第6話 桐生旺輔、一縷の希望


一方その頃。


愚兄がどうしていたかというと―――


「う、嘘だろ……」


桐生麗奈の愚兄こと旺輔は、それはもう混乱の渦中にいた。

荒れ果てた巣はさながら台風が過ぎ去ったようで、部屋にあった趣味物も大量に消失してしまっている。


それどころか、彼の妹自身がこの場から消えてしまったのだから、流石のアラサーオタクも平常心ではいられなかった。


「麗奈……麗奈が……消えちまった……!」


がくりと膝をついた床には、見よう見真似で描いた魔法陣が広がっている。


本当は、毎夜残業上がりで疲れ切っている妹をちょっと笑わせてやりたかっただけなのだ。

だから蛍光塗料まで使ってそれっぽく仕上げてみた。それだけのはずだった。


まさかネットで見つけただけの魔法陣をいくつか組み合わせて描いためちゃくちゃな代物が、発動までするとは夢にも思っていなかったのだ。


「ちょっとどうすりゃいいのこれ? おい愚妹、返事してくれ頼むから! 俺が死ぬから! おかんに殺されるからあああ!!??」


旺輔は床に膝をついて妹を呼んだ。むしろ叫んだ。この状況をどうにかしたくて。

本当は夢だと思いたかった。けれど、自分は確かに黒い闇に吸い込まれていく妹の腕を掴んでいたのだ。

その感触は、今もありありと残っている。


「麗奈! 戻ってこい! 麗奈あああ!!!」


旺輔は妹が消えた天井に向けて彼女の名を強く呼び掛けた。ほとんど絶叫だった。

途端、階下からどたどたとものすごい速さで階段を駆け登ってくる音が響いてくる。


「っ五月蝿いよバカ息子!! あんた何時だと思ってんのっ!!」


「ぐはぁっ!」


ばあんとノーノックでドアをぶち開け入ってきた実母から空のペットボトルを投げつけられた旺輔は、そのまま床に撃沈した。


彼の母はふん、と鼻を鳴らし、部屋が静かになったことに満足して戻っていく。

けれど旺輔は、汚れた灰色のカーペットに描かれた魔法陣の上で横倒れになりつつ、だらだらと涙や鼻水を垂れ流していた。


「うう、ま、まじでやばい……妹を魔法陣で消滅させるとか、どんな鬼畜だよ。俺様これでも清く正しい自宅警備員だったのに……!」


後悔しても後の祭りとはこのことだと思いながら、旺輔はとんでもない事態になってしまったとしくしく泣いた。


糸目でアルカイックスマイルが売りの男が、本気の男泣きをしている光景は、きっとここに麗奈がいれば間髪入れずに「キモっ!!」とドン引いたことだろう。


けれど、麗奈はいない。


旺輔の妹は、旺輔が描いた魔法陣によって得体もしれないブラックホールに吸い込まれてしまったのだから。


「うっ、うっ、ううっ……すまねえ麗奈、俺の、俺のせいでぇっ……」


妹の生死さえ定かでない状況に、旺輔はえぐえぐと嗚咽を漏らし始めた。


―――けれど、その時。


ぴこん。


「ぐずっ、ぐすっ……っ、ん?」


滅多に鳴らないはずの、旺輔のスマホから通知音が聞こえた。

彼の友人はほとんどがネットの世界に生息していて、大抵ゲームアプリを通じて連絡してくるため、スマホ自体に送ってくるなんてことはまず無い。


あるのは、家族からのみである。

それは先程ブチ切れていった実母と、面だけは良い長兄、そして、妹の麗奈だ。


「誰だよ……こんな時に……」


実母がまだ文句を言っているのか、それとも長兄のくだらない命令か、どちらかだろうと思いながら旺輔は一応スマホの画面を確認してみることにした。

立ち上がり、パソコンデスクの前に歩いていって涙に濡れた目で置いていたスマホの通知画面を見る。


すると、そこには―――


【拝啓、愚兄殿……じゃない兄上様。

そちらでは、ちょうど桜の花が盛りの季節でしょうか。

愚兄殿にはますますご清祥の事と存じます。

この度は私、不詳の妹レイナを異世界へお送り下さり誠にありがとうございました。】


「え………」


旺輔は、糸目を珍しく大きく見開いた。


「れい、な?」


彼のスマホの通知画面には、たった今消えたはずの妹からのメッセージが、届いていたのである。


「い、異世界いいい!?」


「ぉ旺輔ぇ!! 五月蝿いって言ってんでしょうがあ!!」


叫ぶ旺輔を、階下から怒鳴る実母の声が、深夜の住宅街に木霊した。

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