エピローグ
ボタンの君
満員電車。
人ごみにもまれながら、電車に揺られていた。
何もなかったかのように、平穏な毎日をおくっている。
ファンクラブの人たちの嫌がらせもなくなり、歴史の講師だった根本は理由を知らされてはいないけど学校を退職した。
一週間前に非日常的な事件があったというのに、すでに遠い昔のように感じる。
今にして思えば、まるでドラマや映画のような出来事で、事件が起きる前と同じような日常を過ごしていることが不思議に思えてくる。
パンパンに詰め込まれた乗客を乗せ、電車が駅に滑り込んだ。
降りるのはもう二つほど先に行った駅。
でも、事件の事に思いを馳せていたせいで、降りる乗客の波にのまれ電車から追い出されてしまった。
必死に抗うも吐き出された乗客の波は、私の体を外へ外へと押し出す。
「わッ、ちょ、ちょっと、待って、乗ります、乗ります、乗りまーす」
必死に戻ろうとする私を、あざ笑うかのように電車のドアが閉まる笛の音が響く。
あきらめかけたその時、突然腕をグイッと引っ張られたかと思うと、後ろでプシューと音を立て電車のドアが閉まった。
一瞬何が起きたのかわからなかったけど、追い出された電車にしっかり乗っていた。
電車がゆっくりと動き出したころ、親切にも誰かが私を電車へと引っ張ってくれたのだと理解した。
気付けば目の前に見知った制服。ふんわりと漂ういい香り。
この既視感。
もしや『ボタンの君』?
慌てて顔を上げ、思わず叫んだ。
「桐谷倭斗!」
彼はものすごーくイヤそうに顔を歪めた。
「なんだよ、奥村ヲタク」
あの事件以来、倭斗くんとは話をしていなかった。
避けていたわけでもないけど、なんとなく話す機会を失っていたのだ。
「ちょっと、いい加減その呼び方やめてよ」
普通に話をするのが照れくさくて、少しトゲのある言い方になってしまった。
それに対して、倭斗くんも突き放したような言い方をする。
「お前がフルネームで呼ぶからだろ」
確かに。
でも素直に謝るのも癪に障る。
気まずくなって下を向いた。
すると、倭斗くんの制服のボタンが一つだけ違う事に気付いた。
あれ? ボタンが……。
「もしかして、入学式の時助けてくれたのって……」
「やっと気づいたか」
その言葉でハタと気付く。
「え? もしかして気付いていなかったのって、私だけ?」
何を今さら、とでも言いたげな表情の倭斗くん。
「お前以上にどんくさいやつは他にはいないだろ。電車からは追い出されるし、弁当だけ電車に取られるわ、せっかく集めたチラシを巻き散らすわ、挙句に根本に華と間違われるってどんだけどんくさいんだよ」
自分のドジっぷりを列挙され、恥ずかしさのあまり言い返す言葉もない。
いたたまれず下を向くと、自分の制服のボタンが取れかかっているのに気が付いた。
手に触れるとボタンがポロンと取れてしまった。
すると、倭斗くんは何を思ったのか、私のボタンを手に取った。
「あなたのはこっちだけど……」
慌ててポケットに入れっぱなしだったボタンを取り出して、倭斗くんに差し出した。
けれど、戸惑う私をよそに、倭斗くんはいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「そのボタンと交換」
意味が分からず聞き返した。
「はぁ? なんで?」
「虫よけ」
「え? ボタンに防虫効果があるなんて聞いたことないよ。しかもウチの制服って、男女でボタン違うし」
さらに言い募ろうとする私の頬を倭斗くんが引っ張った。
「はひふるにょひょ~」
何するのよ、と言ったつもりだったけど、頬を引っ張られたせいで言葉にならなかった。
倭斗くんが吹き出した。
「変な顔」
ひどい! 自分がやったくせに。
けれど、不思議だ。
倭斗くんが笑うと自然と心が軽くなる。
さっきの駅で乗客が減ったとはいえ、それでも電車の中は窮屈だ。
いつも以上に倭斗くんとの距離が近いことに今更ながら気付き、胸が騒ぎだす。
