ココロを捉えるゾウ

八岐ロードショー

クリスマスのあとしまつ


 十二月二五日を過ぎたカシワ動物園は、再び街の小さな動物園に戻った。山奥の人里離れた場所にあるせいか、クリスマスや年末年始、その他大型連休以外では客足が伸びない小ぢんまりとした動物園だった。駅を降りても案内の看板が無く(園長いわく小さい張り紙が貼ってあったらしいが、風で飛んでいってしまったとのこと)、来客の大多数は昔ながらの常連か、わざわざネットで調べてやってくる物好きばかりだった。


 きし辰雄たつおは洗いたての作業服を身にまとい、小さな動物園の飼育員に戻った。



「あ、岸。メリークリスマス!」その声を聞いて、岸は愕然とした。最も檻に入れなければいけない男が目の前にいたからだ。「クリスマスどうだった? ヤリまくった? ヤリーマクリマス?」


 動物の健康チェックを終えた眞鍋まなべがロッカールームにやってきたのだった。鼻炎持ちで、一年を通して鼻水を垂らすハナタレ男だった。軍手で鼻水をよく拭くので、この男の鼻の下はいつも汚い。そして、この世で最も醜い存在の男だ。


「アジアゾウのあとは俺の健康チェックか?」


「金にならねえ仕事だけどな。今日の朝は快便だったか?」


 眞鍋は動物たちの健康リストの下に"岸"と名前を書きそうな勢いでチェックリストを構える。


「うるせえな」


 岸は眞鍋のリストをはたき落とそうとしたが、無駄に反射神経が高い眞鍋はバインダーを器用に回避させてそれを阻止した。


 眞鍋はこの動物園では唯一の同期だった。最初は真面目な飼育員を装っていたが、飲み会を経るにつれてボロが出た。飼育員業務と同じように、大人しいのは最初の一週間だけだった。「お前さ、なんで飼育員なんてクソみたいな仕事やろうと思ったわけ? 飼育員なんて動物がクソ流すのを見守るクソ仕事だぜ」この鼻炎男は、酒を飲むと鼻水が止まる。いつか息の根も止まればいいのにと思う。


「今日はその話しないでくれ」


「ってーと? えっ、もしかしてフラれた? 内蔵まで動物の臭いが染み付いてる人とはキスできないって?」


「……それ、誰かに言われたことある台詞か?」


「おん、前の彼女に言われたな。三軒目の飲み屋で。真顔で」


 どれほど女運のない男なのか。眞鍋は顔は優男だが、写真で見せられたことがある女はいつも別の女だ。それも、俺なら絶対に手は出さないようなギャルギャルしい肌露出高めの女ばかり。


「お前、もうちょっといい女探せよ。俺より自分の心配した方が良いぞ。あと、マシな香水買え。そして飲んどけ」


 岸は自分の汗と動物の匂いが巧みに染み付いたキャップを被ると、自然と仕事モードに入った。今日も一日、クソを見守るクソになるわけだ。


「お、そうだな! こんなこともあろうかと、今日の夜に合コンのセッティングしてあんからお前も来いよな」


「今日の夜? お前、明日早番だろ?」


 かく言う岸も、明日から三日間は早番だった。


「早番だろうが遅番だろうが、もたもたしてっとイイオンナがハイエナに捕まっちまうぜ」


「お前一人で行けよ。なんで傷心してる俺と群れようとするんだ」


「馬鹿だな。こういうのは、弱ってる獲物と狩りに行った方が成功率高いわけ。自然の摂理よ? ギンギンのオレと、プランプランのお前。どっちの生殖機能が女を振り向かせると思う?」


「朝から元気なやつだなお前は……。お前の大脳は下半身についてんのか?」


「たりめーよ! オレさ、」と、ここからの会話は割愛させていただこう。俺の中のフィルターが、この不純物極まりない眞鍋の性的欲求に関する様々な意見をカクヨム読者にお届けできないと判断したからだ。


