拝啓、兄上様!

国樹田 樹

第1話 糸目の悪魔


妹をヲタク世界へと引きずり込んでくれた、愛すべき全ての兄達へ。


拝啓、愚兄殿……じゃない、兄上様。


そちらでは、ちょうど桜の花が盛りの季節でしょうか。

兄上様にはますますご清祥の事と存じます。

この度は私、不詳の妹レイナを異世界へお送り下さり誠にありがとうございました。


「って……んなわけあるか! ふざけんな馬鹿兄貴! 一体何やってくれてんのマジで! ここどこよ! ……とか、書いた所で、届くわけないか……」


つるりとしたスマホの画面に大きな溜息を吐いてから、私は『野原』に寝っ転がった。

見上げた空は青く澄んでいて、うららかな日差しが大地に降り注いでいる。

若い青葉の良い香りがする。頬を撫でる風も心地よい。

こんな風に芝生で寝っ転がるなんていつぶりだろうか。


確か……思い出すのも悲しくなるくらい、昔だ。

そもそも明るい日の下にいること自体が久しぶりである。

毎日早朝から深夜まで、働き続ける社畜OLは太陽との縁が薄いのだ。


「はあー……染みる」


今の心情とはまったく異なる長閑な風景に、腹の底からため息が出る。


……深夜残業を乗り越えて、会社から確かに自宅へ帰ったはずなのに。

なぜに私は大草原の小さな家ならぬ、独りの女をしているのだろうか。

と一人ごちる。


あれれ〜? おっかしいぞぉ?


