食後の珈琲
人肌恋しい、寒い十二月の末も末。人肌よりやや控えめな温度になったクレーム・アングレーズが、これよりドーヴァー海峡を越えてトリコロールの旗たなびく都へ。その旅路を創り出すべく、嘉穂は一部をベリーのムースに使って残ったフレンチ・メレンゲを取り上げる。
海を越え、目指すはアルプスの雪山が見える自由・平等・博愛の国。緩やかな弾力を持ち始めたアングレーズに雪山の白が近づいていく。
そして接したところから両者は混ざり、嘉穂の泡立て器によって融合する。途中落としたバニラの香りが華を添え、白と黄色のクリームは瞬く間に変貌を遂げ、そして……作り上げられるはクレーム・シブースト。いまは昔、十九世紀パリにおいてサントノーレ通りの菓子店で生まれたのを由来とするガトーは、店名をとってシブーストと名付けられたという。
サントノーレ通りといえば、パリの中心、一区に位置し(一部八区に入る)、オペラ座にも近く現在では高級ブティックのひしめくお洒落通り。こうして嘉穂のクリームは見事、パリジェンヌも(きっと)憧れる洗練された雰囲気を纏い……
それで終わりにはならないのが、パティシェ嘉穂のパティスリーです。
薄紅色の乙女よ、目醒めなさい。冷蔵庫から出ずるあなたはもう、崩れずしっかり自分の力で立てる姿に変身を遂げ、シブーストと共に嘉穂たちを救う使命を果たすのです。
ビスキュイ・ア・ラ・キュイエール、ムース・オ・フレーズ、そしてクレーム・シブースト。
嘉穂の家にバーナーは無い。菓子店シブーストには面目ないがバーナーでカラメルの面を作り出すこと
しかし、ここで諦めるのは許されぬだろう。許されぬのだが、まずはシブーストにも確固とした現し身を得てもらわねば。
その間、キッチンを占拠した諸々の器具類を撤退せねば。儀式とは邪魔があっては行えぬ。
再びケーキ型を冷蔵庫へ戻してさっさと洗い物を済ませ、来客用の取り皿を並べれば、その間にもイングランドからパリへ転じたクリームが新天地で落ち着きを得る。いまだ不安定だったクリームは冷気に晒され身を固めたようです。
和の心をもってして彼らをまとめ上げた嘉穂の最後の試練、それこそコンポジシオンのフィナーレ、ケーキの本髄とも言えるデコレーション。
ムースに使った生クリームはパックの半量しかない。残りのクリームを苺ジャムと共に優しいピンクのホイップにし、固まったシブーストの面へ。薄く上面全体に塗って、仕上げに星型口金で優美に円を描いたら、そこに残った苺を飾って、それはあたかも花冠のよう。
さあ、クリスマスのオーナメントを飾れば……
ピンポーン……
「嘉穂、お待たせ! ごめん、遅れた」
美澄を先頭に、皆が寒さで頬を上気させ部屋に入ってくる。お客様にはエアコン、スイッチオン。
「いま出来たところだよー。適当に荷物置いて、手洗うのにこっち洗面所」
「これワインとナッツと」
「お皿、出しといたから使って」
「はいこれ、親から珈琲」
「ゆうちゃんママ? ありがとうございますー」
さて手伝うよー、と張り切る友人たちに、嘉穂はこほんと咳払い。
「恐れ入ります。しかしもう出来ているのです」
狭い廊下(とも呼べないくらいだが)を通って居室に導くと、蛍光灯に照らされた食卓を前に、途端に皆の目が輝いた。
「すごい! なにこれローストビーフ?」
「サラダもあるねー、さすが野菜付き嘉穂」
「ちょっと待って、まさかソースも手作り?」
きゃあきゃあと空気が華やぐならば、やはり主役もお目見えさせよう。型から外したケーキを持てば、ひときわ大きな歓声が上がる。
「やったあ、嘉穂のケーキが今年もあるぅ!」
「苺大好き! ね、写真撮っていい?」
喜び溢れる言葉たちは、ここまで力を出し切った嘉穂を見る間に癒していく。
しかし一人、ゆうの言葉が、しかと現状を確認させる。
「でもでも待って、これ全部って高くついちゃったのでは」
さすが冷静な親友よ、宴を気がかりなく始めるには心晴れやかにありたいものである。精算大事。酔う前に。
「大丈夫だよー。えっと、お肉が八〇七円、苺は三九九、生クリームが二五七円で一四六三円と、卵は三つだけだから……」
レシートを確認しつつ計算すると、美澄がじれったいと口を出す。
「もう、細かいのいいよ、どんぶり勘定で」
「待って、あと野菜を足すから……大体二千円くらい?」
「え。ワイン二本とつまみで二八〇〇円くらいだけど」
合計四八〇〇円、予算は一人二千円。
一人当たりお勘定一二〇〇円、お釣り八百円。
「嘘っ安い!」
「すごい、嘉穂やばい」
「やったね、食べよ食べよー!」
冷めても美味しいのがローストビーフの良いところである。温度を気にせずおしゃべりに興じて。おつまみを並べて、ワインも注いで、いざ乾杯を……
「ああっ!」
グラスを持ち上げたところで、嘉穂が固まった。
「ど、どしたの、嘉穂……?」
全員がグラスを宙に止めたまま嘉穂を注視する。使命全うした英雄とは程遠い緊迫したその顔に。
「炭水化物……忘れた」
パンもご飯もパスタもない。ケーキは主に単糖、主食の多糖類とは違うのだ。
あまりの落ち度に刺客に急所を突かれた気分である。面目無い、幼子キリストよ。嘉穂はあなたの誕生にふさわしき夜を作り出せませんでし……。
「あたし、バゲット買ってきたよ」
「さほちゃん?!」
「だって誰も主食の担当、話してなかったし」
「女神さまぁぁ!」
持つべきものは親愛なる友なり。
かくして無事に、嘉穂たちの聖夜は成し遂げられたのである。人は和し、共に協力し、さすれば安寧は訪れる。
もういくつ寝るとお正月。クリスマスが終わればすぐに年始の準備で経済は(一部高値で)回り始めよう。
しかし嘉穂の年始前哨戦はすでに一部、澄んでいる。
伊達巻のための大量卵がもう
料理が美味しいは当たり前。重要なのは、いかにリーズナブルに、時短で、栄養満点かつお洒落に。
美味しければいいってもんじゃない!
☆おしまい☆
美味しければいいってもんじゃない——最高のクリスマス・ディナー 蜜柑桜 @Mican-Sakura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
名状し難いエッセイ/蜜柑桜
★51 エッセイ・ノンフィクション 完結済 8話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます