第5話 神が授けた悪手

 最終第18局。14勝3敗で天才の中の天才と呼び声の高かった今年三段に上がってきたばかりの中学生3年生が最終局の結果を待たずして四段昇段を決めていた。栴檀は双葉より芳し、ということなのだろう。12勝5敗で大学を中退して全てを懸ける山下徹19歳、初の女性棋士誕生かと注目を浴びる有村冴、年齢制限で後がない内藤哲也の3人が並ぶ狭き門の最後一枠を巡る熾烈な争いが展開されていた。だが、哲也には次点でもフリークラスながらプロ棋士編入という道も残されていた。有村冴は昇段降段には関係のない相手との対局であったが、内藤哲也は山下徹との直接対局であった。


 それぞれが難解な中盤戦を果てしなく繰り広げ、詰むや詰まざるやの最終盤に差し掛かっていた。もう少し形勢を詳述すると、有村冴の妖術戦法は影を潜め、穴熊に自玉を固めていた。前局の内藤戦での戦線に関係ないとはいえ、浮駒を悉く取られ、真綿でゆっくりと頸を締められるかのごとく追い詰められた敗戦が堪えたともいえるし、負けられない最終局に対する執念ともやや守勢の心構えとも言えた。一方の内藤対山下戦は、大学中退で退路を自ら断った山下のこの一番に懸ける果敢な急戦調の仕掛けに対し、内藤は有村冴の対局の結果次第(有村敗戦の場合)では、再びの次点獲得でフリークラス入りが約束されることもあり、受けに徹した辛抱の序中盤戦で、こちらは形勢が激しく揺れながらも、膠着状態が続いていた。


 山下は何かに取り憑かれたように苛烈なまでに攻めてくる。しかし、囲碁の格言にも「取るぞ取るぞは取られの元」というのがあるように、山下の攻めが長引けば長引くほど、山下陣に隙が生じつつあった。内藤の視線も次第に相手陣の綻びに行く頻度が高まってきている。近くで指している有村戦の戦いが気になる。有村が自分の対局よりも先に有村の敗戦で決着がつけば、自局の勝敗如何に関わらず、悲願の棋士になれる。勝負師の心理としては踏み込みたいところであるが、ギリギリまで追い詰められた身としては、なかなか踏み込めない。持ち時間の長い将棋であれば、じっくりと長考したいところであるが、プロの棋士でもない三段リーグの面々が行う対局における持ち時間は90分と短く、使い切ると一手1分で指さなければならない。有村冴は、盤面での妖術使いは自ら封じたものの穴熊による持久戦に持ち込んだこと自体が、内藤に対するジリジリとした心理戦を仕掛けているかのような見事な陽動作戦とも言えた。そんな中、無情にも対局時間はドンドン過ぎて行く。しかも、こちらの局面は山下の猛攻を、内藤がギリギリの凌ぎで耐えるという、一歩間違えれば形勢がどちらかに大きく傾く激しい攻防が続いていた。遂に互いの持ち時間がなくなり1分将棋に突入。先程の午前の戦いで有村戦に勝利し、首の皮一枚繋がったものの、まさか対局中に射精することなど夢想だにしておらず、内藤も先程までは下着全体に広がる冷んやりとした感じに苛まれたが、今はそんなことにすら意識がいかないほど、秒読みに追われる焦りとこれが自分の人生を決定づける緊張感から、心臓が口から出そうなほどの感覚、ひりつく喉の乾き、頭、胸、下腹部が同時に締めつけられるような思いに襲われていた。「20秒、10秒、9、8、7、6」機械の冷たい女性の声が秒を読む。内藤が時間繋ぎに指した手を緩手を見た山下が一転、自陣の引き締めに一手を費やす。先程まで見えていた山下陣の綻びが再び見えなくなってしまった。


