06
ざあざあと雨が降る中で、一人の少女が一軒家の前に立っている。彼女の身体には幾つもの痣が浮かび、頬は腫れてしまっている。少しして、扉が開く。出てきた少女は驚いた顔をして、傷だらけの彼女へと歩み寄った。
――どうしたの、その傷!
――おとうさんに、殴られたの。
――お父さんに……?
――うん。お前は馬鹿だって、屑だって、いらない子だって、色々言われた。すごく、悲しかった……
――何それ……そんなの、絶対に間違ってるよ!
――え……?
――間違ってるに決まってるじゃん! 貴女は馬鹿じゃない、屑じゃない、いらない子なんかじゃ絶対にない! だって私は、貴女のことが大切だもん! どうしようもなく大切だよ! いなくなったら嫌だ、本当に本当に、嫌だよ……
――あはは、嬉しいな……
――私は貴女に、沢山助けられてきたよ。私が辛いことがあったとき、貴女はいつだって話を聞いてくれた、側にいてくれた。すっごく、すごく、助けられた。救われた。……ほら、取り敢えず家に入ろう? そんなに濡れちゃってたら風邪引くよ……
――あの、さ……
――何?
――わたし、生きてていいのかなあ……?
――そんなの、いいに決まってるじゃない! というか、生きてよ……今はすごく、辛いかもしれないけどさ、私、貴女が死んじゃったら、悲しいよ。本当に、悲しいよ……
――そっかあ……ありがとう。すごく、嬉しいな。
二人はそっと、抱きしめ合う。雨の香りが漂う世界で、身体を微かに震わせながら、長い間、そうしている。
コトノハは、ほのかに自らの口角を、緩める。
病室のベッドに、一人の老夫が横たわっている。その隣で椅子に座った老婦が、柔らかく微笑んでいる。
――長い間、ありがとうな。
――どうしたんですか、改まって。
――いや……思えば、色々なことがあったなと思ってな。
――そうですね、本当に。あなたとは、長い時間を過ごしましたものね。
――少しだけ、怖いなあ……
――何がですか?
――死んで、しまうのが。
――そうですね。きっと皆、そうだと思いますよ。
――でも……きみと生きることができて、本当に、よかった。
――嬉しい。わたしも、あなたと生きることができて、本当に幸せでした。
――ありがとう。
――こちらこそ、ありがとう。
老夫はそっと、目を閉じる。彼の皺だらけの手を、老婦は優しく握った。
窓の向こうに見えるのは、ほの白い満開の桜。
コトノハの目から一筋、涙が零れた。
目を開くと、見慣れた光景が広がっていた。
コトノハは、隣を見た。ソウヨウは少しばかり不安そうに、彼女の姿を見ていた。
「……どうだった?」
彼の問いに、コトノハは彼の手をそっと離しながら、微笑んだ。
「すごく……温かくて、優しくて、美しかったですよ」
「よかった」
「このネックレス、いつつくったのですか?」
「ずっと前から。君に一度、あのネックレスを貸して貰ったとき、愕然とした。君があの世界だけを直視しながら、眠っていることを知って。……確かに、君のネックレスが映すものは真実だよ。今も地球のどこかで、間違いなく起こっていることだ」
ソウヨウは微かに目を伏せながら、話し続ける。
「でも……君が今見たものも、疑いようのない真実だ。見てほしかった。暗いものばかりではなく、こういう明るいものも確かに存在するのだということを、おれは君に伝えたかったんだ」
コトノハは彼の言葉に、柔らかく笑った。
ベッドから身を離して、立ち上がる。自分よりも少し背が高いソウヨウの姿を、真っ直ぐに見据えた。
「奪おうかと、思っていたのです」
彼女は寂しそうに、告げた。
「言葉を全て奪ってしまえば、もう人間は傷付かずに済むのではないかと、そう思っていたのです。わたしが与えた言葉は、数え切れないほど沢山の人々を殺した。傷付けた……」
自身の手に爪を食い込ませながら、コトノハは語る。
「でも。貴方が見せてくれたから、思い出しました。言葉に救われた人だって、きっと、沢山いるのですね。そんな単純なことから、どうして目を逸らしていたのでしょう。ああ……もう誰も、言葉で誰かを、殺さないでほしい」
コトノハはネックレスの飾りに、手を触れた。透明の中に閉じ込められた白い粒が、ふうわりと、舞う。
「ありがとう、ソウヨウ」
そう言って、コトノハは彼の胸に、とんと寄り掛かった。ソウヨウは驚いたように目を見張ってから、彼女の華奢な体躯を、慈しむように抱きしめた。
二人を取り囲む花々が、淡く揺れている。
「ありがとう……」
コトノハの言葉がまた、天上の世界に零れ落ちて、
「どういたしまして」
――ソウヨウはそれを、優しく掬い上げた。
言の葉、双葉、悠久の庭園 汐海有真(白木犀) @tea_olive
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