第四章 おれたちの夢
第一話 動乱再燃!
文久二年(1862年)一月十五日――、この日の
(雪になるかも知れんな……)
磐城平藩上屋敷は
しかし今の世は、混乱期にある。
やはり
――無理だ。
信正は、自らからの問いを否定した。
攘夷ができるものなら、とっくにしている。
隣国・清が異国相手に戦ってどうなったか、上のものは知らぬ者はいない。
だが、朝廷との関係を
そんな中、
その一つとして、現将軍・
漸く勅許が降りたのは、万延元年の晩秋である。
なのに、だ。
信正の心に、この日の昊のような思いモノが覆い始める。
「殿、
門前で昊を見上げたまま動かぬ
この日は、
(なんだ?)
彼自身にも、その正体がわからなかった。
しかし、答えはでることはなかった。
◆
江戸・
昔は冷えた床などなんでもなかったが、六畳間の一室で暮らすようになったからなのか、さすがの歳三も、冷たい床への最初の一歩に
もちろん、そんなことは口には出さないが。
――
立場上は同じ
「……なんだ?」
歳三の背後にいたのは、稽古着姿の総司だ。
「そんなに
「警戒なんぞしてねぇよ。お前は、背後から
歳三が総司を見て嫌そうな顔をしたのは、彼の
一緒に
歳三は井戸に向き直ると、
「朝っぱらから怖ろしい想像をしますねぇ。じゃ、なんで
総司は九歳から試衛館門下であり、立場上は総司は歳三の兄弟子である。
さすがに十代後半から
稽古だろうと手は抜かないのが、総司だ。つくづく同じ門下で良かったと思う歳三である。
「うるせぇな。それより、あのことは誰にも話しちゃいねぇだろうな? 総司」
「あのことって――、なんでしたっけ?」
剣を握れば鬼と化す総司が、こてんと首を
「
「土方さんのご
総司の言葉は、最後までいい終わらぬうちに飲み込まれた。
歳三には、俳句の趣味がある。それがよりによって、総司に書き連ねた句集・豊玉発句集を見られ、以来総司は歳三の
そんな歳三たちの背後に、また誰かが立った。
「朝からそこでなにをしているんだ? 二人とも」
立っていたのは、その
「軽い腕ならしさ。なぁ? 総司」
歳三の言葉に、歳三に
不意に、勇の顔が曇る。
「なにか、あったか? 近藤さん」
歳三は勇のことを人前では若先生と呼び、二人の時は「勝ちゃん」と呼んでいたが、勇が正式に試衛館の主となってからは「近藤さん」と呼んでいる。
「……トシ、またやられたぞ」
「?」
「老中・安藤さまが襲われた」
◆◆◆
その事件が起きたのは、昨日の朝だという。
老中・安藤信正の行列が登城するため藩邸を出て
幸い老中・安藤信正は助かったそうだがが、桜田門での大老襲撃に続き、またも
「とんだ正月だ」
試衛館と隣り合う近藤家の勇の部屋で、総司が
昨日は小正月である。
「――攘夷派の連中か?」
両腕を組んで勇の斜め横に座っていた歳三は、
そんなことをしでかす人間は、攘夷派の人間しか思い浮かばなかった。
もちろん〝攘夷〟を叫ぶ人間は食い詰め浪士の中にもいるようだが、幕閣の人間を襲う
死を恐れず上に向かえる人間となると、現在の幕府に異を唱えているという水戸、長州、薩摩などの
「恐らくな。だがな、トシ」
「わかってるよ、近藤さん。奴らは間違ってる。幕閣の人間を斬ったところで、なんの解決にもならねぇ。それで世が変わると思ってるなら、とっくに変わってるよ」
歳三は幕府の人間ではないが、襲撃を繰り返しても
異国からこの
「これからどうなるんでしょうね? この国は」
総司が
「俺たちのようなものが
勇は溜め息をつくと、
「誰かが、馬鹿どもに
「おい、トシ……」
歳三まで人斬りに走ると思ったのか、勇の表情が
「安心しな。俺はなにもしねぇよ。あんたのいう通り、俺たちはただの浪士だ。攘夷にとやかくいうつもりはねぇが、だからと
いつかは、誰かを斬らなきゃならない時がくる。
「そんな時がくると思いますか? 土方さん」
総司の問いに、歳三は軽く笑った。
