第4話

 澤田さんは、私たちの家まで子猫を届けてくれた。サービスというよりは、飼育環境を見届けるためらしい。


「小さいですね」

「大きくなりましたね」


 子猫二匹が入ったキャリーの蓋が開くなり、正反対の感想を漏らした私と夫に、澤田さんは小さく噴き出した。


「生後三ヶ月です。奥さんは久しぶりですからね、見違えたでしょう」

「ええ。動画はいただいてましたけど、実物は違いますね。──最初はケージに、ですよね」


 見知らぬ環境に移された子猫たちを、まずは狭いケージに入れて、落ち着かせなければならない。

 二匹がケージの中を探索する間に、人間たちは書類と金銭のやり取りのためにテーブルに移動した。終生責任を持って飼います、という誓約書。避妊・去勢手術や予防接種の証明書。血統書と領収書。

 書類ごとに澤田さんが細かな注釈を加えるのを、私と夫は並んで聞き入った。産科で医者に説明を受けた時と同じ構図だ。ただ、話題はまるで違う。確率や可能性の数値に一喜一憂するよりも、猫の話の方がずっと気が楽だった。


「そういえば──」


 話の切れ目に、私はふと思いついて尋ねた。


「猫って、お臍あるんですか?」

「お臍? それは、ありますよ。でも、毛があるから見えづらいですねえ。今なら、チャンスかもしれないですけど」


 澤田さんの視線の先、ケージの中でじゃれ合いを始めている子猫たちのお腹は、柔らかそうなピンク色の皮膚が剥き出しになっていた。避妊・去勢手術の時に剃ったのが、まだ生え揃っていないようだ。


「馴れてくれたら、見てみたいですね」


 私は動物の臍というものを見たことがない。母親がお腹を痛めた証を見たら、私はどう感じるのだろう。私はまた下腹に触れてみる。臍の代わりに傷がある私のお腹を。

 愚かで無意味だと分かっていても、まだ考えてしまう。母親から引き離されて生殖の機会を奪われた子猫たちは哀れなのか、ならば私はどうなのか。子宮のない女は、自由なのか不自由なのか。無邪気に戯れる子猫たちを見ていると、思い悩むのも無駄なことだとも思えてくる。そう思えただけでも猫を迎えたことに意味がある、だろうか。


「本当に、可愛いですね」


 夫の呟きが本心かどうかも分からない。でも、子孫を残せない子猫たちに、何か思ったのかもしれない。


      * * *


 澤田さんが帰った後、子猫たちは外に出せと鳴き始めた。ケージの探索に飽きたのだろうか。さも当然の権利を要求するかのような力強い鳴き声に、私と夫はすぐに屈した。鈴入りのボール、羽根の猫じゃらし、蹴りぐるみ──目先で揺れるものすべてに嬉々として飛びつく二匹は、小さくても確かに猛獣だった。


「可愛い、よね?」


 硬い表情の夫が心配になって尋ねてみると、彼は座り込んで玩具を動かしながら、一応は頷いた。


「子供の代わりにはならないけどね」

「分かってるって」


 危ういところに切り込んでくれたけれど、私は笑って答える。子猫を無事に迎えられた時点で、私の勝ちだった。


「旅行も滅多に行けなくなるよ」

「うん。あなたのそういうところが好きよ」


 突然の告白に、夫は手を止めた。玩具も止まり、雄の子猫が小さい顎でしっかりと「獲物」を捕らえ、奪い去っていった。お利口にひとり遊びを始めたに目を細めて、私は悪戯っぽく笑う。


「猫を飼うってなったら、真剣に考えてくれるところ。私に押し付けて出ていこうとか、思わないの」

「そう、だね。……だからこういうの止めようって言ったんだ」


 私が猫を飼いたがった理由を、夫はやっと悟っただろうか。遅延行為でしかなかったのだと。

 こうしなければ、私は彼が去るのを見送ることになっていただろう。な上に、妻に許されない言葉を吐いた男は捨てられるべきだと、彼は考えているようだったから。

 確かに、彼の例の失言は、私から精子提供の選択肢を完全に奪った。あんなことを言われては、夫の遺伝子を継がない子供を気にはなれない。でも、子供と同時に夫まで諦めろだなんて、残酷な話だ。だから私は思い通りにさせたくなかった。意地を通した勝者の余裕で、私は夫に微笑みかける。


