第3話

「土曜日、キャットタワーが届くけど、組み立ては私がやるからね」


 通販の配送予定を見ながら夫に告げると、彼は無言で眉を顰めた。でも、私は笑顔で彼を威圧する。私がやることに口を出さないで、と。夫がもの言いたげにしているのには気付いている。でも、もう少しだ。もう少しで子猫が家にやってくる。そうなれば、夫も諦めてくれるだろう。


「こういうの、止めた方が良いと思う」


 でも、夫は私が思っていたよりも往生際が悪かった。あるいは、勇気を振り絞ったのだということは、分かる。彼は彼なりに私の幸せを望んでいることも。その上で付け込んでいるのは私の方だということも。


「こういうのって? 好きにして良いんでしょ? ずっと猫が飼いたかったんだ。もうブリーダーさんにも返事しちゃったんだけど。どの子にするか、って」

「……猫も生きてるんだから。あてつけで飼うのは良くないでしょう」


 ああ、優しい人だ。この人を伴侶として選んだ自分の目に改めて自信を持ちながら、私は何気ない声と笑顔を装って、言い張る。


「子供ができないなら、猫を飼っても良いじゃない?」


 私は既に譲歩したのだ、と。言外の言葉は伝わっただろう。私はもう、夫に痛みを伴う治療を試して欲しいとは思わない。彼が嫌ならそれで良い。でも、それなら、寂しさを埋める手段を模索したって良いだろう。


「……あんなこと言って、ごめん。そんなつもりじゃなくて──」

「何が? あなただって動揺してたんでしょ? もう良いの」


 気にしていない、よりは蒸し返すな、の意味を込めて私は威圧的に微笑んだ。でも、今日の彼は諦めが悪かった。


「俺とじゃなくてもあなたはできるでしょう。子供。別れるなら早い方が良い」

「ふたりの子供じゃないなら、いらない。何度も言わせないで」


 私はとうに切り替えたというのに、夫はまだ拘っているらしい。私たちは、子孫を残すことだけが目的の動物よりは、少しは進歩しているはずだ。愛し合って結婚した夫婦がずっと一緒に暮らすのは、幸せなことじゃない? なのにどうして、ひどく痛ましそうな顔をするのだろう。


 私に子供を持たせられないなら、別れた方が良いと夫は考えているのだ。私の幸せだとか未来だとかを勝手に決めつけるだなんてふざけている。そんな話を聞きたくないから、私は必死に猫の話をする羽目になっているのだ。


      * * *


 精子採取か、精子提供か。そもそも子供を持つことを諦めるのか。私と夫は何度となく話し合い、怒鳴り、泣き喚き、家の中では時にクッションが飛び交った。

 議論に疲れ果てた私たちは、時に味気ない食事を無言で呑み込み、時に背を向け合って眠った。そして、時に抱き合った。生殖には関わりなく、あるいはだからこそ、セックスは最も近しいもの同士のコミュニケーション手段として残っている。


 絶望的な意見の差を埋めようとしてどうにもならずにベッドに倒れ込んだ、何度目の夜だっただろう。裸で抱き合っていると、夫が手を伸ばして私の下腹を撫でた。ちょうど、子宮を摘出した傷痕がうっすらと残っている箇所を。


「昔なら、こんな思いしないでも子供、できてたのにね」


 違う時代だったら、というifは、何度となく私の胸に渦巻いていた。私に子宮があれば、お腹を痛めて産むのだったら、彼も痛みに耐えてくれただろうか。不妊の原因すら分からない時代だったら、授かりものだから、で諦められただろうか。あるいはもっと未来、一から生殖細胞を創造する技術が普及した時代だったら。私たちは、子供をどうやって作るかについて争わずに済んだかもしれない。


 夫も同じ思いなのだろうか、と。私は重い目蓋を上げて彼を見た。でも、彼は寂しそうに微笑んで呟いたのだ。


「あなたのは正常なんだから」


 そして夫は優しく私を抱き締めた。愛しげに、と──もう少しでそう信じるところだった。けれど彼の笑みは自嘲でしかないことに、私は気付いてしまった。


「……ねえ、それ、どういう意味?」


 彼が仄めかしたのは、私に子宮があって妊娠できる身体であったなら、夫以外の男性のをもらえば良い、ということではなかっただろうか。今の時代でなかったなら、そんなもできただろうに、と。


「私が、そういうことができる女だとでも?」


 私たちは、ふたりの子供、ふたりの将来について話し合っている最中だった。夫婦でなければしないはずの行為を終えた直後だった。なのに彼は勝手に寝取られた気分になっていた!


「……違う。そんなつもりじゃ──」

「離して!」


 もう、眠気などどこかに吹き飛んでいた。夫の腕に抱かれているのが、おぞましかった。どんな言い訳も効きたくなくて──気付けば、私は夫をベッドから突き落としていた。呆然とした顔で私を見上げる彼の顔は目に焼き付いているけれど、そこに自分が何を言ったかは覚えていない。きっと、聞くに堪えない罵詈雑言か、獣のように支離滅裂な叫び声だっただろう。夫を寝室から叩き出した後は、私はひと通り枕やブランケットに当たり散らし、泣き、吠えて、力尽きて目を閉じた。


 翌朝、夫は平身低頭の体で謝ってきた。曰く、どうかしていたとか、俺のせいなんだからとか、あなたの子供なら愛せるからとか。何を言っても答えなかった私に、彼は勝手に何らかの覚悟を決めたらしく、私の好きにして良いから、と言った。


 そして私は、じゃあ猫を飼いたい、と告げたのだ。

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