第六話 桂小五郎の思惑

赤坂はほんかわざか――北西から南東へ上る坂道は、かなり曲がりくねった少々長い坂である。坂上の東側は氷川神社があるが、彼が向かったのは坂下にある一軒の家だった。

 住人の名は勝海舟――ぐんかんそうれんしよきようじゆかたとうどりから今は、こうしよほうじゆつはんに就いている幕臣である。

桂小五郎は、これから我々はどうすべきか迷いの中にいた。

 長州の藩内は、長州藩直目付・なががくによる『航海遠略策』を藩論とした。

 航海遠略策は異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする策らしい。

 久坂玄瑞をはじめとする江戸にいる長州藩の若き攘夷派は、長井を斬るべしと考えているようである。もともと開国派の長井とは対立関係ではあったが、安政の大獄で吉田松陰が捕縛され、後の江戸護送に対しても長井が強硬な対抗策を取らなかったのも要因である。

 さらに、長井の策は勅許なしでの条約締結による開国を是認するものであり、帝をおろそかにする政策だと、松陰門下で攘夷派である桂も思っている。

 だが、ことを起こすには慎重に実行すべきだとも桂は考えている。まずは幕府の動きを見極めようと彼らを説き伏せてきたが、はたして幕府は、今の情勢をどう思っているのか――桂は知り合った人物の中で唯一、幕府側に近い勝に聞いてみたかったのである。

 

「俺に聞きてぇことがあるって?」

 座敷で待っていると、勝が両腕を組んで現れた。

「ご迷惑ならば日を改めます」

「構わねぇよ。ご覧の通り暇でな。ばつかくのばかどもは頭が固くて困るぜ」

 勝は以前は軍艦操練所教授方頭取という要職に就き、咸臨丸にて米国メリケンまで行ったことがあるらしい。だが帰国後は海の軍事から切り離されたらしく、かなり不満のようである。

「勝先生、幕府はこの混乱をどう収拾させると思われますか?」

「こう見えても俺は幕府側の人間だ。お前さんたち他藩が揺れている幕府を歯痒く思うのはわかる。だがいくら異人を襲ったところで、何も解決しねぇ。それでも異国とやるかい?」

聞いたつもりが、逆に聞き返された桂である。

「攘夷が、帝の御意志でもですか?」

 孝明帝こうめいていが大の異人嫌いだということは、有名な話である。朝廷の許可なく条約締結に及んだ幕府に対し、朝廷の中にも不満は多いという。

「だが、この国の中で異国と戦をすることは望んでいねぇと俺は思うぜ。それに――同じところにいても意見まで同じとは限らねぇ。俺がいい例だ。まずは堅物連中の頭を柔らかくするこった」

 勝の言うとおり、長州は幕府が打ち出した公武合体に傾いている。

 桂は、幕政改革は考えなかったわけではない。

 万延元年七月、軍艦「へいしんまる」の艦上にて桂は数人の水戸藩士と密約を交わしていた。 丙辰丸は江戸への練習航海で江戸湾に碇泊中の長州藩の軍艦で、機密保持のため会合の名目は長州産の塩と水戸産の大豆の取り引き交渉とした。

 協定の内容は両藩が提携して急速に幕政改革を行うというもので、世の中をかき乱し、混乱に乗じて改革を成し遂げるという計画で、水戸が世の中をかき乱す役目を、長州が混乱に乗じて改革を成し遂げるというものだ。

 しかし、盟約は結ばれたものの、長州藩では尊王攘夷派と開国佐幕派の主導権争いの結果、開国佐幕派の長井雅楽の航海遠略策が藩論となった。

 勝の言うとおり、藩の意見を一つにしなければならないのだろう。

 勝家かつけを辞したのは午九ツ半――掘割を歩いていると見覚えのある男が前から歩いてくる。「確か……桂さんじゃったのう」

 癖の強い頭髪をボリボリと掻きながら、男はのんびりとした口調で話しかけてきた。

 桂が彼と出会ったのは安政四年の三月に入ったころ、鍛治町・土佐藩上屋敷にて行われた剣術試合である。桂の試合相手は、北辰一刀流の桶町千葉道場の門弟・坂本龍馬という男だった。

 土佐藩上屋敷での龍馬との対戦は、三対二で桂が勝った。

「稽古の帰りですか? 坂本どの」

「重太郎先生に飲みに誘われたきに、これから行こうとしとったがよ」

 重太郎とは、玄武館創設者・千葉周作の甥にして、桶町千葉道場の現道場主である。

「君もてっきり、勤王党に加わっていると思っていたよ」

 桂は水戸ばかりではなく、土佐藩の攘夷派とも顔を合わせている。

 土佐藩も西洋列強国が迫る国難にあっても攘夷を実行する者はなく、なおかつ土佐藩前藩主・山内容堂公は安政の大獄後、幕府より謹慎の沙汰が下ったという。そして土佐藩もまた公武合体派に傾き、土佐藩攘夷派は土佐の藩論を「一藩勤王」に転換しようと勤王党を結成したという。