「もう遅いよ。猫、返せる?」

「そんなことできないでしょう」


 夫は、心外、を絵に描いたような表情で目を剥いた。思った通りだ。澤田さんに対して気まずいとか面倒だとかではなく、彼はただ、子猫たちが翻弄されては可哀想だ、と考えているのだ。

 そういう人だから、私は終わりにしたくなかった。でも同時に、あの言葉について素直に謝らせてあげる気にはなれなかった。だから、怒りや苛立ちや絶望を──忘れるとは言わずとも、ある程度風化させるまでに、気を紛らわせる必要があったのだ。


「後悔しない?」


 雌の子猫を、胡坐をかいた膝の上で遊ばせながら、夫は短く尋ねた。


「すると思う。でも、今はこうしたかったの」


 私はあえて軽く笑った。その方が夫の気は楽なのではないか、と図々しく期待したかった。


「あなたの好きなように、って言ったから。俺は何も言えない」


 事実、夫は苦笑して、彼の股間に落ち着いた子猫を撫でた。いまだ玩具を抱え込んで暴れているきょうだいとは裏腹に、彼女は再び眠そうに目を細めて身体を丸め始めている。驚くほどの無防備さだった。


「寝ちゃった」

「お臍、見えるかな?」


 恐る恐る指をお腹に伸ばしても、子猫は軽く身じろぎするだけで嫌がる気配はなかった。ふわふわとした生えかけの毛も、ピンク色の地肌も、心臓がどきどきするほど柔らかくて温かい。


「……よく分からないね」


 ふたりして子猫のお腹を掻き回しても、臍の位置ははっきりとは分からなかった。


「そうだね」


 私がよほど見たかったのだと思ったのだろうか。夫はひどく残念そうな顔をした。


「見た目じゃ分からないねえ。お臍も、お腹の中も」

「……そうだね」


 子宮の有無の話だと気付いたのか、夫が顔を顰めた。それか、彼の精子のことだと思ったか。それもあるし、でも、それだけではない。


「傍からどう見えても良い、って思ったの」


 もう何度目になるのだろう、私は下腹に掌をあてた。服の上からでも、あの傷痕に触れたのだということは夫に分かるはずだ。ここのところの私の悩みの源。女性が解放された証。あるいは奪われた女性性の聖痕スティグマ

 あるかないかの小さな傷を撫でては、私は数えきれないもしも、を考えて来た。ぐるぐると回る思考、ぐるぐると渦巻く思い。そうして至った結論が仕方ない、だ。私は私の人生しか歩めない。


「で、あなたがいないと私じゃないな、って」


 今の時代、見た目では何も分からない。手を繋いで歩く男女は夫婦かもしれない。人工子宮で胎児を育てているかもしれないし、そんなことはないかもしれない。分かるのは、ふたりが笑っているかどうかくらいだ。


「本当に?」

「うん、多分。今のところは」


 私はやっぱり子供が欲しいと言い出すかもしれないし、夫はやっぱり非配偶者間精子提供にすべきだと言い出すかもしれない。私たちはまたひどい言い争いをすることになるかもしれない。でもそれはその時のこと、その時なりの結論に至れるはずだ。


「多分、かあ」

「そこは、幸せにする、後悔させないって言ってくれないと」

「ああ……仰る通り。頑張ります」


 ぎこちないけれど、私も夫も冗談めかした口調を装うことができた。お互いに対して言ったひどい言葉、取ったひどい態度を、なかったことにする振りができた。


 猫たちの名前を決めないとな、とぼんやりと思う。

 私も夫も猫たちも、生物としてはどこかしら欠けている。そんなもの同士で寄り集まっての暮らしも、きっと悪くないのだろう。

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猫の臍は見えない 悠井すみれ @Veilchen

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