未完成

 渡辺明の41手目、自分の手番で手が止まった。ここで羽生と二人で作り上げた極秘の研究手を放てば前例を外れ、誰しもが刮目し驚愕する悪魔の手が炸裂し、藤井聡太を盤上、血祭りに屠ることができる。しかし、手が伸びない。あまりにも、鮮烈過ぎる必勝の一手であった。今、渡辺の脳内では天秤が激しく揺れていた。棋王は既に永世称号を得ているが、名人位はあと2期でその歴史に名を刻める。しかも、相手として名乗りを上げてくるのは、間違いなく目の前にいる藤井聡太だ。錚々たる歴戦の雄を相手に敵にまわして、勝率8割以上の成績を残している化け物だ。ここでこの秘中の秘である不倶戴天の敵、羽生さんと創り上げた作戦を決行すれば棋王位は渡さずに済む。しかし、俺が真に手にしたいのは第20世の永世名人の称号。ここで放てば9割9厘は勝てる。しかし、検討期間が2日間しかなかったため、最後の詰めまでの道のりに抜けがないとも限らない。今、暫く温めたい。完全体として世に放ちたい。


「秘すれば花ーーー」


 その時、渡辺明の頭の中では、先日、佐藤天彦から「これは詫びです」と贈られたCDに収録されていたシューベルト「未完成」交響曲をバックに映画『風の谷のナウシカ』で登場した巨神兵の姿があった。しかし、映画と違ったのは、溶け落ちる肉体ではなく、何者をも寄せつけない強靭な肉体を持ち、すべての者を焼き尽くす完全体であったことだ。そして手には大きな棘を生やした赤いバラを持っていた。いつしか曲は「未完成」の次に書かれた「ザ・グレイト」に変わっていた。


 渡辺明は深く瞑目し、ここでの「未完成」こそが次の「ザ・グレイト」に繋がるのだ、と自らに言い聞かせながら、長い沈思黙考の後、静かに定跡手を指した。


 それは魔王が選択した悪魔の英断だったのか、それとも悪魔に唆された転落へと通じる放擲の大悪手だったのか!?


 脳内に流れる音楽はいつしか、シューベルトの「魔王」の不気味な激しい不協和音の連打に変わっていた。。。(完)

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小説 『棋王戦』 青山 翠雲 @DracheEins

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