「さぁな。俺には先のことはわからねぇよ。
「変わった能力ですね」
「俺は多摩の百姓生まれだぜ。だがそんな俺でも、刀を
歳三の言葉に、勇は黙っていた。
勇も、歳三と同じ多摩の百姓生まれである。ともに〝真の武士になろう〟と誓ったが、今や勇はこの試衛館を背負って立つ立場となった。妻子もいる。
歳三はそんな勇の返事を待つことなく、
勇にはああいったが、実際のところ、歳三にも自分の目指している武士像はまだ見えていなかった。
腰に差す刀がこれから先、なんのために抜くことになるのかも。
◆
攘夷の動きは、決して江戸だけのものではなかった。
朝廷のお
「このまま、水戸の連中に先を越されるわけにはいかん」
場所は京・
「じゃっどん(※しかし)、
「ならば、納得してもらえばよか。我が薩摩も攘夷決行すべきと」
「いけんすっと? (※どうするのだ)
有馬と呼ばれた男は、
「関白・
有馬のいう殿とはもちろん、薩摩藩主・
島津久光は公武合体に傾き、攘夷には消極的である。
関白・九条尚忠と所司代・酒井忠義は幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めた人物である。
だがこの暗殺計画は実行されることはなかった。
彼らが動くよりも先に、同じ薩摩藩士の手で討たれたからだ。
「この国は……、このままじゃ異国に乗っ取られて終わる……、後悔してからは襲いんじゃ……」
血の惨劇の場となった寺田屋で、
有馬新七は、静かに目を閉じた。
そして二度と、目を開けることはなかった。
京の都での騒動は、遠く離れた江戸にいる歳三たちの耳には入っては来なかった。
幕閣や大名、旗本ならある程度の世情はわかるだろうが、一介の浪士に過ぎない彼らである。難しい話をされても、ついていくのが関の山だ。
季節は初夏、歳三は部屋から廊に出ると、
「やぁ、早いね。トシ」
歳三の部屋は中庭に面し、
源三郎は勇よりも年上で、温和な男である。
歳三と同じ武州・多摩は日野出身、家は八王子千人同心の家系だが、剣よりも
「この癖には嫌になるぜ。土臭さが抜けやしねぇ」
歳三はいつもなら、もう少し
「畑仕事が嫌いだったのかい?」
歳三の家は、源三郎の家と違って農家だ。周囲の農家よりは裕福なほうだが、この時季は欠かせない作業がある。
歳三は、源三郎の問いかけを否定した。
「そんなことはねぇが、今の俺はあの頃の俺じゃねぇ。なのにだ。もう手伝わなくてもいいとわかっても躯が反応しちまう。
牛革草は、歳三の実家で毎年造られる
浅川は土方家の直ぐ近くを流れる川で、
しかも早朝から駆り出されるため、自然と早起きになる。
江戸に来てからはもう、牛革草を摘むことはなくなったが、この時期に早起きするのは当時の習慣が身についてしまったからのようだ。
困った癖だと舌打ちする歳三を、源三郎は温和に笑った。
「それは君が変わってないからだよ。何も無理して変わろうとしなくていいと、私は思うけどね。この私だって、現在も畑仕事や
「よしてくれよ。帰ればうるせぇ連中になにをいわれるかわからん。日野は江戸より静かで嫌いじゃねぇが、俺は出稽古以外では足を自ら運ぶことはしねぇと決めたのさ」
「やはり君は昔のままだ。まっすぐで、決してブレない。私はそういう君は嫌いじゃないよ。土臭くたっていいじゃないか。君は、そう思って武士になろうとしたんじゃなかったのかい?」
源三郎の言葉に、俺は「ああ」と返事した。
農民上がりだろうと武士になると決意し、抱いた夢。形こそはなったが、本当の意味での武士はまだなれてはいない。理想するその姿は影すらも見えていないが、諦めるわけにはいかない。
「今日は、暑くなりそうだな。
再び昊に視線を向ける歳三に対し、源三郎は「そうだね」といって彼も昊を見上げたのだった。
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