第二話 刀を抜く日
この日――、江戸の町に
だが、幕府側の人間はこの場にはいない。
大量の人が動けば事前に
総司は
ここ数日降り続いた雨は止み、
「沖田先生、今日はお一人ですか?」
「その〝先生〟はやめてくれません?
大黒屋は吾妻橋に
「なにを言われます。剣術道場の師範代ともあろう方が。大先生(※近藤周介)は、
佐平には息子が二人いる。長男は大黒屋の跡継ぎだが、次男は試衛館の門弟である。きっかけは近藤周介が大黒屋で羽織を新調した際、将棋の話となったのが始まりだと言う。
共通の娯楽で意気投合し、さらに次男が剣術に
試衛館の門弟は、商家や農民、
仕事の合間に稽古にやってくるため、とうぜん忙しくなれば家業が優先される。おそらく試衛館門弟の中で、剣術に本腰を入れているのは一握りだろう。
「ええ。今度いらしてください。将棋の相手を欲しがってましたから」
総司は軽く手を振って、佐平と別れた。
そんな総司の視界に、またも知っている顔が入った。
「――
総司に呼ばれた山南敬介は、総司と視線を合わせると
「……このようなところで会うとは
山南は門弟ではないが、試衛館の人間である。
物静かで
「単なる散歩です。こんなに天気がいいのに、何処かの誰かさんは部屋にお
総司は出かける際、歳三に声をかけた。
総司は歳三を部屋から引っ張り出してあわよくば、美味いものにありつけると
歳三が部屋に籠もる理由は一つ。
趣味である、発句だ。
「彼は、部屋でなにをしているんだい?」
歳三のことだろうと察知した山南が苦笑しつつ、総司に尋ねる。
思わず歳三の秘密を言いそうになったが、そんなことをすれば一生口を利いてもらえなさそうな気がした。怒鳴られ、殴られることは耐えられるが沈黙はきつい。
「たぶん、考え事です。下手に声を掛けない方がいいですよ。大声で怒鳴られる上に、絞め殺しにきますから」
「しめ……」
今度は、
「ところで、山南さん?」
総司は江戸に
丸に十字の紋と聞いて、山南は即答した。
「ああ、それなら
「島津家って、あの島津家?」
「ええ。薩摩藩です」
薩摩藩と言えば、
さすが、物知りな山南である。
「――では、私はここで」
試衛館とは違う道に進もうとした山南に、総司は首を傾げた。
「試衛館に戻らないんですか?」
「久しぶりに、神田お玉ヶ池に顔を出そうかと思いましてね」
神田お玉ヶ池には、江戸三大道場の一つ『玄武館』がある。
北辰一刀流の名門で、試衛館と違って門弟は旗本などが多い。
未だに貧乏所帯の試衛館だが、よく潰れないものだなと感心しつつ、総司は再び試衛館のある市谷に向かって歩き始めた。
◆◆◆
歳三が
いつも騒々しい
歳三は
下の世界は攘夷だの、人斬りが横行し始めた。
なのに昊の色は、どんなに地が荒れようと変わらない。
真の武士になると故郷・日野を離れて数年、今は江戸の
「ふ……、いけねぇなぁ……」
歳三は
はっきり言って歳三は、周りが静かすぎることに慣れていない。
子供の頃は兄弟に囲まれ、外では悪ガキ
大人になり、気がつけばもう二十六歳、実家からの
自室を出て試衛館の稽古場に向かうと、誰もいないその場で木刀を振る男がいた。
「――なんだ。いるのはお前だけか? 斉藤」
「邪魔なら出て行きますが?」
斉藤一は構えていた木刀を下ろし、歳三を振り返った。
斉藤の流派は、
総司が言うには、その腕前はかなりのものらしい。
「かまわねぇよ。それにしても、こうもごっそり人が消えると、妙なもんだぜ」
賑やかな原田左之助や藤堂平助、永倉新八の食客三人は昼間にふらりと出て行ったままだ。道場主の勇は寄り合いとかで彼も不在、井上源三郎は何処かにいるかも知れないが、おそらく今日も畑だろう。
「私は静かなのは嫌いではありません」
「お前はそうだろうよ、斉藤。俺も静かなのは嫌いじゃねぇ。誰にも邪魔されずに、物事に
歳三は、先ほどまでうじうじと考えていた己を心の中で
「まさか、あなたが残っているのは思ってませんでしたよ」
歳三が残ったのは、勇が外出したためだ。
その前に総司に外に誘われたが、また道草を食うに決まっている。
いい加減、付き合わされる身にもなってほしいものだと、歳三は思う。
結果、外出しなくて正解だった。
試衛館の留守を預かる人間が、誰もいなくなるという状況になるところだったのだから。
歳三は、斉藤の皮肉を笑った。
「それはこっちの台詞だぜ、斉藤。いつもなら目立たぬ所にいるお前が、最近は稽古場にも顔を見せるようになった。原田たちと、酒も呑みに行ってるそうじゃねぇか? あんなに人と関わることを避けていたお前がよ」
