第四章 おれたちの夢

第一話 動乱再燃!

 文久二年(1862年)一月十五日――、この日のそらあいにくどんてんであった。

(雪になるかも知れんな……)

 じよう西にしまるしたいわひらはんかみしきの門前にて、昊を見上げたあんどうのぶまさまゆを寄せた。

 磐城平藩上屋敷はもとはまちようにあったが、信正のわかどしよりしゆうにんから現在に至る。磐城平藩四代藩主・あんどうのぶゆきちやくなんとして江戸藩邸で生まれた信正は、磐城平藩五目代藩主であるとともに、今や老中である。

 しかし今の世は、混乱期にある。

 じようの勢いは衰えず、幕府と朝廷との関係もぎくしゃくしていた。

 やはりちよつきよをえることなく米国と交わした、にちべいしゆうこうつうしようじようやくよういんだろう。

 こうめいていは大の異人嫌いだという。だがこの国に、異国船を追い払う力などあるだろうか。

 ――無理だ。

 信正は、自らからの問いを否定した。

 攘夷ができるものなら、とっくにしている。

 隣国・清が異国相手に戦ってどうなったか、上のものは知らぬ者はいない。

 だが、朝廷との関係をしゆうふくしなければ、この国はさらに乱れるだろう。

 そんな中、かいさくとして打ち出したのは、朝廷の伝統的権威と、幕府及び諸藩を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとした政策、公武合体である。

 その一つとして、現将軍・とくがわいえもちに孝明帝の妹宮・和宮を降嫁させることだった。当然、朝廷は反発し、勅許は降りなかった。

 漸く勅許が降りたのは、万延元年の晩秋である。

 なのに、だ。

 信正の心に、この日の昊のような思いモノが覆い始める。

「殿、じようこくげんが――」

 門前で昊を見上げたまま動かぬあるじに、家臣が声を掛ける。

 この日は、じようげんせつ(※小正月)で、諸大名が将軍にはいえつする日である。それでも、信正の心の中にふっと涌いたモノは消えない。

(なんだ?)

 彼自身にも、その正体がわからなかった。に乗る前に、彼はもう一度昊を見た。

 しかし、答えはでることはなかった。

 

                    ◆


 江戸・いちがこうしき――、天然理心流剣術道場・試衛館は、いつもと変わらぬ朝を迎えた。雪こそ降らなかったものの、冷えた床を素足で踏むのはかなりこたえる。

 昔は冷えた床などなんでもなかったが、六畳間の一室で暮らすようになったからなのか、さすがの歳三も、冷たい床への最初の一歩にからだこわる。

 もちろん、そんなことは口には出さないが。

 ――総司あいつに、なにをいわれるかわからねぇからな……。

 立場上は同じはんだいだが、かの青年は口が軽い。

 あさけいを終え、井戸端で顔をぬぐっていた歳三は、背後でじやを踏む音に振り返った。

「……なんだ?」

 歳三の背後にいたのは、稽古着姿の総司だ。

「そんなにけいかいしなくてもいいじゃありませんか?」

「警戒なんぞしてねぇよ。お前は、背後からばつとうする奴じゃねぇというのはわかってるからな」

 歳三が総司を見て嫌そうな顔をしたのは、彼のばなしに、朝から付き合わせたくないからだ。大抵が食い物の話で、話の終わりに一緒にいきませんか? と必ず誘ってくるのだ。

 一緒にげいに行けば、寄り道を要求され、ていろうそうぐうするというおまけつきだ。

 歳三は井戸に向き直ると、つるの水を木桶に注ぐ。


「朝っぱらから怖ろしい想像をしますねぇ。じゃ、なんでぶつちようづらなんです? 土方さん」

 総司は九歳から試衛館門下であり、立場上は総司は歳三の兄弟子である。

 さすがに十代後半からぼくとうを握り始めた歳三と違って、総司は木刀であれ、剣を握ればひようへんする。歳三は総司と何度か手合わせをしたが、一本取れるかどうかだ。本気で立ち合えば、腕をへし折るぐらいのことはやる。