なんて身体は子供、頭脳は大人以上の眼鏡少年的な台詞がどこからか聞こえてくるようだ。

ちなみに私は某空手ねーちゃんより哀愁漂う〇ちゃん派である。

もう君ら元に戻らんで良いからそのまま成長して結婚してくれないか。と話が脱線した。

そうではない。私は名探偵アニメのカップリングを推したいわけでなく、なぜ今、自分が【こんな所】にいるのかと自問しているのだ。


「本当にここ、どこなんだろ……」


苦笑しながら零した問いに、風は答えを返してはくれない。

数枚の若葉が青い空の彼方へと飛んでいくのを胡乱な目で見送りながら、私は自らの身の上を振り返った。

ざああと響く葉擦れの音に乗せて、走馬灯のように流れ始めた記憶を辿る。


そして思う。


私の命運は恐らく、あの「糸目の悪魔」こと愚兄の妹として生まれた瞬間に、尽きていたのかもしれない―――と。


***


「よくぞ帰った。我が愚妹よ」


「消えろ愚兄」


玄関を開けて一秒、呼吸を止めたい奴がそこにいた。


虫の音も鳴り止む深夜一時。


残業上がりで疲労困憊の私を出迎えたのは、灰色のスウェット上下を着た身長百七十センチの子供部屋おっさんである。


顔立ちは闇落ちした◯なりかずきに似ており、糸目を通り越した目は眼球が迷子だ。

仏壇やお味噌汁のCMでいつか見たような面構え、といえば伝わりやすいだろうか。

とにかくそんな奴が、帰宅した玄関で仁王立ちしているのだ。


真剣な顔をするな。昇天させて星屑見せっぞ。


「どけ邪魔だ」


連日の深夜残業のせいか疲労が一瞬で殺意に変わる。


今ならヒールで人が殺せる気がした。そうだ、こいつを殺ればいいんじゃないか。

そう納得しつつ本日も十八時間履き続けたヒールを脱ぐ私の肩を、愚兄がおもむろにぽんぽん叩いた。


「まあそう言うな愚妹よ。本日もお勤めご苦労であった!」


労いが癪に触るのはきっとこいつくらいだろう。無駄に高いテンションにうんざりする。

ただでさえ回復不能な私の眉間が、普段よりも深い皺を刻む。


「黙れニート。いいからそこをどけ。私は風呂に入るのだ」


自宅警備員とは名ばかりの社会不適合者をしっしと手で払いのけ、私はその場を押し通らんとした。

が、今日に限って愚兄は「まあ、そう吠えるな」と私を宥めながら、気色悪い笑顔で背中に隠していたらしい『う〇い棒チーズ味』を右手に三本ちらつかせてくる。


「愚妹よ。これが何か、わかるな?」


瞬間、私の疲労が麻痺し、代わりに【今夜の酒のつまみ】センサーが働いた。


「寄越せっ!」


「おっと」


私は咄嗟にビジネスバッグを放り投げ、野太い指に挟まれた銀色の可愛い子ちゃんを奪取せんと右腕を伸ばした。

しかし、寸でのところで愚兄に避けられ指先が空を切る。


「っち」


「ふ。甘いな!」


愚兄は私との間にある十五センチの身長差を利用して、ふざけた顔でふりふりと人の頭の上で◯まい棒を揺らした。


ど畜生。自分の方が背が高いからって調子に乗りおって。


中学で成長が止まった私の身長は百五十五センチしかない。

つまり愚兄より十五センチも低いのだ。


流石に分が悪い。


そのうえ、奴はニートのくせして中々に動きが早い。

恐らく前世はGか何かだったのだろう。


余裕の表情で私を見下ろす愚兄の顔に風穴が開けばいいのにと念を込めて睨みあげると、愚兄は妖怪めいた顔でニタリと笑った。


瞬間、私の背中に怖気が走り脳内で警鐘が鳴り響く。


「愚兄貴様、一体何を企んでいる?」


そもそも、この愚兄が無償で私にお菓子を提供するはずがないのだ。

親切などという言葉とは決して相容れない存在であるからして。


これには絶対に裏がある。


嫌な予感に語尾を強めて言及すると、愚兄の糸目が珍しく細く開いた。

めったに見えない眼球が除き、ますます妖怪さが増す。


「ふっ。察しが良いなおぬし。だが今はまだその時ではない。ともかく、我が巣へ招待しよう。来たまえ」


「いちいち回りくどい……ってこら、行くとは言っとらん!」


妙に濁した物言いに内心身構えたが、さっさと歩いていく愚兄の手にあるう◯い棒を諦めきれなかった私は仕方なく後に続いた。


とはいっても二十七坪の二階建て木造家屋の平凡な我が家では、階段を上がればすぐ横が愚兄の部屋だ。


これは母が考えた防犯対策の一環で、泥棒が来たら真っ先に愚兄が盾になるようにとの栄誉ある配置である。

私の部屋は角部屋で、意図して愚兄の部屋から一番遠い場所にしてもらったのは内緒だ。


「さあ入るがよい」


「ちょっと、来るの久しぶりなんだけど、まさかGなんて出ないでしょうね?」


さながら執事が如くドアを開けた愚兄を前に、私は一歩踏み出すのを躊躇した。

愚兄の巣は浄化機能が無いタイプの腐海だ。何が生息していてもおかしくはない。


「ガスマスクの用意は?」


わりと本気で尋ねると、愚兄は壁に短い片腕を付いてやれやれ、と首を振る。


「愚妹よ。お前は兄を何だと思っているのかね? 流行りのスメルは嫌いかね」


「それあんたの汗臭だろうがふざけるな前世スカンクが」


「ひどっ! お兄様傷ついたわよ愚妹!!」


私のド正論に愚兄はたちまち泣き崩れた。リアクションが鬱陶しい。


「これでもし部屋に『◯まい棒徳用袋』が無かったら、今度タコわさの賞味期限切れ置いとくから」


「それお前が食うの忘れてたやつだろ! 俺に押し付けんな! つべこべ言わんと入りやがれ!」


「ちょっ……!」


立ち上がりざまに背中を蹴られ無理矢理室内に押し込まれた。

他人だったら普通に犯罪である。

おかげで私はたたらを踏みながらアラサー間近なおっさんの部屋に入ってしまった。


「何す……っうわくさっ! 汗臭いにも程があるわ!! って、……ん?」


まず一番にきたのは夏場の玉ねぎが腐ったような匂いだ。思わず鼻を押さえてしまうほどの強烈な臭気が六畳の和室に充満していた。これはもはや瘴気だ。


咄嗟に鼻を摘んで振り返り愚兄を睨んだものの、ふと足元の違和感に気付いて私は目線を下げた。


そこにあるのは築十年という年月を共に過ごした色んな染みだらけの灰色っぽいカーペットである。


確かもとはベージュだったはずだが、なぜ灰に染まっているのか。住んでいるのが廃人だからか。

俳人なら風流だったのに。いや思考が逸れた。


だが現実逃避したくもなるはずだ。足元の様子が、明らかにおかしいともなれば。


「……ちょっと愚兄」


「何だい愚妹や」


床に目線を留めたまま私が尋ねると、愚兄は後ろ手に扉を締めて機嫌良さげな相槌を打った。

謀られた気がするが気のせいか。


「この床、光ってるんだけど。それにこの模様、どう見ても魔法陣じゃないのこれ。あれか、ついに頭の中だけでなく部屋の床まで厨二化したのか」


「ふっふっふ。気付いたかね」


「気付くも何も主張しまくっとるわ!」


無駄に芝居がかった返答に容赦なく突っ込みを入れた。アニメとゲームの見過ぎだこいつは。


だが実際そうなのだ。


愚兄の部屋の床はなぜか白く淡い光を放っており、かつその根源は床いっぱいに描かれたどこかで見たことあるような無いような円と、ルーン文字っぽい不思議な記号や五芒星で成り立つ陣である。


