第4話 略して子ケル
目を閉じる刹那見えたのは、光の矢らしき言語表現レベルの高いもの。
獣の断末魔が耳をつんざき、身を固めていた私はどおん、という何か大きなものが地面に崩れ落ちた音にびびって尻もちをついた。
尾てい骨めっちゃ痛い。
しかし痛いのは尻骨だけで、頭も首もがぶりといかれたはずなのに痛みは無かった。
痛覚が消えているなら死んだと納得もしようものの、しかし尻骨はしっかり痛い。
なので恐る恐る目を開けてみれば、目の前で真っ黒な巨体が草原にひっくり返っていた。
外見的にケルベロスなそれは、白目を向いて開けた口から真っ赤な舌をだらりと横に垂らしている。
あれだ。夏に灼熱のコンクリートの上を歩いた犬がなるやつだ。
が、眼前にある巨体は全く呼吸をしていなかった。
見るからに完全にこと切れている。
肉が焦げたような臭いがするのは、恐らく獣の胴体にぽっかりと空いた風穴のせいだろう。黒い毛も焼け焦げており、薄煙も上がっていた。何かの熱源によって『そうなった』であろうことは一目瞭然だ。
「た、助かっ……った?」
放心状態で呟く。
けれど人生はわりと甘くないことを、私は知っていた。
「ぎゃああまだいるー!?」
くたばった巨体の向こうから聞こえてくる唸り声。
他にも似たようなのが一匹、二匹、三匹、四匹、まで数えたところでやめた。
逃げるのが先だ。
「っ……!」
私は間髪入れずに立ち上がると無我夢中で草原を駆け抜けた。
光の矢について考えるのはひとまず置いておき、ひたすら走る。
走って、走って、走り続ける。
自分がどこに向かっているのかも全くわからないけれど、背後を猛然と追いかけてきている幾つもの足音から逃げ伸びるため、とにかく無我夢中で足を動かした。
「はぁっ、はっ、くっ、運動、不足がっ……!」
社畜OLといえど所詮デスクワークしかしていない足では大した持久力なんて無く、すぐに限界が見えてくる。
荒い呼吸で喉が干上がり、やがて血の味がし始めた頃には、足の感覚が無くなっていた。
それでも走った。
追いかけてくる唸り声や咆哮からして、一瞬でも立ち止まればたちまち食われてしまうと生き物の本能が訴えてくる。
ど正直に言って死にたくない。
こんなわけわからん場所で明らかグロい死に方なんてしたくなかった。
獣って熊もだけど内蔵から食うっていうし。いや考えたくもないわ。
「っ〜〜〜〜〜!」
走り続けて数分後、もう足も縺れかけていた時、前方に生い茂る樹々が見えた。
しめた。森だ。
鬱蒼とした深い森は黒々として、どこまで続いているのかもわからない。
けれど選択の余地などなかった。森ならば、足場は悪くとも樹の上に登ればやり過ごせるかも知れない。
ケルベロスが登ってきたら足で蹴落とそう。
そう一抹の期待を抱いてまっすぐに森に突っ込んだ。
「っち!」
その時、後ろの方から誰かの舌打ちみたいな音が聞こえた気がしたけれど、きっと気のせいだろう。だって、後ろにはあの犬の化け物しかいないはずだから。
「ええい! ままよ!」
昔のアニメみたいな台詞を口にして、魔の森とか名前が付いていそうな森林の中へと駆け込む。
すると、突然空気ががらっと変化した。
重苦しい、じめったい湿気が身体にまとわりつく。
全身が一気にずんと重くなったように歩く速度が遅くなり、まるで肩に鉛の塊を背負わされたような心地がした。
これじゃ追いつかれる。
獣の荒い息遣いはどんどん近づいていた。
「一か八か……!」
黒い森に入って数メートルしか進んでいないけれど、私はひとまず目の前にあった樹に手をかけ昇り始めた。
何の樹かはわからない。太さは両腕を伸ばしてもまだ足りないくらいの巨木で、ところどころにちょうど掴まれるくらいの窪みがあった。
ありがたいと思いながら、ロッククライミングの要領でせっせと登っていく。
大体人間二人分くらいの高さまで登った時、足元でぐるぐる言っているのが聞こえた。あのケルベロスだ。(もう名前はこれで良いだろう)奴らはでかい樹の根元ですんすん鼻を鳴らしている。私の臭いを嗅ぐな馬鹿野郎。
「来るな、来るなよ……!」
下を見て相手の出方を伺いながら慎重に上に移動していく。
「げっ」
もう少し登ったところで下を確認したら、ケルベロスは鋭い爪をざくりと樹肌に食い込ませ、ぐるると喉を鳴らしながら登ってこようとしていた。
何だあの爪。ピッケルか。これ上で飛び掛かられたらアウトでは。
だがまだ地面を走るよりは助かる確率があるかもしれない。そうでなきゃ困る。
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、私は一縷の希望に縋り登り続けた。本当に、何でこんな事になったんだろう。
少し前、会社で残業していた頃はまさか決死の木登りをすることになるなんて思ってもみなかった。
額から流れてきた汗が目の端に入ってきた。地味に痛い。そういやまだ化粧も落としていなかった。
マスカラはパンダだろうし下手すりゃ黒い汗と涙で化け物はこっちかもしれない。
まったくこれも全部愚兄のせいだ。帰ったら首絞めてやる。帰れたらだけど。
無数に別れた幹のうちなるべく太いものを選んで突き進んでいく。
やがてほの赤くなった空が見え始めて、生い茂る葉の群れから顔を出すと視界いっぱいに森の海が広がっていた。
ぶわりと広大な森の向こうに、夕日に変化していく太陽が見える。
どうやら日が暮れ始めているようだ。
ってめちゃめちゃ高いんですけど。
「ひ、こっ、怖あああ……!」
ひしっと樹の幹に抱きついて下を見ると、やや遠くに吠える声は聞こえるもののケルベロスの姿はない。
まだ下の方にいるらしい。私はほっと息を吐いて、鬱蒼と生い茂る森の果てを見つめた。
切れ目が見えない。一体どこまで続いているのか。もしかしてこれ、樹海レベルなのでは?
ざわりと揺れる葉擦れの音がさざなみに聞こえる。
富士の樹海なんてネットでしか見たことがないけれど、恐らく似たような感じなのだと思う。
「どうしろと……?」
だだ広い森の海で呆然とする。もしや早くも詰んでないだろうか。
上は樹海。下はケルベロス。
横移動は猿かモモンガならまだしも、私じゃ無理だ。
「もう嫌だ……」
嘆きの声は樹海のざわめきに攫われた。
「わん!」
「へ?」
そう私が絶望の淵に叩き落されていた最中である。
すぐそばから、犬の鳴き声が聞こえた。
「えっ―――」
横を向けば目の前ににょきっと伸びた細い樹の枝の上に、黒い子犬がいた。
ただし、頭部が三つある。
「こ、子供ぉ!?」
「がるるる……!」
驚きの余るのけぞる私に、真っ黒で三つの頭を持つ奇怪な子犬は唸りながら犬歯を剥き出していた。
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