 稽古だろうと手は抜かないのが、総司だ。つくづく同じ門下で良かったと思う歳三である。 

「うるせぇな。それより、あのことは誰にも話しちゃいねぇだろうな? 総司」

「あのことって――、なんでしたっけ?」

 剣を握れば鬼と化す総司が、こてんと首をかしげる。

とぼけるんじゃねぇ!」

「土方さんのごしゆは、近藤先生(※近藤勇)にも話してませんよ。それで? また面白い句はでき――」

 総司の言葉は、最後までいい終わらぬうちに飲み込まれた。

 歳三には、俳句の趣味がある。それがよりによって、総司に書き連ねた句集・豊玉発句集を見られ、以来総司は歳三のすきを突いて、句集を盗み見するようになった。

 そんな歳三たちの背後に、また誰かが立った。

「朝からそこでなにをしているんだ? 二人とも」

 立っていたのは、そのいさみだった。両腕を組み、怪訝そうな顔で首を傾げている。

「軽い腕ならしさ。なぁ? 総司」

 歳三の言葉に、歳三にめされた総司は「こうさん」といわんばかりにうなずいた。

 不意に、勇の顔が曇る。

「なにか、あったか? 近藤さん」

 歳三は勇のことを人前では若先生と呼び、二人の時は「勝ちゃん」と呼んでいたが、勇が正式に試衛館の主となってからは「近藤さん」と呼んでいる。

「……トシ、またやられたぞ」

「?」

「老中・安藤さまが襲われた」

 

                   ◆◆◆


 

 その事件が起きたのは、昨日の朝だという。

 老中・安藤信正の行列が登城するため藩邸を出てさかしたもんがいに差しかかると、浪士六人が行列を襲撃したという。

 幸い老中・安藤信正は助かったそうだがが、桜田門での大老襲撃に続き、またもばつかくの人間が襲撃された。市中ではかわらばんによって知った民衆が、この国はどうなるのかと噂をしているらしい。

「とんだ正月だ」

 試衛館と隣り合う近藤家の勇の部屋で、総司があきれつつちやす。

 昨日は小正月である。ずきがゆを食べてじやばらいをするが、上の者たちには邪気払いにはならなかったようだ。

「――攘夷派の連中か?」

 両腕を組んで勇の斜め横に座っていた歳三は、しゆにんけんとうがついた。

 そんなことをしでかす人間は、攘夷派の人間しか思い浮かばなかった。

 もちろん〝攘夷〟を叫ぶ人間は食い詰め浪士の中にもいるようだが、幕閣の人間を襲うきようがあるか疑問だ。失敗すれば、待っているのは死罪しかない。

 死を恐れず上に向かえる人間となると、現在の幕府に異を唱えているという水戸、長州、薩摩などのゆうはんである。現に桜田門での大老襲撃は、水戸藩の攘夷派だったという。

「恐らくな。だがな、トシ」

「わかってるよ、近藤さん。奴らは間違ってる。幕閣の人間を斬ったところで、なんの解決にもならねぇ。それで世が変わると思ってるなら、とっくに変わってるよ」

 歳三は幕府の人間ではないが、襲撃を繰り返してもかいさくにはならないことはわかる。

 異国からこのもとまもりたい気持ちは理解は出来る。だが、これではただの人斬りだ。

「これからどうなるんでしょうね? この国は」

 総司がちやりんとうに手を伸ばす。

「俺たちのようなものがあんしたところで、どうもならんさ。ただ、ぼうさま(※将軍)の立場はさらに苦しいものになるだろう。こうも幕閣の人間がやすく襲われると、な」

 勇は溜め息をつくと、みを口に運んだ。

「誰かが、馬鹿どもにきゆうえなきゃならねぇ」

「おい、トシ……」

 歳三まで人斬りに走ると思ったのか、勇の表情がった。

「安心しな。俺はなにもしねぇよ。あんたのいう通り、俺たちはただの浪士だ。攘夷にとやかくいうつもりはねぇが、だからとやみに人を斬るつもりもねぇ。俺が刀を抜く時は、こうと決めた時だ。今じゃねぇ」

 いつかは、誰かを斬らなきゃならない時がくる。

 ちまたみんしゆうはまだ気づいていないが、世はもうてんたいへいではない。こじれに拗れた幕府と反幕府派の関係は、このままいけば戦を引き起こす。そんな危機感が、歳三にあった。

「そんな時がくると思いますか? 土方さん」

 総司の問いに、歳三は軽く笑った。

「さぁな。俺には先のことはわからねぇよ。せいぜい、明日は晴れるか雨になるか、昊を見て判断できるぐらいだ」

「変わった能力ですね」

「俺は多摩の百姓生まれだぜ。だがそんな俺でも、刀をけがす奴は赦せねぇ。俺たちの目指している武士はそんなもんじゃねぇだろ? 近藤さん」

 歳三の言葉に、勇は黙っていた。

 勇も、歳三と同じ多摩の百姓生まれである。ともに〝真の武士になろう〟と誓ったが、今や勇はこの試衛館を背負って立つ立場となった。妻子もいる。

 歳三はそんな勇の返事を待つことなく、しようけてろうに出た。

 勇にはああいったが、実際のところ、歳三にも自分の目指している武士像はまだ見えていなかった。

 腰に差す刀がこれから先、なんのために抜くことになるのかも。

 

                          ◆

 