なぜルーン文字だとわかったかについては、愚兄の影響としか言いようがない。


「うむ。愚妹にはこの兄自ら説明してやろう!」


異様な光景に中腰で固まる私を前にして、愚兄はにんまりとシリアルキラーみたいな顔で頷いた。


「まずこの光。予想通りこれは魔法陣だ。綺麗な円にルーン文字と五芒星とかどう考えてもそうだろう。どっかのゲームで見たことあるなってやつだ。エロイム◯ッサイムだ! あと俺は厨二病だがただの厨二ではない。アラサーを間近にしても厨二のポリシーを守り続けるネオ・厨二である! そこんところを間違えないでくれたまへ!」


「たまへって言うな虫唾が走る。で、何で私がその魔法陣の中に押し込められて、これを描いたらしい当人は外側の安全地帯らしきところにいるわけ。その眼球メガネごと潰してやろうか?」


くだらない持論を展開するクソ愚兄に、私は冷え切った目つきで返答した。


くどい、うざい、くさい、の三重苦を備えたこの愚兄を越える男には未だ出会っていないが、これに勝るのは無人島生活五年くらい送った人間ぐらいではなかろうか。人間窮地に立つと幻想の存在に話しかけると言うし。


それはともかく、なぜかこの魔法陣に入った瞬間から鳩尾部分がやたらと冷たい気がする。

肌もざわざわするし。

これすなわち悪寒だろうか。


私の本能が危険を訴えているのかもしれない。どうやら度が過ぎた厨二は人に恐怖を抱かせるらしい。


「おい愚兄」


「いやあネットで異世界転移の魔法陣ってのが載ってたからさ。ちょっくら試したくなったわけよ! で、描いてみたはいいものの、自分で上に立っても全然反応しなくてなぁ。光ってんのは発光塗料のせいなんだが、消す前に愚妹にも見せてやろうと思ってな!」


訝しむ私を前に愚兄は朗々と事の経緯を語ってみせた。小さな親切大きな迷惑とはこのことである。

あと自分で描いたくせに、しっかり陣の外に立っているのは一体どういう了見だ。


「まったく嬉しくないんだけど」


「厨二たるもの魔法陣があれば中央に立つが道理。我は求め訴える体験をさせてやっとるんだありがたく思え!」


はっと鼻で嘲笑って意気揚々とのたまう愚兄に、私の堪忍袋が切れるどころか破裂した。


「思えるかっ! こっちは残業帰りだっつってんでしょ早よ風呂入らせろ! あと私は厨二じゃない一緒にするな!!」


疲労困憊な私がなぜにこんな茶番に付き合わねばならんのか。憤るのも無理からぬことである。


だが愚兄には全く響いていないらしい。奴は大袈裟にによよよ、と嘆くふりをしてよろめいている。大根役者め。


「はあ〜っ。昔は俺がゲームで新しい技とか装備とか、キャラ見せるたんびに喜んでたっつうのに。いつの間にこんな可愛げがなくなったのかねぇ。お兄ちゃんは悲しいぞう。もう泣いちゃう」


「泣け。叫べ。脱水起こして死ね。もういい。私は風呂に入る。付き合ったのが馬鹿だった。う〇い棒は部屋に届けておいて」


「しゃあねえな」


いい加減時間の無駄だと切り捨ててから、私は愚兄がせっせと描いたであろうなんちゃって魔法陣から足を踏み出そうとした。


しかし、その瞬間。


異変が起こった。


「―――あれ」


「ん?」


くんっと後ろ髪引かれるように上半身だけが反動で揺れて、そのまま私はぽかんと口を開けていた。

身体は元の位置のままである。


というより、一歩たりとも動いていない。

理由は下半身が微動だにしていないからだ。


「え、何で??」


足下を見て、疑問をそのまま口にした。


「どうした愚妹」


今、一歩踏み出そうとしたはずなのに。


なぜか足がぴくりとも動かなかった。


その証拠に、私の足はまるで縫い付けられているかのように先程と全く同じ位置で魔法陣に貼り付いている。


自分でも冗談かと思った。

だけど実際、ふんっと力を込めても動かせない。

決して疲労のせいなどではない。


どうなってるんだ、これ?


「ちょっと何これ。冗談やめてよ、タチ悪いんだけど」


「いやお前、さっきから何言ってんの?」


苦笑しながら愚兄を見た。てっきりこの馬鹿が、瞬間接着剤か何かを仕込んで悪戯でもしたのかと思ったのだ。

それくらい、日常茶飯事な奴だから。


なのに、こういう時に限って変に期待を裏切る愚兄は、私の様子に本気で困惑していた。


嘘でしょ? もしかしてこれ、NOTトリック?


そう疑問符が浮かんだのも束の間、こおお、という音とともに床から青い光が立ち上り、次に私の身体が宙へと浮き上がっていく。


「「え?」」


私と愚兄の、声がハモった。

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