「あーもう、話は終わりだ。お前の下ネタトークで始業開始時間とっくに過ぎちまったよ」


「ま、オレは早上がりだから終わる頃に連絡入れろよ。女のことは女で忘れるんだな」


 それでは血で血を洗うことになる。と、岸はこれ以上眞鍋に言葉を返すのは時間の無駄だと判断して口をつぐんだ。



 飼育員の業務の中で、最も心が癒されるのは餌やりの時間だ。いや、むしろ餌やりの時間以外の飼育員はみんな死んだ目をして働いている。


 餌やりに関する引き継ぎ業務のメモを見る。「市内のクリスマスで使われた廃棄ツリーが届いたので、それを適宜てきぎ食事に使ってください」とのことだった。


「……クリスマスツリーか」


 餌置き場には、大量に積み重なって──かのようで、ほとんど不法投棄に近い形で──置かれた針葉樹があった。


 何人のカップルがこのクリスマスツリーだったものを眺め、眺めるふりをしてその後の色々を考えていたのだろう。そう考えると、不埒な物に見えてしまう。早くアジアゾウの胃に詰め込んでやらなければいけない。


 岸はおもむろに針葉樹を一つ掴んで、引きずりながら餌置き場を出た。"故"クリスマスツリーを引きずり回すのは、案外気分が良かった。


 *****


「婚約指輪?」一世一代のプロポーズをした。だが、返ってきたのは嬉しいという感激の言葉でも感動の涙でもなく、疑問符付きの結婚指輪が突き返される、というものだっま。


「……えっと。結婚してほしい」


「いやいや。ちょっと待って。まだそんな話されたこともないのに」


「んー……。と。えっ、駄目?」


「駄目とかじゃないから。仕舞って」


 *****


 もしゃもしゃ。もしゃもしゃ。


 うん、たまにはこういうのも悪くない。


 いつもの代わり映えしない無難な餌も悪くないけど、たまにはそこまで美味しくも無いものを食べるのも悪くないわけだ。


 もしゃもしゃ。もしゃもしゃ。いつもの頑張り屋な飼育員が、いつにも増して私に視線をぶつけてくる。じっと見つめてくる。もしゃもしゃ。もしゃもしゃ。そんなに面白いか? 私の咀嚼する姿が。


 この飼育員はなぜか、私の食事から目を離さずに見張ってくる。ゾウが食事をすることがそんなに珍しいのか?


『はあ……。どうすりゃ良かったんだよ。結婚を前提に付き合ったんだぜ。それをお互いに分かってて、プロポーズするとしたらクリスマスだって思ってたのに。……マジできつい。あの、結婚指輪を仕舞えって言われた時の周囲からの視線は耐えられなかったな』


 ……もしゃもしゃ。


 なんだ、この男。あの例の彼女にプロポーズしたんか。でも失敗したんか。もしゃもしゃ。


『あの後予約したレストランも全部キャンセルして、家に帰ってからメッセージしても返信が返ってこなかった。……終わったなぁ』


 ……もっ。ぐふっ。ぐっ、く、苦しい……。


 ごくごく。……げっ。ふー。


 なんだこの飼育員。重いな。心の中が油まみれみたいに重い。読み切れんわ。胃もたれするわ。


 なるほどねぇ。プロポーズ、ってのがなんなのか分からんけど。要するにつがいになるための愛情表現か何かなんだろうなぁ。


 にしてもこの男、女々しいな。心の映像を覗く限り、傷ついてるのは女の方な気もするが……。人間ってのは分からんな。


『眞鍋の言う通りか。……忘れるには惜しい女性だったけど、連絡が取れない以上は仕方ない。ヤリまくるか。昨日ヤレなかったしな。ヤリてえな』


 駄目だこいつ。


 えいっ。


 *****


 温和なアジアゾウの咀嚼を眺めていた。すると突然、岸の顎をアッパーのように振り上げられた長い鼻が襲いかかった。


 体勢を崩した岸は、水場に尻もちをついて沈黙した。アッパーを受けた拍子に帽子が落ちて視野が広くなったせいか、目の前のアジアゾウが物凄く巨大な捕食者に見える。


 ……殺される。岸はそう思った。


 いや、もういっそ殺してくれ。クリスマスに散った俺を。用済みになったクリスマスツリーみたいに、無惨な俺の後始末も誰かにお願いしたい気分だった。


 *****


『ヤリたい! ……死にたい。ヤリたい! ……死にたい』


 何だこの男の心の中は。ちょっと元気づけてやろうと触ってやったら、情緒がぐっちゃぐちゃじゃないか。


 この壊れかけの飼育員に、私がしてやれることは何だ? 触ることは出来ない。喋ることが出来ればいいんだが、生憎あいにくどれだけ頑張っても会話することは叶わないらしいからな。ううむ。


