が赤ん坊で覆い尽くされて行った。
「やだやだ怖い! 取って、取ってよ!」
【赤ん坊たちは攻撃しているのではありません。向き合ってください。彼女たちと。……貴方自身と】
何かを引きずるような音が響いた。あの女の子まで来てしまった。
女の子はまた言葉にならない叫び声を上げた。もしかして、何か言いたいのかな。
【マ……ァマ……】
今、ママって言った?
赤ん坊の群れの隙間から女の子が見える。彼女は何かを求めるように、私に手を伸ばしていた。
【マァマ!】
やっぱり彼女は私に向かって「ママ」と言っている。親に捨てられた子どもみたいな悲痛な声だった。胸が締めつけられる。実の子が悲しんでいるのに何もできないような気持ちになった。でも……
「わ……たしは……ママ……じゃない」
人生で何も産んでいないのだから。
――周りをよく見てください。ヒントが隠されていますよ。
田中さんのセリフを思い出し、動かせるだけ首を動かして周りを見た。
後ろにある壁は、よく見ると押入れだった。見慣れたデザイン、染みの位置、実家にある私の部屋の押入れだ。
私は実家の押入れにあらゆるものを押し込んでいた。ランドセルや教科書一式、途中で投げ出した自作の絵本も。――そうだ。さっき見たかすれたペガサスは、私が絵本に登場させたキャラクターだった。星型のランプが天井からぶら下がっているスイーツショップも、キャンディで彩られたワンピースを着た女の子も、描いた覚えがある。
私は伸ばされた女の子の手を掴むと、彼女の名前を呼んだ。
「……ポップ……シュガー」
その瞬間、辺りがピンク色のコットンキャンディみたいな霧に覆われた。
霧が晴れると赤ん坊たちは私の体から剥がれていて、廃墟が綺麗なスイーツショップに変化していた。
水色の壁紙に、真っ白なテーブルセット。天井からぶら下がっている星型のランプには光が灯っている。かつて頭に描いた通りの風景が広がっていた。
目の前には、ピンクの髪をツインテールにした美少女が立っていた。フリルたっぷりのピンク色のワンピースに身を包んでいる。ワンピースのスカートの縁にはキャンディのイラストが描いてある。彼女はさっきの女の子で、ポップ・シュガーだ。
【会いたかったよ、ママ!】
ポップ・シュガーは私がはじめて作った絵本の主人公だ。
中学生の女の子が魔法少女になり、どんなものでもお菓子にできる魔法を使って敵と戦う話だった。二年くらいかけて作っていたけれど、途中で面白くないと感じて未完成で放り出した。
【ずっと狭くて暗いところにいたの。怖くて寂しかった】
私は赤ん坊たちを見わたした。
「貴方たちは、私が書いていた絵本なの?」
【そうよ。みんな未完成だから体の一部が欠けているの】
それにずっと大人になれないの。と、ポップ・シュガーは悲しそうに言った。
「いつか完成させようと思っていたの。だけど、結局どれも途中でほったらかしちゃった。……ごめんね」
全部中途半端なんて、私の人生そのものだ。
何も産まないまま、他人を羨んでいる内に気づいたら終わっちゃうんだろうか。そんなの嫌。もしもやり直せるなら、ううん、今からでも遅くないのなら、自分のやるべきことをしたい。
【……ママ、私を、私たちを食べて】
「え?」
【それでお腹がいっぱいになったら、新しい子を産んで欲しいの】
ポップ・シュガーは両手を前に伸ばした。大きな虹色のロリポップキャンディみたいなステッキが現れ、彼女の両手の平に収まった。
「食べられた貴方たちはどうなるの?」
【新しい子どもの中で生きるわ。その子どもは……今度こそ大人にしてあげて】
ポップ・シュガーが呪文を詠唱する。彼女があらゆるものをお菓子にする時の呪文だった。
赤ん坊が次々に宙を舞うと、お菓子に変化した。カップケーキやタルト、クリームパイ。パステルカラーのゼリービーンズ。それらは空っぽだったアクリルケースに綺麗飾られた。
【私の姉妹が大人になる日を、待ってるね】
ポップ・シュガーが、指先からあまい香りのするピンク色の砂に変わる。砂は螺旋を描きながら宙を舞い、ハート型のキャンディになって落ちて来た。私は、両手の平で包む込むように受け止めた。
「……うん」
ハート型のキャンディを舌に乗せる。優しいあまさの中に一粒の涙みたいなしょっぱさがあって、はじめて食べるのにどこか懐かしい味がした。
「田中さん。ここに連れて来てくれてありがとうございました」
【光栄なお言葉でございます。風間様によき旅をしていただき、ワタクシは大変うれしいです】
しみじみと言いながら、田中さんはお菓子の詰まったアクリルケースを凝視していた。スイーツが好きだっけ。
「食べていいですよ」
【し、しかし、彼女らは貴方に食べてもらいたがっていました】
「大丈夫。……彼女たちは、もう私の中にいるので」
【風間様がそう仰るなら遠慮なく!】
田中さんはアクリルケースの中からクリームパイを取り出すと、ひと口で食べてしまった。
【久しぶりのすいーつ、美味です】
田中さんは満足そうにつぶらな瞳を細めた。
三連休、私は四年ぶりに実家に帰省した。アリクイみたいな変な男が出て来た不思議な夢――起きた時点でほとんど内容を忘れていた――を見た日に、突然帰りたくなったのだ。
私の部屋は元のままだった。部屋に入った瞬間、六年以上も開けていなかった押入れが妙に気になった。
押入れを空けてみると、ランドセルやら教科書一式やら、子どもの頃に使っていたものが無造作にしまわれていた。昔作った絵本も入っていた。想像していたよりずっとたくさんある。過去の私は頑張っていたらしい。
「これ、はじめて描いたやつだ。……うわ、下手な絵」
画用紙にクレヨンで絵と申し訳程度のストーリーが描いてあるだけの絵本を見て思わず苦笑した。魔法少女が戦う話なのに、バトルシーンで何をやっているのかわからないのは致命的だ。だけど楽しんで描いているのは伝わって来る。
「また、描いてみようかな」
私の中から、何かが新しく生まれようとしていた。
【短編】未完成ベイビー【現代/シリアス】 桜野うさ @sakuranousa
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