 攘夷の動きは、決して江戸だけのものではなかった。

 朝廷のおひざもとであるこの京の都でも、なまぐささくられようとしていた。

「このまま、水戸の連中に先を越されるわけにはいかん」

 あんどんあかりが、つどう男たちの姿を照らしている。

 場所は京・ふしふな宿やどてら

「じゃっどん(※しかし)、殿とのが納得せん」

「ならば、納得してもらえばよか。我が薩摩も攘夷決行すべきと」

「いけんすっと? (※どうするのだ)ありどん」

 有馬と呼ばれた男は、くちもとゆるめた。

「関白・じようひさただと所司代・さかただよしの二人の首を、殿に奉じるんじゃ。おいは殿を信じちょっ」

 有馬のいう殿とはもちろん、薩摩藩主・しまひさみつのことだ。

 島津久光は公武合体に傾き、攘夷には消極的である。

 関白・九条尚忠と所司代・酒井忠義は幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めた人物である。

 だがこの暗殺計画は実行されることはなかった。

 彼らが動くよりも先に、同じ薩摩藩士の手で討たれたからだ。


 

「この国は……、このままじゃ異国に乗っ取られて終わる……、後悔してからは襲いんじゃ……」

 血の惨劇の場となった寺田屋で、ありしんひちさいにそうつぶやいた。

 ぼうきよぜんふせがれたものの、この都には攘夷の炎がくすぶっている。自分たちが倒れても、新たな火が燃える。この国が目を覚ますまで、それは終わらない。

 有馬新七は、静かに目を閉じた。

 そして二度と、目を開けることはなかった。

 


 京の都での騒動は、遠く離れた江戸にいる歳三たちの耳には入っては来なかった。

 幕閣や大名、旗本ならある程度の世情はわかるだろうが、一介の浪士に過ぎない彼らである。難しい話をされても、ついていくのが関の山だ。

 季節は初夏、歳三は部屋から廊に出ると、のきしたからのぞいた太陽に手を翳して直光を避けた。

「やぁ、早いね。トシ」

 歳三の部屋は中庭に面し、から井上源三郎が入ってくる。

 源三郎は勇よりも年上で、温和な男である。

 歳三と同じ武州・多摩は日野出身、家は八王子千人同心の家系だが、剣よりもくわすきを手にしていることが多かった。もちろん、源三郎の実兄とともに天然理心流門下で、歳三の兄弟子に当たるが、源三郎は試衛館内弟子となった現在も、近藤家の庭に造られた畑で作業を続け、このときは畑帰りなのかきゆうりの入ったざるわきに抱え、左腰に手拭いを挟んでぶら下げていた。

「この癖には嫌になるぜ。土臭さが抜けやしねぇ」

 歳三はいつもなら、もう少しとこにいる。だがこのになると、特に用もないのに早起きになる。

「畑仕事が嫌いだったのかい?」

 歳三の家は、源三郎の家と違って農家だ。周囲の農家よりは裕福なほうだが、この時季は欠かせない作業がある。

 歳三は、源三郎の問いかけを否定した。

「そんなことはねぇが、今の俺はあの頃の俺じゃねぇ。なのにだ。もう手伝わなくてもいいとわかっても躯が反応しちまう。あさかわじゃ、そろそろぎゆうかくそうしげる頃だからな」

 牛革草は、歳三の実家で毎年造られるでんやくいしさんやくの原料である。

 浅川は土方家の直ぐ近くを流れる川で、よううしに牛革草を摘むのが毎年の恒例だ。

 しかも早朝から駆り出されるため、自然と早起きになる。

 江戸に来てからはもう、牛革草を摘むことはなくなったが、この時期に早起きするのは当時の習慣が身についてしまったからのようだ。

 困った癖だと舌打ちする歳三を、源三郎は温和に笑った。

「それは君が変わってないからだよ。何も無理して変わろうとしなくていいと、私は思うけどね。この私だって、現在も畑仕事やまきり、飯の支度は好きだ。剣術と同じくらいにね。暇なら、実家に行ってきたらどうだい?」

「よしてくれよ。帰ればうるせぇ連中になにをいわれるかわからん。日野は江戸より静かで嫌いじゃねぇが、俺は出稽古以外では足を自ら運ぶことはしねぇと決めたのさ」

「やはり君は昔のままだ。まっすぐで、決してブレない。私はそういう君は嫌いじゃないよ。土臭くたっていいじゃないか。君は、そう思って武士になろうとしたんじゃなかったのかい?」

 源三郎の言葉に、俺は「ああ」と返事した。

 農民上がりだろうと武士になると決意し、抱いた夢。形こそはなったが、本当の意味での武士はまだなれてはいない。理想するその姿は影すらも見えていないが、諦めるわけにはいかない。

「今日は、暑くなりそうだな。げんさん」

 再び昊に視線を向ける歳三に対し、源三郎は「そうだね」といって彼も昊を見上げたのだった。 

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