呉越同舟

 現王者の藤井五冠にタイトル通算100期をかけて羽生永世七冠が挑むという新旧王者対決となった王将戦にひと月弱遅れること2月5日に棋王戦は開幕した。さすがは名人対竜王という棋界のツートップが剣を交えただけあって2勝2敗で迎えた最終第5局を前にとんでもない事件が起きた。なんと先行して行われていた王将戦最終の3月26日に行われた第7局で大方の予想を覆して、羽生永世七冠が藤井聡太に初めてタイトル防衛を失敗させ見事戴冠。タイトル通算100期の偉業も達成したのである。しかも、勝ち方が壮絶極まりなく、羽生が震える右手に自らの扇子から引き抜いた竹を突き刺して腱を切っての勝利というものであった。


 渡辺は病室に羽生を訪れていた。かねてより、この二人は覇権をかけて幾多もの干戈を交えてきた、言わば棋界で生き抜くためには不倶戴天の間柄であった。渡辺は羽生に頭を下げていた。


「羽生さん、対藤井対策として緊急研究会を開催させてほしい。将棋界のためです。」

 じっと渡辺の目を見つめた後、羽生は言った。

「いいでしょう。私はご覧のとおりもう満足にこの右手で将棋を指せない。通算100期も達成できた。自分が言うのも何だが、1強じゃあ面白くない。テニスの激しいラリーの応酬同様、好敵手居てこその熱戦となり、戦う者・見る者双方を魅了する。ここで渡辺さんが私に続けば将棋界のためにもなる。かつて、争っていた呉と越の旅人が船で一緒になった際、台風という難局にあっては、手を携えて協力しあってそれを乗り越えたという故事があります。呉越同舟はライバルがいがみ合うことではなく、難事に遭って連携することだ。対藤井攻略、お互いの全てを出し合って考案しましょう。」


 かくして、3月27日と28日の両日、渡辺明と羽生善治の極秘の研究会が行われ、二人の天才による究極の作戦検討を行い、渡辺棋王はこれは行けるぞ、との確信にも似た自信が体内に充溢してくるのを感じた。今や“逃走心”は微塵もなく、藤井との“闘争心”で満たされていた。

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