森のようせい……現る?
聞き返そうと口を開くよりも先に、倭斗くんが立ち上がった。
「華じゃないか?」
そう言われて、倭斗くんの言葉が気になりつつもノックに応える。
「どうぞ」
ドアが開いた瞬間、息を呑んだ。
クマが部屋に入ってきたのだ。
しかもクマはスーツを着ている。
「倭斗くん……どうしよう。クマが入ってきたよ」
一難去ってまた一難。
今はまだ本格的な冬じゃないから、冬眠し損ねたクマではないけれど、冬眠する前のクマもきっと凶暴に違いない。
けれど、スーツを着ているクマはアニメの世界しか見たことがない。野生のクマってことはありえないから、サーカスか何かのクマだろうか……。
そんなことを考えていると、倭斗くんがいきなり吹き出した。
「良く見てみろ……ククッ。あれはクマじゃない。ククク……人間だ。ちなみに華の旦那だ」
またしても衝撃的な言葉。
確かによく見ればクマじゃない。毛むくじゃらでもない。
クマのように大きくて、屈強な体格の男の人だった。
その人の後ろから華さんが入ってきた。
想像していた華さんの旦那様とはずいぶんかけ離れたその人が、近づいてきた。
目の前まで来ると、内ポケットから手帳を出し旭日章を見せてくれた。
「森野です。とんでもない目にあったね」
見た目とは違い、とても優しい声だった。
「はい」
短く答えた私に、やさしいほほ笑みを返してくれたけど、隣で肩を揺らして笑っている倭斗くんを訝し気に見つめた。
「倭斗くん、大丈夫かい? 頭でも強く打ったのかい?」
「いいえ……クク、違います……ククク、こいつが変なこと言うから……」
「変なこと?」
「な、何でもないです! たぶん緊張から解き放たれてテンションがおかしくなっているだけです。アドレナリン大放出ってやつです。うん、そうです。きっとそうです!」
クスクスクスクス、笑いが止まらない倭斗くんの脇腹を軽くつついた。
それでも収まらず、倭斗くんは『クマサン……モリノ、クマサン……森のくまさん』とぶつぶつ言いながらひとり笑い続けている。
「ああ、そうか。倭斗くんは笑い上戸だったか」
『鉄仮面の貴公子』が笑い上戸とは思いもよらなかった。無表情の倭斗くんの事しか知らない者にすれば信じられないことだろう。
涙を流しながら笑っている倭斗くんは華さんにしてみれば見慣れた光景なのか、そもそも興味がないのか、華さんは平然と旦那様を私に紹介してくれる。
「紹介するわね。こちら、私の旦那様の『もりのようせい』さん」
聞き間違いだろうか、今、華さんが旦那さんを紹介してくれたと思ったのだけど、その名前が見た目を裏切っている。
「森の妖精さん?」
聞き返すと、ブハッと倭斗くんが盛大に吹き出した。
「そう、森野洋平≪もりのようへい≫さんよ。警察官なの」
幸いにも華さんには、私が旦那さんの名前を聞き間違えたことに気づかなかったみたい。
でも、あいにく倭斗くんにはしっかり聞こえてしまったようだ。
さすがの華さんも大笑いする倭斗くんのことを訝しむ。
「ちょっと、倭斗何笑ってるのよ。あんたよ~く診てもらった方がいいわよ」
「いや……フフ、大丈夫……フフ、ク……ククククク」
必死に笑いを抑える倭斗くん。でも、笑いが収まることはなかった。
笑い上戸である倭斗くんの姿を見慣れているのか、私以外の二人は気にする様子もなく話を進める。
「洋平さん、こちらが奥村乙羽ちゃん。乙羽ちゃんをこんな目に合わせるなんて許せない! やっぱり一発殴っておけばよかった」
いきり立つ華さんを洋平さんが優しくなだめる。
「それはダメだよ。君の場合、一発でも正当防衛じゃなくて過剰防衛になりかねないからね」
やんわりとだけど、何気にすごいことを言っていると思うのは私だけだろうか。
警察官らしい説得? に、華さんは不満たらたらで抗議する。
「え~、なんでよ。私のお弁当の先生よ。それに歴史好きの大切なお友だちなのよ」
その言葉を聞いた途端、洋平さんは大きく目を見開いた。
「なんだって!」
そう叫ぶなり、洋平さんが私の手をガシッとつかんだ。
「君が『弁当の神様』だったのかッ!」
「べ、弁当の神様って何ですか?」
その恥ずかしいネーミングに、思わず顔を歪ませる。
「君のおかげで華の弁当が『食べられる弁当』になってきたんだよ。そうか、そうか、君が弁当の神様か」
お願いだからそのネーミングはやめてくれ、と思っている隣で、倭斗くんが再びツボにはまったようで涙を流して笑っている。