悪いことに電車がガタン大きな音を立てて揺れた。
その途端、乗っていた多くの人がバランスを崩しそれぞれに身体を揺らした。
傍にいた男性が倭斗くんの背中に当たり、私がいるほうへ体が傾いた。ぶつかると思ったけど、倭斗くんはドアに手を突くことで何とか堪えた。
でも、ドアを背にして立っていたから、私は倭斗くんとドアに挟まれた形になってしまった。
すぐ目の前に倭斗くんがいる。
意識した途端心臓の鼓動がだんだん大きく早くなる。電車の音がその音をかき消してくれることを願う。
頭ひとつ以上も上に倭斗くんの顔がある。
そう言えば、こんな近距離で倭斗くんの顔を見たことがなかった。
サラリとした髪、切れ長の目、筋の通った鼻、線が細く少し女性的だけど、日に焼けた肌が男らしさをかもし出している。眉目秀麗とはまさにこういう顔のことをいうのだろう。
そんなことを考えていると、艶っぽい瞳が私をとらえた。
心臓の脈を打つ速さが加速する。
倭斗くんの顔が近づいてきたかと思うと、耳元でボソッと呟いた。
「お前さ、約束忘れてるだろ」
思いもかけない言葉に首をかしげる。
「やっぱりな」
倭斗くんは少しあきれ気味に私を睨みつけた。
「おおおおおお、お、覚えてるわよ」
と言ってはみたものの、心の中では違う言葉を叫んでいた。
約束って何!
なんだっけ。
必死に記憶をまさぐると、屈強な男たちに囲まれていた時に交わした約束を思い出した。
「あ! ハム入り卵焼き!」
思いのほか大きな声だったようで、隣にいたサラリーマンにジロリと睨まれる。
「やっぱり、忘れてたな」
図星だ。
倭斗くんにもジロリと睨まれる。
「なんであの場面でハム入り卵焼きなのよ」
倭斗くんが私を助けるために、ひとりで大勢の男たちと対峙した時に言った言葉。
今さらだけど、あの場面で言われる台詞じゃない。
ボソリと呟いた私の耳元で、倭斗がぼそりとつぶやいた。
「好きだから」
「え?」
弾かれたように顔を上げると、そこには優しい笑顔を浮かべた倭斗くんの顔があった。
心臓がドキンと跳ね上がった。
「ハム入り卵焼きが、だよ」
ニヤリと笑って倭斗くんがそう付け加えた時、電車が駅に停車した。
後ろの扉が開いて、一斉に人が降りだした。
人が多すぎてうまく方向転換できなかった私は、後ろへと転びそうになる。
その時、倭斗くんが私の腕をグイッと引っ張り優しく私の体を包み込んだ。
でも、それは一瞬の事、気付けば倭斗くんはもう先を歩いていた。
倭斗くんがそんな事をするはずがないって思うものの、倭斗くんの腕の感触は確かに今も残っている。
高鳴る心臓に戸惑いながらも、視線はいつまでも倭斗くんの背中を追っていた。
すると、その背中が突然振り返った。
倭斗くんは呆然と立ち尽くす私のところまで戻ってくると、むしり取るように私の手から手提げカバンを取り上げた。
そして、中からお弁当を取り出すと、自分のお弁当箱と私のお弁当箱を入れ替えて突き返してきた。
「忘れていたお前には、『華の弁当の刑』だ」
それだけ言うと、倭斗くんは踵を返した。
けれど、数歩進んだところで再び立ち止まり振り返った。
「ああ、そうだ。『弁当の神様』に伝言。森の妖精さんが『お願いだからまた美味しい弁当を華に伝授してほしい』ってさ」
そして、少し照れたように頭をかいた。
「ハム入り卵焼きは俺の好物だ。覚えとけ。今度は忘れるなよ」
顔を真っ赤にする私に、倭斗くんはいたずらっ子のような笑みを見せると人の波に流されるように行ってしまった。
「うん」
すでに答えを聞かせる人はいなかったけど、小さく頷き自分もまた人の波に流されるように改札口へと向かった。
終わり
ヲタクの乙羽さん ――結城晴朝の黄金伝説―― 和久井 葉生 @WakuiHao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます