絡まる

つるよしの

絡まる

 復員後、はじめて訪れた故郷の寺は、雪に埋もれ、まるで一枚の水墨画のような様相だった。

 そのせいだろうか。邦正くにまさが亡き妻の墓の前に跪き、長い黒髪をたなびかせ、白く染まった世界で一心に祈っている姿は異界めいていて、俺はここがあれほどまでに恋い焦がれた故郷だという実感が持てなかった。

 

 だから、目の前にあるのがかをるの墓標だという現実も、どこか受け入れがたい。

 

 そんな光景のなか、いまここに、たしかに存在するいのちは俺と邦正のふたりのみだった。やがてそれを示すように、邦正の唇から、はぁ、という息が漏れた。それは白い湯気となって、たちまち降りしきる雪のなかに溶けてゆく。そして邦正が、ゆっくりと俺の方に身体ごと振り向いた。


 生来、薫にそっくりだった面影は、よわい二十二を超えてもなお、生き写しかと思うほどに似ている。ことに男性にしては白い肌に細い顎、その輪郭を囲むように広がる黒い髪は彼女を思い出させる以外の何物で無く、思わず俺は、寒さのせいでない震えが身体中に走るのを、止めることができなかった。


「ずいぶん、遅かったね。義兄にいさん」


 邦正が僅かに微笑みながら、俺に声を掛ける。その声だけはか細いながらも若い男性のそれで、俺は我に返る。そうだ、目の前に居るのは、薫ではないのだ。薫はその土塊の下に骸となって埋まっている。俺は、彼女の墓参に来たのだ。邦正に会うためではない。俺は手に携えた菊の花束をぎゅっ、と握りしめ、そう自分に言い聞かせる。


「ああ。満州から撤退する途中、ソ連兵の待ち伏せに遭って、そのとき右脚を撃たれた。幸いなことに、その土地の支那人が良くしてくれて助かったが。だが、それのおかげで、帰ってくるのが今ごろになってしまった」

「へえ、右脚。ソ連兵やつらも粋なことをしてくれるものだね。それじゃあ、いまや、僕とおんなじじゃないか」

「一緒にするな。お前の脚が悪いのは生まれつきじゃないか。それに俺の脚はもう完治している」

「……それは残念」


 邦正はいかにも皮肉だとばかりに、口の端を歪めて薄く笑った。

 俺は思わず彼を張り倒してやりたくなったが、続いて響いた邦正の声がその衝動を抑えつけた。


「姉さんの墓参りに来たんじゃないのかい。せっかくの菊が凍えちまっているよ。わざわざ仙台まで行って、花屋で買い求めてきたんだろ?」


 俺は手元の花束に目を落した。白と黄色の可憐な菊の花弁は、彼が言うとおり白い粉に薄く覆われていた。俺は邦正を押しのけるように薫の墓の前に歩を進めると、さっき彼がそうしていたように跪き、花束を地べたに置いた。ついで、ポケットから線香の束を取り出し、マッチで火を付けようとしたが、雪でマッチが湿ってしまったようでなかなか火が付かない。

 すると邦正がすっ、と横から俺の手に新しいマッチを差し伸べてきた。至近距離で長い黒髪が、ゆらり、揺れる。


「ずいぶん用意がいいんだな」

「たまたま持っていただけだよ、煙草用に」

「まだ煙草を吸っていたのか。薫からやめるように、さんざ言われていただろうが。御国のために役に立てないくせに、そういうところだけは相変わらず一人前だな」


 そう言いつつも俺は、邦正の手からマッチをひったくるように奪うと、かじかむ手でそれを擦りつけた。漸く火が点り、線香から辛気くさい匂いが煙り出す。俺はそれを嗅ぎながら、しばし、目を瞑って土塊に手を合せていたが、そうしているうちに得も知れぬ激情が心のなかで渦を巻いて、気が付いたときには俺は邦正の胸ぐらを掴んでこう怒鳴っていた。


「どうしてお前が生き延びている!? どうして薫が死んで、お前が死ななかったんだ!?」

「義兄さん、手に髪が絡んで、ちょっと痛いよ」

「知ったことか! 相も変わらず、男のくせにこんなに長く髪を伸ばしやがって! この非国民が!」

「姉さんから受け継いだ髪だからね」


 その邦正の冷たい声に俺ははっ、として、乱暴に手を彼の胸元から振りほどいた。反動で、どさり、と邦正は墓地の白い地べたに転がった。しかし地に伏せつつも邦正の顔には、なおも、俺を嘲る笑いが色濃く宿っている。そして、その表情に一瞬怯んだ俺の隙を突いて、邦正は素早く俺のコートの裾を掴むと、強く自分の方に引き寄せた。