「駄目だ、守ってばかりいては、いつまで経っても勝利を手繰り寄せることは出来ない!どこかで反転攻勢に転じなければ!人生を切り拓くことは出来ないんだ!オレから離れて行った恋人や友人、そして腫れ物にでも接するかのような人々の遠慮した視線を普通のものにしたいんだ!また人との触れ合いの中で生活していくんだ!鳩森八幡の神よ、我に力を与えてくれ!」


 ギリギリと音がするほど奥歯を喰い縛る。それから、また暫く激しい鍔迫り合いが続く。歩の突き捨て。空いたスペースに控えの桂馬打ちと、相手陣に対する包囲を内藤も確実に狭めてゆく。山下の真っ赤に充血した目が大きく開かれたかと思いきや、勝負所と見たか、馬を切って銀と差し違えてきた。


 まさに運命の分かれ道と言うに相応しい局面だった。チラリと有村の後ろ姿に目を走らせるが持久戦と見えて、指手は依然として悠然としているように見える。決断すべき時が迫っていた。瞑目し鳩森八幡の神との交信を試みる。とはいえ、いつもは自分が神に仮託し、神の御名によって、自分の決断の背中を押す最後のよすがとしていたのが実情であったが、その時ばかりは、いつもの声色とは違う鳩森八幡の神のそれと思える声がはっきりと自分に告げた。


「攻めの手を指しなさい。自分が後悔しないように」


 それは、馬を銀と差し違えてきたという相手の勝負手に対し、手抜いて、相手をせず、一手勝ちを目指す斬るや斬られるやの後戻りの出来ない勝負に踏み込むことになることを意味していた。普段の自分であれば、相手の首を斬りにかかるのではなく、相手の攻めを受け潰し、根絶やしにしてから、ゆっくりと真綿で絞め上げにかかるのが今までの棋風であり、指し方であった。自分の第一感は、一度、馬を除去して、自玉の安全を一手延ばしてからの攻めであったが、ここが勝負所で鳩森八幡の神は「攻めろ。さもなくば後悔するぞ」と言う。


「5、4、3・」秒読みが迫り、哲也は決断し、相手の馬を取らずに、猛然と相手玉に迫る攻めの手を繰り出した。。。


 そこから、さらに何十手か進んだ局面で、なんと先程盤面から除去せずに放置した馬に山下玉の退路を塞いでいたはずの桂馬を抜かれ、しかも、その馬を引きつけた山下玉は鉄壁の堅陣となってしまった。その馬がしかも、内藤玉の上部脱出を阻む効きとなり、身動きが取れなくなってしまった。投了する気になれず、自玉の詰みまで、茫然自失となりながら、哲也は指し進め、敗れた。その刹那、有村が泣き崩れる姿が目に飛び込んでくる。


「まさか、有村冴も敗れたのか?オレは棋士になれたのか!?」しかし、持久戦で全体の最終局となっていた有村戦だったために、報道陣もどっと押し寄せていた。自分の感想戦など有村の勝敗の如何では全く意味をなさなくなるためそもそもする気さえ起きていなかったし、それは相手の山下も順位が自分よりも上の有村の勝負の行方次第で己の運命が決まるため、二人とも立ち上がり、よろめくように有村戦が行われていた畳の近くに駆け寄った。




 有村の目には、嬉し涙が溢れていた。。。


「有村さん、長い将棋の歴史始まって以来、初の女性棋士になられた感想はいかがですか!?」

「今、どなたにこの喜びを伝えたいですか?」

「Abemaトーナメントでは、有村さんの指名争いが予想されますが、どのチームに入ってみたいなど、希望などありましたらお聞かせください!」


 報道陣からは、幾つもの質問が飛ぶが、有村の涙は止まらず、一言も声にならない。クールな美しい顔を対局中、終始崩さずに指していた有村であったが、内面は余程、緊張していたのだろう。極限緊張の糸が切れ、盤面に突っ伏して肩を震わせて嬉し涙にむせび泣いていた。



