絡まる
つるよしの
絡まる
復員後、はじめて訪れた故郷の寺は、雪に埋もれ、まるで一枚の水墨画のような様相だった。
そのせいだろうか。
だから、目の前にあるのが
そんな光景のなか、いまここに、たしかに存在するいのちは俺と邦正のふたりのみだった。やがてそれを示すように、邦正の唇から、はぁ、という息が漏れた。それは白い湯気となって、たちまち降りしきる雪のなかに溶けてゆく。そして邦正が、ゆっくりと俺の方に身体ごと振り向いた。
生来、薫にそっくりだった面影は、
「ずいぶん、遅かったね。
邦正が僅かに微笑みながら、俺に声を掛ける。その声だけはか細いながらも若い男性のそれで、俺は我に返る。そうだ、目の前に居るのは、薫ではないのだ。薫はその土塊の下に骸となって埋まっている。俺は、彼女の墓参に来たのだ。邦正に会うためではない。俺は手に携えた菊の花束をぎゅっ、と握りしめ、そう自分に言い聞かせる。
「ああ。満州から撤退する途中、ソ連兵の待ち伏せに遭って、そのとき右脚を撃たれた。幸いなことに、その土地の支那人が良くしてくれて助かったが。だが、それのおかげで、帰ってくるのが今ごろになってしまった」
「へえ、右脚。
「一緒にするな。お前の脚が悪いのは生まれつきじゃないか。それに俺の脚はもう完治している」
「……それは残念」
邦正はいかにも皮肉だとばかりに、口の端を歪めて薄く笑った。
俺は思わず彼を張り倒してやりたくなったが、続いて響いた邦正の声がその衝動を抑えつけた。
「姉さんの墓参りに来たんじゃないのかい。せっかくの菊が凍えちまっているよ。わざわざ仙台まで行って、花屋で買い求めてきたんだろ?」
俺は手元の花束に目を落した。白と黄色の可憐な菊の花弁は、彼が言うとおり白い粉に薄く覆われていた。俺は邦正を押しのけるように薫の墓の前に歩を進めると、さっき彼がそうしていたように跪き、花束を地べたに置いた。ついで、ポケットから線香の束を取り出し、マッチで火を付けようとしたが、雪でマッチが湿ってしまったようでなかなか火が付かない。
すると邦正がすっ、と横から俺の手に新しいマッチを差し伸べてきた。至近距離で長い黒髪が、ゆらり、揺れる。
「ずいぶん用意がいいんだな」
「たまたま持っていただけだよ、煙草用に」
「まだ煙草を吸っていたのか。薫からやめるように、さんざ言われていただろうが。御国のために役に立てないくせに、そういうところだけは相変わらず一人前だな」
そう言いつつも俺は、邦正の手からマッチをひったくるように奪うと、かじかむ手でそれを擦りつけた。漸く火が点り、線香から辛気くさい匂いが煙り出す。俺はそれを嗅ぎながら、しばし、目を瞑って土塊に手を合せていたが、そうしているうちに得も知れぬ激情が心のなかで渦を巻いて、気が付いたときには俺は邦正の胸ぐらを掴んでこう怒鳴っていた。
「どうしてお前が生き延びている!? どうして薫が死んで、お前が死ななかったんだ!?」
「義兄さん、手に髪が絡んで、ちょっと痛いよ」
「知ったことか! 相も変わらず、男のくせにこんなに長く髪を伸ばしやがって! この非国民が!」
「姉さんから受け継いだ髪だからね」
その邦正の冷たい声に俺ははっ、として、乱暴に手を彼の胸元から振りほどいた。反動で、どさり、と邦正は墓地の白い地べたに転がった。しかし地に伏せつつも邦正の顔には、なおも、俺を嘲る笑いが色濃く宿っている。そして、その表情に一瞬怯んだ俺の隙を突いて、邦正は素早く俺のコートの裾を掴むと、強く自分の方に引き寄せた。
不意を突かれて俺の身体は均等を失い、次の瞬間、邦正の上にどさり、と崩れ落ちていた。
邦正の髪がふわり、と俺の頬を
「う、ぐっ……!」
「はは、やっぱりほら右脚、治ってないじゃないか。僕とおそろいだ。ほら、ここをこうすると、もう痛くて、とても立ち上がることも叶わないだろ? 脚の悪さに関しては僕の方が遥かに先輩だからね、分かるんだよ」
薫そっくりの眼差しが、苦悶の声を上げる俺を舐めまわすかのように見つめている。いや、これは薫などではない。あの愛しい妻の瞳などではない。まるで毒蛇のように邪な眼だ。
やがてその目が、すっ、と細まり、ついで思いもよらぬ言葉が俺の鼓膜を叩いた。
「義兄さんのせいだよ」
「……なに?」
「姉さんが死んだのは、義兄さんのせいだと、言ったんだ」
「え?」
俺は降りしきる雪の下、邦正に我が身を弄ばれているのも一瞬忘れて、目を見張った。
そんな俺を見上げながら、邦正は淡々と語を継ぐ。
「義兄さんは、かねてから自分が出世できないのは、素行不良な義弟のせいだと僕を恨んでいたんだよね。だから僕にも重ねてこの髪を切るように言ってきていたし、兵役に就けないのならそれらしく大人しくしていろ、と苦言を口にしていた。まあ、そこまでは、まだ良かったんだよ」
墓地の地べたに転がされた身にしんしんと寒さが染みる。それは邦正も同じだろうに、彼の目は澱んだ熱に浮かされたかのように、昏く燃えている。
「もう覚えてないかもしれないけど、義兄さんは徴兵される直前、職場の同僚に、自分の義弟は、どうも帝大に行ってから
「……」
「それを聞いて、慌てて薫姉さんは、仙台に飛んできた。七月九日のことだ」
「七月九日……」
「そして、翌日の仙台空襲に巻き込まれて、姉さんは死んだ。……つまりはそういうことだよ、義兄さん」
「……そんな……」
俺はあまりのことに絶句して、乾ききった喉からは掠れた声しか出すことができない。
邦正はそんな俺を見て愉快そうに、あはは、と笑うと、自らの髪の一房をつまみ、俺の喉元をつぅー、っと撫でてきた。
「ところで、義兄さん。僕の髪は相変わらず長いままだけど、これでも、少し切ったんだよ? 義兄さんが望んだとおりに。それも僕の意志じゃない。『お前の義兄の言うとおりだ』って言いながら、警官が剃刀で切りやがったんだ。まあそれも、空襲のおかげで全部ばっさりとはやられなかったんだけど」
「……やめ、ろ……」
「まったく、
邦正の舌が、ちろ、と、またもや毒蛇のように首を這いずる。しかし、ことの真相に脱力しきった俺の手足には、もう抵抗する余力が無い。俺は邦正の歪みきった憎悪と愛情の為すがままにされている。
「ずっと、こうしてやりたかった」
相変わらず雪は静かに、寺の墓地に降りしきっている。
長い黒髪が視界の隅で、またも、ふわり、ふわり、揺れる。
またひとつ、天から落ちてきた白い粒が、邦正の長い黒髪に音もなく絡み取られていく。その光景を、俺は冷たく乾ききった感情の底から、ただ、見つめているしか術がなかった。
絡まる つるよしの @tsuru_yoshino
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