それでも華さんと洋平さんは、相変わらず笑い転げる倭斗くんのことを軽くスルーする。
「華、僕も一発じゃなくて二・三発は殴ってやりたり心境だ」
洋平さんの言葉に、私も心の中で力強く頷いた。
私も倭斗くんを殴ってやりたい心境だ。
「でしょ! 今からでも遅くないかしら」
華さんが嬉々として洋平さんに聞いた。さっきまでの洋平さんなら華さんの言葉に力強くうなずきそうだったけど、洋平さんは警察官としての職務を思い出すように首を横に振った。
「い、いかん、いかん。そうじゃなくて、ヤツは僕がみっちり取り調べをしてやる!」
洋平さんの目に炎が見えたような気がした。
「あ、あの、聞きたいことがあるんじゃ……」
その言葉で正気に戻ったのか、洋平さんが私の手を離した。
話といってもたいした話ではなく、いくつか質問に答えただけだった。
すると、それまで黙って聞いていた華さんが話に割り込んできた。
「ねえ、乙羽ちゃんが根本に言った和歌の訳、私にも聞かせて」
突然何を言い出すかと思えば、できれば記憶から消したいことを華さんは聞いてきた。
「い、いや、たいした訳じゃないんで……」
やんわり断るが、あっさり引いてくれる華さんではなかった。
「そう、なら根本に聞いてみようかしら。洋平さん、根本に接見できる?」
ニコニコニッコリ。華さんが満面の笑みで私を脅す。
幼稚な訳だと笑われた根本に聞けば、何をどんなふうに言われるかわかったものではない。だったら、自分で言った方がまだましかもしれない。
笑われるのを覚悟して和歌の訳を話すと、華さんは笑わなかった。
笑うどころか真剣に考え込んだ。
「でも変ですよね。さといもって滅多に花を咲かせないから。なんでさといもの花なんでしょう。そう言えば滅多に花を咲かせないのは竹も同じで、竹が白い花を咲かせるとその竹藪はすべて枯れてしまうって聞いたことがあります。晴朝も血筋が枯れちゃったからそこに思いをはせてよんだ和歌なんですかね。あれ? でも金光寺に竹藪ってありましたっけ?」
「ある。あったって言った方が正しいけど、乙羽ちゃんこの訳、根本以外の人に話した?」
少し考えこんでいた華さんが、真剣な顔で聞いてきた。
こんな恥ずかしい訳、人に言えるわけがない。
首を振る私に、華さんは少しホッとしたように息をついた。
「もうその話はいいだろ」
先ほどまで涙を流して笑っていた倭斗くんが、突然話に割って入った。
「そうね。そろそろ行きましょう」
華さんの言葉に洋平さんが小さくうなずいた。
洋平さんは小さくお辞儀をすると華さんと一緒に部屋を出て行った。
再び二人きりになってしまった。
私の心臓も再びドキドキと言い出した。
でも、倭斗くんはそっけなく部屋を出ていこうとした。
だから慌てて声をかけた。
「ごめんなさい!」
思いのほか声が大きくなってしまった。だからなのか、倭斗くんは驚いたように目を見開いた。
「なんでお前が謝る?」
「この前……ひどいこと言っちゃった……から」
やっと謝ることができたと思ったのに、倭斗くんは不思議そうに首をかしげる。
「お前が謝る必要はないだろ。悪いのは全部俺だ」
「ううん。倭斗くんは何も悪くない。倭斗くんは自分が傷つくことばかりを選んでる。なのに……私、気づきもしないでひどいこと……」
うつむく私の頭を倭斗くんがクシャっとなでた。
見上げると、とても優しい瞳が私を見つめていた。
「俺は……お前を守れなかった。それがすべてだ。自分を責めるな。お前は何も気にする必要はない」
「ちがうッ! 倭斗くんはちゃんと私を守ってくれた。ファンクラブの子に責められた時も、根本に捕まった時も、そして……今も」
倭斗くんはじっと私のことを見つめている。だから、恥ずかしさがこみあげてきて言葉に詰まってしまう。
でも、この言葉だけは絶対に伝えなきゃ。
「守ってくれて……ありがとう」
カァーっと顔がほてるのが自分でもわかった。
すると、倭斗くんはさっきよりも強い力で、クシャクシャっと頭をなでた。
だから、倭斗くんの顔は見えない。
でも、とても優しくて暖かい声が耳に届いた。
「おやすみ」
それだけ言うと、倭斗くんは部屋を出て行った。
ひとり残った静まり返った部屋に、ドキドキと高鳴る心臓の音だけが響いていた。
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