 この瞬間、山下は順位の差で頭ハネで次点。次点を逃した内藤哲也の奨励会退会が決まった。山下も内藤も膝から落涙とともにその場に崩れ落ちた。女性棋士誕生で沸く将棋会館から、どのようにして帰路についたのかまるで思い出せないばかりか、その後の一週間の記憶がショックですっぽりと自分の人生の1ページから抜け落ちるほど、奈落の底に落とされ、内藤は神を呪った。







 今、内藤哲也は2053年の赤坂見附の全面ガラス張りの35階にある自室の執務室の窓から外を眺めて、30年前の自分の姿に思いを馳せていた。


 あの時、確かに自分ではない鳩森八幡の将棋の神と思える声が脳内に響き渡っていた。


 自分の棋風とは異なる攻めの一手を。

 後悔しないための一手を指せと。


 あとでAIにかけてみて分かったことだが、最善手は自玉の安全性を高める受けの一手一択であった。しかし、鳩森八幡の将棋の神は、私に攻めの一手を指すように告げた。その理由が今なら分かる。自分には、元々、将棋の世界で生きて行けるほどの将棋の才能がなかったのだ。だからこそ、神はあそこで、敢えて自分に悪手を選び、そして授けた--。


 もし、あそこであの手を指していなかったら、自分はギリギリ次点を得て、フリークラスでの将棋棋士という長年追い続けていた夢は辛うじて達成できていたかもしれない。しかし、恐らくは、後から来る俊英たちに水を開けられ、結局は途中で廃業、どこかの将棋道場でのインストラクターなどで辛うじて食い扶持を繋ぐ生活を送っていたことと思う。


 奨励会退会後、己の来し方に踏ん切りをつけ、電気通信大学で培ったAIの知識を活かし、AIプラットフォームを運営する会社の門戸を叩き、再び新たな一歩を前に進めたのであった。折しも、少子高齢化を迎えた日本の老齢化社会には、高齢者の余暇の時間の充実が求められていた。


 内藤哲也は、将棋を始めとした、囲碁、チェス、またボードゲームをアバターを使って対戦、そして、感想戦などの会話、そして、その会話からAIで解析させた趣味趣向や思想が合う人たちをマッチングさせ、老齢社会における無縁・孤立化を防ぎ、安心した人々の繋がりや憩いの場として活況を対するソーシャルプラットフォームを構築していた。段々と多くの若者の参加も増え、そこで知り合って結婚に至るものや、失われつつあったシニア層との世代間交流を通じた100年前の日本でかつて流行った「お見合い」文化再興にも繋がり、婚姻数上昇に大いなる貢献をしていた。それらの功績が認められ、次々と重要な仕事を任されるようになっていた。


 執務室の重厚な扉をノックする音が聞こえた。


「内藤専務、名人戦で対局される山下徹名人、有村冴挑戦者、立会人を務めていただく藤井聡太永世八冠とのフォトセッションの時間です。応接、50階飛天の間までお願いいたします。」


「すぐに向かうよ。」そう秘書に告げると窓外の景色から視線をドアに向けて、笑顔を浮かべて独りごちた。


「女性初の名人誕生なるか-?か、今シリーズの名人戦は盛り上がることは間違いないな。」


 長い年月を経て、内藤はまた人々を惹きつけてやまない将棋の奥深さに改めて心打たれ、将棋を心の底から好きになっていた。


 かつて、将棋界や囲碁界を支えてきた新聞社からスポンサーはAIを始めとしたIT業界やヘルスケア業界に変わってきていた。内藤哲也は、AIが日常の中心に位置を占めてきた社会にあって、将棋や囲碁といったAIでも未だ答えを見い出すことのできない人間が生み出したアナログな奥深い世界を守り、盛り立てていく決意を新たに、フォトセッション会場に歩を進めた。・・・(完)


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神が授けた悪手 青山 翠雲 @DracheEins

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