辞めたい社畜〈四〉
そうだった。私は怪獣デザイナーに成りたかったんだ。
私は、私の人生を彩っていた作品の数々を、クローゼットの闇の中に押し込んでいた。
「ウソ……。私、最近ちっとも忙しくなかったよ。せっかく貯まってた有給を使って何日も何日も仕事休んでたのに、その間ぜーんぜん絵を描かなかったの。仕事のじゃない、趣味の絵を描かなかった……描きたいとも思わなかった」
最後にスケッチブックを開いたのが何年前だったのかすら思い出せない。
パソコンに新しいイラスト制作ツールをインストールしても、仕事のファイルしか開かなかった。
「もう、スケッチブックを見るのも嫌だったし、ペンタブも握りたくなかった。『この絵を描いて何になるの?』とか、『この絵は何時間で描けて、いくらで売れるの?』とか考えたら馬鹿馬鹿しくなっちゃってさ」
凪は、自分の目を見つめていた視線に気が付いた。その目は、凪の目と同じく潤んでいるように見えた。
「専門の授業で初めて凪を見かけたときのこと、はっきり覚えとるよ。靴を脱いで、しゃがむ感じで椅子に座っとってさ。色鉛筆も床に散らかしながら、スケブ抱えて一心不乱に何か描いてるわけ。見てみたら、繊細なタッチで植物だか動物だかわからんもん描いててさ――」
――「何描いとるの?」
――「口から緑化胞子線を吐いて高層ビル群を削り取り、コンクリートジャングルを脱文明化する怪獣」
――「超かっこええやん」
その記憶は凪にもあった。人見知りで挙動不審で不登校気味で、最初の授業だったから緊張していた。自分の価値を証明するために、スケッチブックに向かって絶叫していたのだ。
「話しかけてみても、言うてることわからんくて日本語に聞こえんし、『あぁ、こういう子を「天才」って言うんやろな』って思ったけどなぁ」
「私なんかが天才なわけないじゃん。ただの怠惰なコミュ障だよ」
「凪のイラストを待ってるファンは、凪が思ってる以上にたくさんおるよ。『更新まだかな』ってコメント、よぉ見るもん」
「へぇ、そうなんだ……」
「でも、『描くのが辛い』って気持ちは、わかるなぁ」
「セイラちゃんもあるの!?」
「そんなの、しょっちゅうやん」
「そういう時、どうしてる?」
「んー。気分転換にどっか遊びに行くとか、体調整えるために休むとか――」
「休む以外で何か無いっすか?」
「せやなぁ、あとは原点回帰してみるとか」
「原点回帰?」
「絵を描くキッカケになった作品を拝むんよ」
凪は、クローゼットの奥に挟まっていた絵本を引き抜いた。
タイトルは『森のルーミン ドーナツがもらえる絵』。
このシリーズの絵本は実家に何十冊もあったが、この本はお気に入りだった。
絵本の上辺に積もっていた黒い埃をティッシュで拭き取り、一ページ目をめくると、絵を描いているボロゾーキンのイラストが載っていた。
主な登場人物はルーミンという名前の子供のカバと、ボロゾーキンという旅人だ。
ある日ルーミンは、親友のボロゾーキンが、描いた絵をプレゼントすることでドーナツをもらっている光景を目にした。
ドーナツのことが大好きだったルーミンは、自分もドーナツをもらうために絵を描いてみたが、ドーナツをもらえなかった。ルーミンはドーナツがもらえる絵の描き方を尋ねに、川辺で絵を描いているボロゾーキンのもとへとやってくる。
ところが、ドーナツがもらえる絵の描き方を教わろうとしても、ボロゾーキンは、不思議そうな顔でルーミンを見返してきた。
「僕は ドーナツをもらうために 絵を描いてるんじゃあないよ 僕は 絵を描きたいから 絵を描いているのさ」
ボロゾーキンはその時、川を泳ぐ小さな鯨たちの絵を描いていた。
「君も 描きたい絵を 思いっきり描いたらいい それはそれは とっても気持ちのいいことだから」
ルーミンが、百人が食べても食べきれないくらいに大きなドーナツをみんなで食べる絵を描くと、そばを通りかかったドーナツ屋さんがその絵を見つけて、山盛りのドーナツと交換することになった。
ルーミンは山盛りのドーナツの乗ったお皿を持って、ボロゾーキンのところへとやってきた。
「やったよ ボロゾーキン 僕が描きたいと思った絵を描いたら ドーナツがもらえたんだ」
ボロゾーキンは、優しく微笑んだ。
でも、返ってきたのは意外な言葉だった。
「それはちがうよ ルーミン ドーナツをもらえたのは たまたま君が ドーナツ屋さんの描きたかった絵を描いたからさ ドーナツをもらえる日もあれば もらえない日もある」
明日も大きなドーナツの絵を描こうと思っていたルーミンは落ち込んだ。
「そうなんだ……」
「でも 楽しく絵が描けたなら それだけでお腹はいっぱいになったろ? ドーナツは 食後のデザートなのさ」
ボロゾーキンは、ルーミンから貰ったドーナツを口にした。
「だからね ルーミン ドーナツをもらおうとして 絵を描いちゃあいけないよ」
「うん わかった」
ルーミンはボロゾーキンとドーナツを食べながら、夕方まで一緒に絵を描いて楽しんだ。
天使がお別れの時間だと言った夜、凪はそれでも絵を描けなかった自分に失望していた。
残りの一週間、何度もスケッチブックを開いては、何十時間も色鉛筆を握っていた。
それでも、途方もない白を埋めるだけのイメージが湧いてこなかった。
「明日からまた、ループしない日々が始まります。凪さんはこの一万時間の中で、やりたいことをやれましたか?」
「うーん、やりたいことはやれなかったけど、私にとって必要な時間は過ごせたと思う。ありがとね」
「いえいえ、私はあなたの天使ですから。明日からは見えない存在になりますが、ずっと、あなたのことを見守っていますよ」
「そうなんだ、それは心強いな」
一万時間ぶりに迎えた土曜日の朝の天気は、金曜日と変わらず晴れだった。
凪は午前中のうちに部屋の掃除を終わらせると、午後には転職サイトを開き、日曜には三社にエントリーして、月曜には上司に退職届を提出した。
「お前、辞めんの!?」
「残りの一ヶ月間で引き継ぎを行うので、その次の一ヶ月間は有給を消化させてください。よろしくお願いします」
「いやいや、急すぎるってー」
なんだかんだ言って上司は引き留めようとしてきたが、そこは断固拒否。
転職先の候補は業種ではなく、休暇の多さで選別していった。
三社のうち、内定通知が届いたのは一社だけ。キャンプ用品の製造販売を行っている中小企業だった。
志望理由を問われて「週五日勤務で、土日は必ず休めると書いてあったところです」と言ったら面接官に笑われた。
凪が感動したのは、ちゃんと土日は休みで、土日に入った場合はちゃんと平日に振替休日がもらえたことだった。前の職場ではまずあり得ない待遇だ。
「牧場さん、今度の土日空いてる?」
「出勤ですか?」
「いやいや、富士五湖でキャンプするんだけど、一緒にどう? あっ、でも、業務じゃないから――」
「行きます!!」
テントの設営やら、火起こしやら、初めて尽くしの作業は大変だったが、どれも新鮮な体験で楽しかった。
昼からビールを飲みながら、ハンモックに揺られて寝てみた凪は、世の中にこれ以上の幸福があるとは思えなくなっていた。
仕事で使っていたハンディサイズのメモ帳を取り出し、挟んでいたボールペンを何気なく握ると、そのペンが勝手に紙の上で躍りだした。
白い背景の中に描かれたのは、ハンモックに揺られながらくつろいでいるボロゾーキンのイラストだ。
揺れる青空を見上げながら、凪はまた缶ビールに口を付けた。
一万時間を差し上げます 犬塊サチ @inukai_sachi
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