流行ってるのその日本語?

@utilitas

「〜するがよき」「〜がよき」 : なにその連体止め

2015 年くらいからだろうか「よきよき」などとして Twitter などで散見されるようになったが、昨今はカクヨムでも目にする「〜するがよき」「〜がよき」のような謎の連体止めはいったいなんなのだろう。


文語なら「〜するがよし」口語なら「〜するがよい」と終止形が本則だが、なぜか「よし」ではなく「よき」を文語の終止形だと思って使っているのではないか、という例を目にする。実際、「〜するがよき」と書く人々も「よし」以外の用言一般――正確に言えば現代日本語文の中で敢えて文語的表現を用いている場合にということになるが――については同様の連体止めを用いているわけではない。この連体止めはどうも「よし」についての特殊な現象であるらしい。


体言・連体形に接続する終助詞「かな」を伴って「よきかな、よきかな」などの表現は問題ない。係助詞「ぞ」などの係り結びで連体形になるのもわかる(e.g. 鬼と女とは人に見えぬぞよき)。だが、単独の「よき」での連体止めはなにがしたいのか。


もちろん連体止めという修辞技法はある(e.g. やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる)。連体止めは「余韻」を残す表現と言われたりもするが、体言止めと同様に、本来であれば続くはずの言葉を飲み込んでしまうことによって、一定の感情――喜び、恐れ、驚き、いぶかしさ、等々――に圧倒されて言葉にならない、ということを表現できる。「よき……」となっていれば、続くはずの体言や「かな」のような終助詞を思い余って飲み込んでしまっていることがわかる(連体止めは意味論的には不完全――命題を文の意味内容として帰属できない――だからその表現の中心が語用論的効果にあることも聞き手にはわかる)。とりわけ「よし」などの評価語はもともと話者の感情を語用論的に表出する機能を持つから、こうした技法に馴染みやすい。


だがこれが「よきよき」となると最初の「よき」にすぐに言葉が後続してしまっているので、この解釈を取ることが難しい(この例に限らずカクヨム等に散見される「〜がよき」の類の表現がこうした修辞的効果を狙っているとは思われない)。感極まった「よき」のみであればギリギリ許容できると感じられるが、「よきよき」となると違和感が大きくなるのはこのあたりが理由かもしれない。ともあれ、この種の修辞技法ではなく、係り結びでもないとすれば、当世流行の「〜がよき」の類のものは文法違反――規範文法というものを認めるとしてだが――ということになる。


だが、実は記述的に言えば、口語の終止形「よい」はこのおかしな連体止めの「よき」の直接の後継者でもある(なお「よいよい」は「よしよし」ほど許容度が高くなく古臭い言葉遣いだと感じられるが「よきよき」ほど不自然ではないだろう)。現代日本語では(というより室町期以降には)、もともと文末の連体形を導いていた係り結びが消滅してしまっている。よく言われているのは、鎌倉期以降に係り結びが濫用されすぎて、係助詞を伴わない場合にも連体形を結びにするという事象が生じ(係り結びの消滅)、更にこの係助詞を伴わない連体形が終止形にとってかわってしまった、という変遷である。連体形「よき」が終止形「よし」にとってかわって現代日本語の終止形「よい(よきのイ音便)」になったわけだ。もっとも、「〜がよき」のごとき表現によって、古典文法の崩壊を、崩壊の結果そのものである日本語現代文の中で極めて中途半端な形で再演することに意味があるとも思われないのだが。


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