 とりあえず、そうだな。


 叫ぶ元気も無さそうなこいつの代わりに、私が叫んでみるか。ぱおーーーん、ってな。


 *****


「パァァァァァァン!!」


 アジアゾウがけたたましい咆哮を上げる。


 岸は足がすくんで立ち上がれずに、逃げる意思も動かず、ただ鼻を天高く掲げるゾウの姿を見つめていた。


 ゾウって、何キロあるんだっけ。研修の時に習ったな。


 岸はゾウの体重を考えながら、その興奮したアジアゾウの様子を目に焼き付けていた。これが生涯最後の映像になるかもしれなかったからだ。


 思い返せば、つまらない人生だった。クソを見守るだけの、クソな仕事をする、クソみたいな俺。


 どうか力いっぱいに、このクソを踏みつけてくれ。


 未読スルーをかましている彼女に、別れの挨拶をしたかったな。ゾウに踏みつけられて見るも堪えない姿で死んだって知ったら、少しは俺の愚行を許してくれるだろうか。


 もっと、気にかければよかったか。彼女の心情について、もっと考えを巡らせるべきだった。


「パァァァァァァァァァ」


 アジアゾウは、咆哮をやめた。先程の威勢はどこへやら、鼻をもたげて鼻先をくいっ、くいっと、くねらせる。


 それはまるで、アジアゾウからのサムズアップのように思えた。応援、してくれているのか。


 頑張れ。そう言ってるようだった。言われているようだった。言われていると思いたいのかもしれない。


「あ、ありがとう」


 *****


 ふぅ。なんとなく、伝わったみたい。


 なんか、途中で死を覚悟して走馬灯見てたのは、やり過ぎかなと思ったけど。


 言葉が通じないなら、まあ。これくらい態度で示してやらんといけないな。


 さて。まあ私にできることはこれくらいだ。


 クリスマスのあとしまつに、戻るとしようか。


 案外、あのもしゃもしゃがクセになったりするんだな。


 *****


 デート場所は、小さな動物園だった。


 こんな大切な日に山奥に近い動物園を選んでしまったことに、岸は少し戸惑っていた。


「ねぇ、あのゾウのこと?」


 彼女の早織さおりが、嬉しそうにアジアゾウを指さして言った。まるで自分だけが知っている思い出の宝物を見せるようで、それが理解されるのかどうかわからないような恥ずかしさもある。


「そう。恩人なんだ」


「ふふ。殺されかけたんでしょ」


「違うよ。激励してくれたんだ」


「へぇー。ゾウの言葉が分かるなんて知らなかった」


「分からないよ。……でも、ゾウの方は多分。分かってるんだ」


 アジアゾウがのしのしとフェンスの近くにやってくる。早織が手を伸ばし、アジアゾウの鼻の頭に触れた。


「こ、こわ……」


「怖くないよ。ほら、手の平を出してみて」


 岸に言われたとおり、早織がゾウの前に手の平を出す。すると、ゾウの鼻先に掴まれていた小さな黒い箱が早織の手に置かれた。


「……えっ、何?」


「俺が頼んだんだ。……色々と考え込んで、早織のことを諦めようかって思った。でも、時間が必要だって、ゾウが教えてくれた気がしたんだ。鼻を長くして待て、ってね」


 早織に指輪の箱を手渡したアジアゾウは、紳士のように膝をついて鼻を曲げた。それはまるで、二人を祝福するようだった。


「結婚してください」岸はゾウに負けじと、深深と早織の前に跪く。


「……長くって。鼻って。……首でしょ」


「えっ?」


 岸が早織の言葉を聞き返そうと頭を上げると、そこには左手の手の甲が掲げられていた。涙が浮かんだ早織の笑顔に、岸は立ち上がってキスをした。




 お幸せにな、人間。あ、ちゃんと指輪の箱持つ前に鼻洗ったから安心せいよ。


 ……あと、あんたもこの彼女さんも知らんやろうけどな。もうすぐあんたお父ちゃんになるみたいや。


 ま、こんな湿っぽいのやめよか。これが今生の別れちゃうしな。今度は、ベビーちゃん双子連れて四人で来なはれ。


 鼻を長くして、待っとるで。

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