第5話 迎えに来いよ、馬鹿兄貴
「がるるるっ!」
「っひ」
血走った目に宿る明らかな敵意と殺意。
その矛先は、私だ。
って何だこの子犬版。もしかして下のやつが手下か子を呼んだのか。
ゲームのモンスターが仲間呼ぶ的なあれか。
たらり。こめかみに伝う汗を感じながら、まだ子犬ならば対処できるだろうかと自問する。
その間にも子ケルベロス、略して子ケルは耐性を変え今にも私に飛び掛からんと膝を折り曲げていた。
来る気だ。
「ガアッ!!」
「うわぁっ!?」
子ケルが膝をバネにして勢いよくこっちに飛びかかってきた。
「っ」
私は咄嗟に右フックを繰り出し、まっすぐ向かってくる子ケルの一番右顔面に叩き込む。
拳に確かな手応えがあった。渾身の力を込めたかいがあったというものだ。
「っ……痛う……!」
しかし子ケルも黙ってはやられない。私に叩き込まれた右フックによる反動を利用し、尻で回転をかけ顔を左に振ったのだ。
結果、振り子のように押し出された子ケルの左側顔面が私の手に見事に食らいつく。
がぶりとやられたのは手の甲だ。見事に犬歯が突き刺さった皮膚からは、瞬く間に血が流れ出した。
そして子ケルは食らいついたが最後とばかりに私の手を離さない。
「くっそ……!」
私は思いっきり腕をぶん回し子ケルを振り落とさんとした。
子ケルの身体が宙に舞う。奴の犬歯は私の皮膚にしっかりと食い込んでいて、犬である胴体だけが赤くなり始めた空に浮いた。
瞬間、また、何かが光った。
「ぎゃんっ!!」
子ケルが悲鳴を上げた。同時に私の手から牙が抜ける。
「うっ!」
どさり。
樹の幹に子犬の身体が横倒れに落ちて、支える足を失った身体はそのままずるりと幹からずり落ち、ばさばさ音を立てながら下へと落下していった。
私は噛まれた右手を押さえて蹲った。ものすごく痛い。心臓の音もすごい。噛まれた場所がどくどく脈打っている。
栓を失ったからか傷口からは血が溢れ出し、スーツの上着も白いシャツも真っ赤に染まった。
「そうだ、止血、止血しなきゃ……」
恐怖と緊張で荒くなった息を整えながら、ポケットからハンカチを引っ張り出し傷に巻いた。
なるべくキツめに巻き付けて圧迫止血を試みる。
汗で手が滑るのが邪魔だ。髪の毛の間を流れていく汗の感覚が気持ち悪い。
気づけば顔も首も身体も、全身が汗でびっしょり濡れていた。
走った時の汗と冷や汗と、脂汗となんだか色々混ざっている気がする。
私はそのまま前のめりにどさりと樹の幹に倒れ込んだ。
右の頬にでこぼこした樹肌が当たる。顔を横に向けて、赤く暮れていく空と森の景色をぼうっと眺めながら葉擦れの音と虫の声、あと鳥の鳴き声なんかを聞き流す。
噛まれた傷がじんじん痛い。
小さいくせして子ケルの犬歯は結構な長さがあったのか、痛みは手の甲の奥の方、手のひらの辺りまで熱さを伴い広がっていた。
そういえば、下にいるはずのケルベロスの声が聞こえない。なぜかは知らんけど。
さっきの光についても、もう考えるのさえ億劫だった。
二回、確かに放たれた光。
一度目は親ケルベロスに食われかけた時、そして、今。
気付いてはいるものの、疲労が限界に達しているせいで脳が仕事を放棄している。
体力が無さすぎる自分が憎い。メンタルもそうだ。弱すぎる。
子ケルに噛まれた程度でこんなにもひよるとは。
だけど指一本動かしたくなかった。こんな樹の上で寝たら何かに襲われるか落ちて死ぬかもだけど。
ケルベロスの声がしなくても、降りるのはまだ怖い。
それに、なんだか頭が朦朧とする。
「つか、れた……」
そのまま、私は少しだけ目を閉じた。
眠りはしない。寝たら流石に死ぬ。
数分、風の音を聞きながら目を閉じてじっとする。
頭がぐらぐらする。さっきの子ケルに噛まれたのが原因なのか、疲労のせいかわからない。
もしもあの子ケルが狂犬病を持っていたら私はほぼ確実に死ぬだろう。
それとも毒か。もうどっちでも同じかもしれない。
「馬鹿、兄貴……」
私は樹の幹の上で目を閉じたまま、事の元凶である愚兄を罵倒した。
ぽつりと呟いた言葉が風に攫われ消えていく。
疲れた。もう、本当に。
そもそも、こちとら深夜残業上がりなのだ。
傷は痛いし、怖いし、帰りたいし。
「旺兄(おうにい)……」
心がだいぶ弱っているせいか、つい愚兄の名前なんてのも口走ってしまう。
桐生旺輔(きりゅうおうすけ)。
愚兄の名だ。
太陽の王の名を持ちながら日陰に生息する男は、今頃一体どうしているんだろう。
こんなことになって、愚兄に心底腹が立っているし殴りたい気持ちはもちろんある。
けれど、なぜか憎いとは思えないから不思議だ。
それはこんな風に私が困っている時、助けてくれるのは大抵あの愚兄だったからだ。
『おー、麗奈(れいな)、どうした?』
愚兄の普段の口癖が浮かぶ。
あんなふざけた兄ではあるけれど、昔からゲームで私が詰まるといつでも「しゃあねえな」と言いながら代わりにやってくれた。
難解なカラクリ屋敷ダンジョンのトラップも、高難度のアクションが必要な宝箱収穫も、全耐性持ちのラスボスだって、愚兄に頼めばほいほいっと軽くやっつけてくれたものだ。
中学二年。
父母の離婚や将来への不安に私が鬱々としていた頃だって、アニメのビデオ一本を手に現実逃避という心の防御法を教えてくれた。
私が一度死にかけたときも、助けてくれたのは愚兄だ。
あいつが居なかったら、私の人生は割と早くに終わっていたかもしれない。
なのに、今はその愚兄はいない。
助けてもらえない。
私、たった一人だ。
なんだかんだ言いながら、あんなのでもちゃんと兄として私を守ってくれていたんだなと思い出す。
だけどこんな時に限って愚兄はいないのだ。
どうして今は来てくれないんだろう。
そんなことをぼんやりと思い浮かべる。
「あほ……早く、迎えに、来いよ……馬鹿兄貴」
きっと今頃オカンに激怒されて土下座しているであろう愚兄の姿を思い浮かべながら、私は朦朧とする意識を手放した。
後には、啜り泣きのような風音を響かせる樹海と、虫の声だけが―――響いていた。
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