「断るとしつこいので、しぶしぶ付き合っているだけです」
「ならば、総司の立ち合いの誘いにも乗りゃあいいじゃねぇか」
「あなたはその誘いに本気で乗りますか?」
逆に問われて、歳三は言葉に詰まった。
江戸三大道場と言われる北辰一刀流の
天然理心流は今も認知度が低く、試衛館に至っては
だが、外に
同門である歳三ですら、逃げ回っているくらいだ。
総司が本気になればどうなるか、剣術を
斉藤は話を続けた。
「世が世です。いざという時に刀を抜けなくなるのは困ります」
斉藤の剣の腕なら、総司と本気で立ち合っても
「お前――、そんな時が来ると思っているのか? 斉藤」
「あなたは、どうなんです? 土方さん」
またも問い返されて、歳三は半眼になった。
「お前なぁ……、人の問いに答えねぇで、俺に聞くんじゃねぇーよ」
めんどくさげに返して、歳三は稽古場を出ようと
その歩が、ピタリと止まる。
「ずるい! 私の立ち合いは避けるくせに二人だけで立ち合うなんて!!」
噂をすれば影がさす――、総司が
「馬鹿、そんなんじゃねぇよ。稽古相手が欲しかったら近藤さんに頼めよ。腕を磨きてぇなら、そっちのほうがいいだろうがいいだろうに」
「山南さんは、立ち合ってくれましたよ」
「――奴と手合わせをしたのか……?」
「一度だけですよ。もちろん、近藤先生の許可を得ましたよ」
総司はそう言って、邸の方へと歩いて行く。
斉藤ですら避ける総司との真っ向勝負を、山南がした。ある意味驚きであり、歳三には複雑だった。
彼は斉藤に問い返された「刀を抜くとき」について答えなかったが、この動乱がこのまま鎮まるとは思っていない。以前よりも〝攘夷〟の名を借りた不逞浪士による人斬りや押し込みは増え、諸大名の攘夷派による異人襲撃も増えた。
まさか将軍家のお膝元である江戸城下で、異国との戦になるとまで思っていないが、火種になりそうなものは転がっている。
その時、己はどうするのか――。
はっきりしているのは、歳三の中に「何もしない」という選択肢はない。
歳三は稽古場から枝折り戸を通って、
西の空は、すっかり茜色である。
歳三はかつて、書の師である
「
このとき、歳三はまだ十代、剣術を
本田覚庵が突然語り出したその言葉の意味など、当時の歳三にわかるはずもなかったが、いつになく厳しい表情の覚庵に、歳三は思わず筆を止めた。
「先生、いきなりどうしたんだ?」
「ここら辺にいる名ばかりの武士に
当時多摩周辺には、悪さをする
因縁をつけては無礼打ちにすると騒ぎ、盗みを働く者までいた。
「義を見てせざるは勇なきなり――、
覚庵はそう言って、嗤った。
今にして思えば、非道に走る一部の武士は〝いざ〟という時がきたら本気で戦えるか疑問である。ただその時の欲と感情で刀を抜き、その手を血に染める行為は間違っている。本田覚庵はそう言いたかったのだ。
武士の全てに己の理想像を重ねるつもりは歳三にはないが、現在も非道に走る輩がいることに腹が立った。だが、歳三も一介の浪士なのである。
彼らが赦せなくても、捕らえるのは奉行所の人間である。ましてや、彼らと斬り合いとなれば乱闘と見なされ最悪、三尺高い木の上(※獄門首をさらす台)である。
ひたすら待つしかない。自分が目指す、武士としての道が開かれるのを。
「――そんなに
そこには、邸の中に戻ったはずの総司が、ニコニコと笑いながら立っていた。
「なにわけのわかんねぇことを言ってやがる」
「夕陽ですよ。稽古場を出て何処に行ったのかと思えば、夕陽と睨めっこをしているんでからねぇ」
「お前は気楽でいいな。総司」
「難しいことは、考えないようにしているだけです。誰かさんのように、仏頂面になりたくありませんし」
「誰のせいだと思ってやがる!」
激昂しかけた歳三を、総司はすかさず制す。
「お説教は今度ということで――」
くるりと背を向けた総司に、歳三は思わず呼び止めた。
「総司」
「――なんです?」
呼び止めたものの、歳三は言葉を呑み込んだ。
「……いや、なんでもねぇ」
「真面目な顔で黙らないでくださいよっ! 気になるじゃないですかぁ! ねぇ」
子供のようにまとわり付く総司をあしらいつつ、歳三は邸の中へと戻っていったのだった。
天高く燃ゆ~江戸市ヶ谷事件帖 斑鳩陽菜 @ikaruga2019
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