「そういえば、武市たけちさんがそないな話をしとったのう。武市さんと知り合いかえ?」

 武市は名を武市半平太といい、桂は久坂玄瑞とともに彼に会っている。

「うちにも、血気盛んな若者がいてね」

「桂さんも、攘夷をしゆうが?」

「この国は危機に晒されている。幕府が動かないのなら、誰かが動かなくてはならん」

「桂さんは異国船を見たことがあるかえ? わしは一度見ちょる。ありゃあ怪物ぜよ」

 怪物と言われて、桂は松陰が言っていたことを思い出した。


 松陰こと吉田松陰は嘉永六年の黒船来航時、師の佐久間象山と黒船を遠望観察したという。「あれは怪物だよ」のちに松下村塾にて、桂たち門下生の前で松陰は語った。


「その怪物に、この国は食われようとしているのだよ」

「わしには難しいことはわからんがよ。戦になりゆうと武市さんはいっちょったが、桂さんもそう思うがか?」

 龍馬の問いに、桂は「さぁ」と返した。

「なんとまぁ、気のない返事じゃ。けんど、そん時はそん時じゃ。こん国は守らなぁあかんとわしも思うちょる。ああ、それと――あのときの試合じゃが、今度は負けんがよ。わしゃ、負けず嫌いじゃきに」

 龍馬はそう言って去って行く。

 はたしてそんな日が来るのだろうか。国を憂うことなく、剣術に思い切り乗り込める日が。だとしたらどんなにいいか。

藩邸に寄る途中、彼はまたも意外な人物に出くわした。

(今日はやたら人に会う日だ)

 桂はそう思うと、軽く笑った。


☆☆☆


 申の刻――試衛館の裏木戸が軋みを立てて開いた。

 いくら音を立てまいと思っても、その裏木戸は建て付けが悪いため音がしてしまう。彼としては目立ちたくないのだが、そんな時に限ってやってくる人物がいる。

「いつも思うけど、いい加減にこそこそ入ってくるのやめたら? はじめくん」

 片手に竹刀、もう一方には胡瓜を手に総司が斉藤の前に立った。

 剣才と言われいる沖田総司。斉藤より二つ上だが、どちらが剣では上か斉藤はまだ試していない。ただ、木刀で軽く合わせた瞬間、斉藤には総司の強さがわかった。本気で打ち合えばどうなるかわからないが、にこにこ笑っている総司の裏の顔を見てしまった斉藤は関わらぬほうが懸命と、総司から稽古しようという誘いをかわしている。

「別にこそこそしているわけではない」

「へぇ。その割には仏頂面じゃない? ま、仏頂面の顔は他の人で見慣れてるけど」

 そう言って総司は胡瓜を囓る。

「土方さんか」

 斉藤が知り得る試衛館住人の中で、総司の言葉に当てはまるのは歳三だけだった。

「あの人もたまに仏頂面でその裏木戸から帰ってくるんだ。で、君の機嫌の悪さは何が原因?」


 朝方のことだ。麹町にある無外流道場での稽古を終えた斉藤は、道場を少し行ったところで数人の門弟に絡まれた。

 どうやら斉藤に、稽古で負け続けているのが気に入らないらしい。だが稽古ならともかく、喧嘩まがいの打ち合いは法度で最悪、破門である。

 それがわかっているのか口で罵られただけで終わったが、斉藤としてはこれ以上絡んで来ないように骨一本でも追ってやりたかった気分だ。

 それだけなら良かったのだが――


「桂小五郎という男と会った」

 斉藤がそう言うと、

「一くんも会ったんだ。彼に」

 と、総司が軽く笑った。

「いや、会ったのは今日が初めてだ」

 斉藤はなぜ、桂が話しかけてきたか、最初はわからなかった。


 ――私の仲間がある男と出会っていてね。その男は無外流の道場に入っていったそうだ。


 そう聞いて斉藤は思いだした。試衛館に出入りする前、斉藤は自分に向かって駆けてきた数人の男たちと会った。訳ありだったのか斉藤を見る目は警戒心むき出しで、斉藤は面倒なことに関わりたくないためその場から立ち去った。ゆえに彼らが何者で、そんなことがあったことも今日まで忘れていた斉藤である。

 なるほど、桂はあの男たちの仲間だったかと斉藤は納得した。

 ただ、その桂から試衛館の名が出るとは思わなかった。

 桂が斉藤に近づいてきたのは仲間からの話と、もう一つあった。

 ――実は、君によく似た男がいてね。

 そう桂は言った。試衛館の名は、そのあとに総司の名と一緒に出てきたのだ。

 彼がそのとき何を話したのかは知らないが、桂に印象強く残ったのは彼が言う「君に似た男」らしい。

 おそらくそれは、総司ではないだろう。どう見ても斉藤と総司は似ていない。


「一くん、そこでも仏頂面してたんじゃない?」

 総司がそう言った。

 斉藤としてはそんなつもりはなかったが、総司や桂からみればよほど不機嫌そうに見えたらしい。

 だがいま、桂が誰のことを言っていたのかわかった。

 総司も桂を知っているとなると、そこにいたのは歳三だろう。

「一くん、桂さんと会ったことは土方さんに言わない方がいいよ」

「何故だ?」

「機嫌が悪くなるからさ」

 すると、その本人がやってきた。

「お前ら、こんなところでなにをしてやがる」

 斉藤は歳三の顔を見て、なるほど俺はこんな顔をしていたのかと思った。

 歳三は眉を寄せ、眉間に小さな皺を刻んでいたのだ。

「私は稽古を」

 総司が答えると、歳三の目がさらにすわった。

「胡瓜を食いながらか?」

「まさか、稽古が終わったので畑から失敬してきたんですよ。食べます?」

 胡瓜はもう一本あったらしい。

「いらねぇよ。で、斉藤は?」

 矛先がこっちにむき、斉藤は焦った。

「俺は今、来たばかりですよ」

 本当は来てからかなり経っていたのだが、歳三の目は疑っている目で、

「ふぅん」

  と、なんとも言えない納得の仕方である。この男相手に軽口を言える総司はさすがである。だが――

 基本、一人を好む斉藤だが、ここは居心地の良さを感じていた。

 これまで無意識に出入りしていたが、斉藤にはそれがわかった気がするのだった。

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