使いかけの香水

大隅 スミヲ

使いかけの香水

 猫のような顔をした女だった。

 アーモンド形の瞳に小さな鼻。人懐っこいような顔をしているのだが、どこか気分屋であり、近寄りがたい雰囲気を醸し出したりしている。

 こちらから寄っていこうとすれば、離れていき、ふとした時に甘えた表情で近づいてくる。

 あの女はまさに猫だ。


 築30年の六畳一間のボロアパート。万年床となったせんべい布団の上で胡坐をかきながらテレビを見ていると、携帯電話が着信を告げた。


 二つ折りの携帯を開き、ディスプレイを確認する。そこには見覚えのある番号と遠山とおやま生花店せいかてんの名前が表示されている。

 通話ボタンを押して、向こうが話しはじめるのを待つ。


「仕事が入った」

 低くくぐもった男の声。痰が絡んだような聞き取りづらい声。いつもと同じ遠山生花店からの電話だった。


「わかった。今夜、そっちへ行く」

 私はそれだけ告げると電話を切った。


 ちょうど金が底をつきはじめていた。年始からやっているパチンコ屋でだいぶスってしまっていた。あのじじいはそのことを見透かしたかのように仕事を持ってくる。こっちが断れないのを知っているようだった。


 携帯電話を充電用のホルダーに差し込むと、テレビを消して、筋トレをはじめた。

 腕立て伏せ、スクワット、ブリッジ。

 特に決まった回数をやるわけではなく、それぞれを疲れるまでやるのだ。

 気がつくと汗まみれになっていた。


 タオルで汗を拭い、台所でコップに水道水を注いで、飲む。

 仕事までは時間があるので、映画でも見ながら時間を潰そうと出掛ける支度をした。


 いつものように仕事用の車で、遠山生花店まで向かった。

 町はずれにあるため、車でなければ行くことは出来ない。

 あの辺りは本当に何もなく、電灯もまばらであるため、夜になると真っ暗になる。


 なんでこんな辺鄙な場所に花屋なんて建てたんだ。

 何も知らない人間であれば、そういうだろう。


 だが、あの場所でいいのだ。人の目につきにくいが、その存在は確かである。

 表向きの看板は生花店。あの女がはじめたというインターネットの通信販売が功を奏して、収入や税金など公的機関の目くらましになっている。


 農道と呼んでいいような細い道を走ると、暗がりの中にぽつんと明かりが見える。

 公衆電話だ。

 その公衆電話を左折して、まっすぐ進めば遠山生花店が見えてくる。

 店のたたずまいは、あまり良くない。どこか古めかしい建物であり、二階が住居スペースとなっている。裏にはビニールハウスや作業小屋があり、車もその辺に停めておけばよかった。

 近所にあるのは曲がり角の電話ボックスだけ。もう少し離れたところに10年前まで雑貨屋を営んでいた家があるが、いまは老夫婦が住んでいるだけだった。


 遠山生花店につくと、車を裏の空き地に停めてクラクションを鳴らした。

 しばらくすると店の裏口から小さな影が出てくる。

 遠山とおやま満男みつお。この遠山生花店の店主だ。歳は70を超えているはずだ。白髪頭にキャップを被り、農作業でもするかのような服装をしていた。


「作業小屋に3つある」

 遠山満男は抑揚のない声で告げてきた。


「3つも!」

 私は驚きを隠せなかった。いままで3つも一度に処理をしたことなどなかったからだ。

 いつも多くて2つだった。

 処理をお願いしてきた連中も、正月明けの仕事はじめから、ご苦労なことだ。


 遠山満男は私の声を無視するかのように作業小屋へと入っていってしまう。

 なぜ3つもあるのだろうか。そんな疑問を抱きながら、遠山満男の後を追うように作業小屋へ入った。


 作業小屋の中には、遠山満男の話通り3つの袋が置かれていた。

 これはひとつずつ処理しなければならないな。

 そう考えながら、作業の支度をはじめる。


 最初の袋を開けると、スーツ姿の男が入っていた。

 見るからに悪そうな顔をした男で、シャツの一部が血で赤く染まっている。


 作業袋からその男の身体を出すと、遠山満男がウインチで男の身体を持ち上げる。

 少し離れた場所に処理専用のバスタブが用意されており、その中には特殊な液体が入っていた。液体の配合については遠山満男に全部任せていた。


 もともと遠山満男は猟師だった。山に入って、鹿や熊など害獣になりうる動物を狩るのが仕事だった。狩った動物は、解体して食べれる部分は自分で食べるか、知り合いのフランス料理店などに分けたりしていたそうだ。だが、いまは生花店の店主だ。猟師は廃業したと聞いている。