 

 不意を突かれて俺の身体は均等を失い、次の瞬間、邦正の上にどさり、と崩れ落ちていた。

 

 邦正の髪がふわり、と俺の頬をくすぐる。その不快な感触がぞわぁ、と俺の背筋を駆け上がる。そして、邦正の熱い舌までもが俺の首筋を這いずりまわる。仕留めた獲物を嬲るかのように、ゆっくり、じっとりと。やがて荒い息が顔に触れるに至り、慌てて立ち上がろうとすれば、邦正に強く右脚を蹴飛ばされ、それもうまく行かない。


「う、ぐっ……!」

「はは、やっぱりほら右脚、治ってないじゃないか。僕とおそろいだ。ほら、ここをこうすると、もう痛くて、とても立ち上がることも叶わないだろ? 脚の悪さに関しては僕の方が遥かに先輩だからね、分かるんだよ」


 薫そっくりの眼差しが、苦悶の声を上げる俺を舐めまわすかのように見つめている。いや、これは薫などではない。あの愛しい妻の瞳などではない。まるで毒蛇のように邪な眼だ。

 やがてその目が、すっ、と細まり、ついで思いもよらぬ言葉が俺の鼓膜を叩いた。


「義兄さんのせいだよ」

「……なに?」

「姉さんが死んだのは、義兄さんのせいだと、言ったんだ」

「え?」


 俺は降りしきる雪の下、邦正に我が身を弄ばれているのも一瞬忘れて、目を見張った。

 そんな俺を見上げながら、邦正は淡々と語を継ぐ。


「義兄さんは、かねてから自分が出世できないのは、素行不良な義弟のせいだと僕を恨んでいたんだよね。だから僕にも重ねてこの髪を切るように言ってきていたし、兵役に就けないのならそれらしく大人しくしていろ、と苦言を口にしていた。まあ、そこまでは、まだ良かったんだよ」


 墓地の地べたに転がされた身にしんしんと寒さが染みる。それは邦正も同じだろうに、彼の目は澱んだ熱に浮かされたかのように、昏く燃えている。


「もう覚えてないかもしれないけど、義兄さんは徴兵される直前、職場の同僚に、自分の義弟は、どうも帝大に行ってから共産主義思想アカに被れたんじゃないかと漏らしていたんだよね。その義兄さんの疑念は、義兄さんが出征したあと巡り巡って、どうやら警察の耳に届いてたらしいんだ。それで終戦直前の初夏、仙台に下宿していた僕のところに警官がやってきた。要するに、僕は引っ立てられたのさ」

「……」

「それを聞いて、慌てて薫姉さんは、仙台に飛んできた。七月九日のことだ」

「七月九日……」

「そして、翌日の仙台空襲に巻き込まれて、姉さんは死んだ。……つまりはそういうことだよ、義兄さん」

「……そんな……」


 俺はあまりのことに絶句して、乾ききった喉からは掠れた声しか出すことができない。

 邦正はそんな俺を見て愉快そうに、あはは、と笑うと、自らの髪の一房をつまみ、俺の喉元をつぅー、っと撫でてきた。


「ところで、義兄さん。僕の髪は相変わらず長いままだけど、これでも、少し切ったんだよ? 義兄さんが望んだとおりに。それも僕の意志じゃない。『お前の義兄の言うとおりだ』って言いながら、警官が剃刀で切りやがったんだ。まあそれも、空襲のおかげで全部ばっさりとはやられなかったんだけど」

「……やめ、ろ……」

「まったく、米軍アメ公に感謝しきりだね。……ふふ、くすぐったい? でも僕、そういう顔する義兄さんも好きだよ。いいや、そういう顔した義兄さんが、大好きだ」


 邦正の舌が、ちろ、と、またもや毒蛇のように首を這いずる。しかし、ことの真相に脱力しきった俺の手足には、もう抵抗する余力が無い。俺は邦正の歪みきった憎悪と愛情の為すがままにされている。


「ずっと、こうしてやりたかった」

 

 相変わらず雪は静かに、寺の墓地に降りしきっている。

 長い黒髪が視界の隅で、またも、ふわり、ふわり、揺れる。

 

 またひとつ、天から落ちてきた白い粒が、邦正の長い黒髪に音もなく絡み取られていく。その光景を、俺は冷たく乾ききった感情の底から、ただ、見つめているしか術がなかった。

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絡まる つるよしの @tsuru_yoshino

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