終の住処
梶野カメムシ
ツイノスミカ
《扉》を開けると、サッカースタジアムだった。
割れんばかりの歓声がフィールドに降り注ぐ。今しもリーグ予選突破を決定する、渾身の逆転ゴールが決まったのだ。立役者のストライカーはチームメイトにもみくちゃにされながら、熱狂する大観衆を見上げ、ちぎれんばかりに手を振っている。
「ワタナベさん、調子はどうですか?」
「見てわかんねーかな?! 最高だよ! 人生最高の瞬間だ!!」
「お元気そうで何よりです」
《扉》を開けると、教室の中だった。
教壇の教師に隠れて、彼女は前の席の背中に指で字を描く。
男子は振り返らないが、伝わっているのは真っ赤になった耳からわかる。
彼女は昨日、彼に告白された。その返事を、今、返したのだ。
「サツキさん、お加減はいかがですか?」
「とてもいいわよ。
私たち、ここからおつきあいを始めるの。
いろいろあった末に、結婚して幸せな家庭を築くのよ。
結婚式には、あなたも招待するわ、ロイ」
「楽しみにしています」
《扉》を開けると、豪華客船の野外ステージだった。
波音を伴奏に奏でるピアノの調べ。黒色灯に照らされたセレブのダンスは回遊魚のようにゆるやかで、自信に満ちている。
そんな乗客たちが、彼の歌に耳を奪われ、脚をとめる。
「カタオカだわ」「さすが世紀の歌い手」「最高の夜ね」
熱唱する男に水を差すことをせず、ロイは無言で《扉》を閉じた。
《扉》を開けると、古びた六畳の部屋だった。
窓の外に広がる一面の夕焼け。差し込む西日と子供の遊び声。窓際に立つ彼女と鉢植えのベゴニアの影が、橙色の畳に伸びている。
昨日までいた大豪邸とは、ずいぶんな様変わりだ。
「お引越しですか? フジナガさん」
問いに振り向いた老婆は、穏やかに微笑んだ。
「ここはね、最後に住んでいた部屋なの。
古くて狭かったけど、夕焼けだけは本当に綺麗に見えた」
「そのお姿も?」
「そう、これが本当の私。
ああ、嘘。本当じゃないわ。本物はベッドで寝たきりなんだから」
情報の欠如を想像で補完する脳の原理を応用した、全能型
白羽の矢が立ったのは、寝たきり老人だった。元より動かぬ身体であれば失うものはないという理屈で、家族を説き伏せ、実験に協力させた。
フルダイブVR対応の老人ホームは完全無人式で、下の世話を含む管理の一切を独立型AIが行う。老人たちは《想造》の仮想空間で夢の余生を謳歌し、科学者は現実世界でサンプルデータを受け取る仕組みだ。
何でも望みが叶う──そんな仮想空間のはずなのに。
「今朝ね、ふとこの部屋が見たくなったのよ。
ここに来るなら、私は私じゃないとだし。
それにしても変よね……どうしてかしらね。急に」
「そういう方は、たくさんおられます」
「そうなの?」
「はい。夢の世界を楽しまれても、さいごには家に戻られるんです」
「最後には?」「ええ、最期には」
「ああ、そういうこと。私ったら馬鹿ね」
ロイは答えなかった。
答えを要さぬ問いがあることは、すでに学習済みだった。
「ロイ、お願いがあるの。
この夕焼けが終わるまで、そばに居てくれない?」
「ご家族を《想造》された方がよろしいのでは」
「誰かに惜しまれるために生きてきたんじゃないわ。
湿っぽくない、AIの貴方がちょうどいいの」
「では、ご一緒しましょう」
「ありがとう、ロイ」
「貴方と夕焼けを見られて、本当によかった」
陽が落ちた闇の中、一人残されたロイは、立ち尽くす。
部屋すらない無の空間で、理論的には無意味な十数秒を。
黙祷と呼ぶに相応しい時間を。
ロイは、次の《扉》を開けた。
終の住処 梶野カメムシ @kamemushi_kazino
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