 これは噂話だが、遠山満男は猟の際に人を殺している。一緒に猟をしていたパートナーだった。誤射だった。熊と間違えて撃ってしまった。その事故をきっかけに遠山満男は廃業した。

 これは人から聞いた噂話に過ぎない。本当の理由は遠山満男が自ら語らない限りは聞くことはないだろう。


 遠山満男の腕は確かだった。まるで猟で得た獲物を処理するかのように、仕事をこなしていく。バスタブに入れられた液体は肉と骨を分離させることが出来るが、骨の処理はまた別の工程でおこなう必要があった。


「ひとまず、3つ処理してしまおう」

 遠山満男の指示に従い、私は作業を続ける。ここでは感情というものを持ち合わせてはいけない。すべてのことを作業として淡々と行うのだ。


 三つ目の袋を開けたとき、私は息をのんだ。

 入っていたのは女だった。

 その顔には見覚えがあった。あの猫に似た顔をした女だ。


「遠山さん……」

 私の言葉に遠山満男は首を横に振るだけだった。


 私の声は震えていただろう。感情を捨ててこの作業に取り掛かっていたはずなのに、様々な感情が私の中から吐き出されようとしていた。


「余計なことは考えるな。仕事しろ」

 遠山満男の厳しい声が聞こえてくる。

 その声に私は我に返り、様々な感情を押し殺した。


 この猫のような顔をした女は遠山の娘だった。名前はミサキといったはずだ。

 なぜ、彼女を処理しなければならないのだろうか。

 私の中で疑問が生まれつつあったが、それを無理やり私は抑えつけた。


 すべての処理が終わったのは、明け方のことだった。

 3つあった物体は、原型を留めてはいない。

 液体を中和させ、バスタブの中に残っている物体を乾燥させて粉上にする。

 これを肥料と混ぜると、とても良い花が咲くようになるという話を遠山岬が聞いたことがあった。

 遠山岬はどのような花を咲かせるのだろうか。

 私はそんなことを考えながら、バスタブの中の物体をかき集めた。


 どこかから赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。

 空耳。鳥か何かが鳴いている声がそう聞こえただけだろうか。

 最初はそう思ったのだが、それにしてはやけにはっきりと聞こえた。


 遠山満男が作業着を脱ぎ捨てると、作業小屋から出て行った。

 どこか慌てたような顔をしていた気がする。


 しばらくすると、遠山満男が赤ん坊を抱えて現れた。

「え?」

 予想外な展開に、私の頭の処理は追いつかなかった。


「岬の娘、なぎさだ」

「そう……なんですか」

「ああ。このは元気だが、あいつは……」


 遠山岬は病死だった。普通に葬式を出せばいいのにと思ったが、遠山岬は記録上では存在しない人物。戸籍は元々遠山岬であった人物から借り受けているものだということだ。では、元々の遠山岬はどうなったのだろうか。そこについては、なにも遠山満男は何も語らなかった。


 赤ん坊の父親は誰なのか。まかさ、遠山満男だというのだろうか。

 それについて、遠山満男は否定した。だが、父親は不明だという。岬は父親について誰にも話すことはなく、死んでしまったのだ。


「ひとつ、相談なんだが」

 私はその遠山満男からの相談に絶句した。

 そんなことは無理だ。出来ない。

 


 私はきちんと母親として、渚を育てることが出来ただろうか。

 すくすくと育っていく渚のことを見ながら、そんなことを考えていた。


 あの日、遠山満男から言われたのは、渚の母になってほしいということだった。

 たしかに満男がひとりで赤ん坊を育てられるとは思っていなかった。


 しかし、どうして私が母なのだろうか。

 そう思っていたが、渚を抱いてみると、どこかで私の中に母性というものが生まれていた。


 渚の母親である岬の部屋には、使いかけの香水の瓶が置かれていた。

 それは彼女が使っていたもののようだ。


 その香水の瓶を開けると、渚は泣き止んだ。彼女にとって、これが母親の匂いなのだろう。

 その日から、私はこの香水を使うようになった。

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